波限神社と書いて何と読むか、ヒントなしに分かる人はそう多くないと思う。 神社があるのは江戸時代に干拓によって作られた熱田新田の一番割に当たる場所だ。それまでここは遠浅の海だった。 そのことを知っている人なら、海の波から来ていると考えるのが普通だろう。熱田区の北の方、金山駅の南には波寄神社(なみよせじんじゃ)もあるし、波が限る、限界みたいな意味じゃないかと私も予想した。 しかし、答えは意外なものだった。祭神のウガヤフキアエズ(鵜茅葺不合命)から来ていると聞いて、なるほどと思った人は日本神話にかなり詳しい人だ。
『愛知縣神社名鑑』にはこうある。 「社伝に、慶長十五年(1610年)名古屋城築造に際し、加藤清正築城の大石を運ぶに先立ち鵜戸神宮より御分霊を受け時の堀川口の千年町船方の小島に鎮座。祈願して無事運搬するを得てあつく崇敬したと伝う」 この話、本当だろか。私は信じない。 加藤清正という人は尾張の中村生まれで、秀吉とは幼なじみで、勇猛であり、築城の名手だった。名古屋でも好かれているし、称えられてもいる。その分、清正が行ったことではないことも清正がやったことになっていることがけっこうある。名古屋城の石垣にある巨大な石は清正石と呼ばれているけど実際は黒田長政が運んできたものというのもそのひとつだ。 こうして神社がある以上、誰かが創建したには違いないし、それは堀川河口の小島に建てたというならその通りなのだろう。 ただ、鵜戸神宮からウガヤフキアエズを勧請して神社を建てたというのはどうにも納得できない。
鵜戸神宮(うどじんぐう/web)は宮崎年日南市にあって、豊玉姫(トヨタマヒメ)がウガヤフキアエズを産んだ産屋の跡に建てたとされる古い神社だ。 瓊瓊杵尊(ニニギ)の息子の火遠理命(ホオリ/山幸彦)との間にできた子供を産むため海国(わたつみのくに)から葦原中国(あしはらのなかつくに)にやってきて、海鵜(ウミウ)の羽根で産屋を作っていたら屋根が葺き終わらないうちに産気づいて子供が生まれてしまったと日本神話は語る。 鵜茅葺不合命の名前はここから来ている。鵜で葺くのが間に合わず、という意味だ。 波限神社の波限の読み方の答えは「なぎさ」だ。 ウガヤフキアエズの本名は実はとても長たらしい。『日本書紀』では彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)、『古事記』では天津日高日子波限建鵜草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)としている。 よく見ると波限という文字が入っているのが分かると思う。そして読み方は「なぎさ」だ。 昭和56年に波限神社と改称したそうだけど、えらく洒落た名前をつけたものだ。
話を戻すと、加藤清正が堀川の中州にウガヤフキアエズを祀る社を鵜戸神宮から勧請して建てたというのはやっぱり信じられない。 1610年に名古屋城(web)築城が始まって、清正は天守台の石垣を担当したのは間違いない。ただし、堀川はこのときまだできていない。福島正則が担当した堀川が掘られるのは名古屋城完成の後半で、清正が天守台を造るときはまだ掘り始めてさえいない。だから堀川の中洲に社を祀ることは不可能だ。 清正は当時まだ自然河川だった中川を使って石を運んだとされる。今の月島町あたりで陸揚げして、そこで石を加工してから陸路で運んだようだ。『尾張名所図会』(1844年)にも清正が大石の上に乗って号令しながら石を運んでいる様子が描かれている。 もし清正が名古屋城天守台の石を運ぶ前に安全祈願で何らかの社を祀ったとしたら、中川の河口か岸辺であったはずだ。そういった話は伝わっていない。 そもそも安全祈願にウガヤフキアエズを祀るという発想もおかしなものだ。
ウガヤフキアエズは母親が育児放棄してしまったため(本来の姿のワニに戻って出産していたところをホオリに見られてしまって恥をかかされたと怒って海国に帰ってしまった)、母親の妹の玉依姫(タマヨリヒメ)に育てられ、やがてそのタマヨリヒメと結婚して4人の子供を持つことになる。その末っ子が神倭伊波礼琵古命(かむやまといはれびこのみこと)で、後に初代天皇・神武天皇となる。 ウガヤフキアエズは特にこれといった活躍はしていない。神武天皇の父ということで名を残すことになった。母親が海人だから水属性がなくはないけど、一般的には農耕の神などとされることが多い。海運の神というのとはちょっと違う。 それに、鵜戸神宮は782年に桓武天皇の勅命で天台宗の別当が管理するようになり、平安時代には両部神道の霊地とされるなど、早くから神仏習合の神社になっていた。そのため、古社でありながら『延喜式』神名帳(927年)には載っていない。 両部神道というのは密教と神道が合体した宗教で、ちょっと特殊なものだ。江戸時代もそれは続いていたはずで、その頃、鵜戸神宮でウガヤフキアエズを祀っていたかというと違うんじゃないかと思う。
波限神社(の前身)がもともとあった堀川の中州は、現在の愛知時計電機(地図)があるところだ。江戸時代前期に埋め立てられて新田が作られた。 昭和14年(1939年)、愛知時計電機の工場拡張に伴い、神社は現在地に移された。 愛知時計は名前の通り、もともとは掛け時計を作るメーカーとして明治26年(1893年)に創業した。 ほどなくしてその技術力を買われて陸軍、海軍から部品の注文を受けるようになる。 大正から昭和にかけて事業を拡げ、航空機部門が作られ、それが愛知航空機として独立した。そこで彗星などの軍用機も作られることになる。 昭和20年(1945年)6月9日、米軍のB-29がこの地に飛来した。爆撃目標は愛知時計電機と愛知航空機の工場だった。 最初に出された空襲警報でいったんは避難した工員たちは、警報解除で工場に戻ったところ再び飛んできたB-29が爆弾を投下したため逃げるのが間に合わず2,000人を超える死者と多数の負傷者を出すことになった。 その巻き添えを食う形で波限神社も炎上、焼失した。 昭和25年(1950年)に仮殿が建てられ、昭和49年(1974年)に再建造営。現在の社殿ができたのが昭和56年(1981年)のことだ。波限神社と改称したのもこのときだった。それまで何という名前の神社だったのかは調べがつかなかった。
『名古屋市史 社寺編』(大正4年/1915年)は「明治初年の勧請なり」と書いている。 これまた本当だろうかと目を疑った。これが本当なら江戸時代初期に清正がウガヤフキアエズを祀った云々というのはすべて作り話ということになってしまう。 しかし、堀川の中洲に何らかの社があったというのが嘘とは思えない。それが今の波限神社の前身とすれば、明治初年にあらたに社殿を建てて体裁を整えたということかもしれない。 明治5年に村社に列格しているから、明治初年の新造とは考えにくい。 明治35年頃に改造遷宮したとも『名古屋市史 社寺編』は書く。 今昔マップは昭和以前も以後も鳥居マークが描かれないので手がかりは掴めない。
名古屋の人たちが清正を慕って作りだしたお話と言ってしまえばそれまでだけど、清正が皆に高く買われていたからこそ生まれたエピソードとも言える。 清正は中村区に八幡社などいくつか神社を創建したという話も伝わっているのだけど、それも怪しい。清正という人は自分が神社を建てるという発想がなかったのではないだろうか。領国の熊本にも、清正を祀った加藤神社はあっても清正が創建した神社があるという話は聞かない。 清正は日蓮宗の熱心な信徒だったので、日蓮宗の寺はいくつか建てている。そのこともあって、神社にはあまり興味がなかったのではないか。 そもそも、戦国武将がウガヤフキアエズのことを知っていたかどうかというのもある。 すっかり熊本の人となってしまった清正公の足跡が、ひとつでも多く生まれ故郷の名古屋に残っているのは悪いことではないという言い方もできるだろうか。
作成日 2017.5.4(最終更新日 2019.8.30)
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