波限神社

清正がウガヤフキアエズを祀ったって本当か?

波限神社鳥居と拝殿

読み方 なぎさ-じんじゃ
所在地 名古屋市熱田区一番2-45-8 地図
創建年 1610年(江戸時代初期)
社格等 村社・十五等級
祭神

鵜茅葺不合命(うがやふきあえずのみこと)

アクセス

・地下鉄名港線「六番町駅」から徒歩約22分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 波限神社と書いて何と読むか、ヒントなしに分かる人はそう多くないと思う。
 神社があるのは熱田一番で、かつてここは遠浅の海だった。そのことを知っている人なら、海の波から来ていると考えるのが普通だろう。熱田区の北の方、金山駅の南には波寄神社(なみよせじんじゃ)もあるし、波が限る、限界みたいな意味じゃないかと私も予想した。
 しかし、答えは意外なところにあった。祭神のウガヤフキアエズ(鵜茅葺不合命)から来ていると聞いて、なるほどと思った人は日本神話にかなり詳しい人だ。

『愛知縣神社名鑑』にはこうある。
「社伝に、慶長十五年(1610年)名古屋城築造に際し、加藤清正築城の大石を運ぶに先立ち鵜戸神宮より御分霊を受け時の堀川口の千年町船方の小島に鎮座。祈願して無事運搬するを得てあつく崇敬したと伝う」

 この話、本当だろか。私ははっきり言って信じていない。
 加藤清正という人は尾張の中村生まれで、秀吉とは幼なじみで、勇猛であり、築城の名手だった。名古屋でも好かれているし、称えられてもいる。その分、清正が行ったことではないことも清正がやったことになっていることがけっこうある。名古屋城の石垣にある巨大な石は清正石と呼ばれているけど実際は黒田長政が運んできたものというのもそのひとつだ。
 こうして神社がある以上、誰かが創建したには違いないし、それは堀川河口の小島に建てたというならその通りなのだろう。
 ただ、鵜戸神宮からウガヤフキアエズを勧請して神社を建てたというのはどうにも腑に落ちない。

 鵜戸神宮(うどじんぐう)は宮崎年日南市にあって、豊玉姫(トヨタマヒメ)がウガヤフキアエズを産んだ産屋の跡に建てたとされる古い神社だ。
 ニニギの息子のホオリ(火遠理命/山幸彦)との間にできた子供を産むため海国(わたつみのくに)から葦原中国(あしはらのなかつくに)にやってきて、海鵜(ウミウ)の羽根で産屋を作っていたら屋根が葺き終わらないうちに産気づいて子供が生まれてしまったという。
 鵜茅葺不合命の名前はここから来ている。つまり、鵜で葺くのが間に合わず、という意味だ。
 波限神社の波限の読み方の答えは「なぎさ」だ。
 ウガヤフキアエズの本名は実はとても長たらしい。『日本書紀』では彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)、『古事記』では天津日高日子波限建鵜草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)としている。
 よく見ると波限という文字が入っているのが分かると思う。そして読み方は「なぎさ」だ。
 昭和56年に波限神社と改称したそうだけど、えらくしゃれた名前をつけたものだ。

 話を戻すと、加藤清正が堀川の中州にウガヤフキアエズを祀る神社を鵜戸神宮から勧請して建てたというのはやっぱり信じられない。
 1610年に名古屋城築城が始まって、清正は天守台の石垣を担当することになり、その石を堀川を使って運んだのは確かだ。船の事故が起こったことから神社を建てたとも、無事に工事が終わることを願って創建されたともいう。
 しかし、何故それがウガヤフキアエズだったのかが分からない。
 ウガヤフキアエズは母親が育児放棄してしまったため(本来の姿のワニに戻っていたところをホオリに見られてしまって海国に逃げ帰ってしまった)、母親の妹のタマヨリヒメ(玉依姫)に育てられ、やがてそのタマヨリヒメと結婚し4人の子供を持つことになる。その末っ子が神倭伊波礼琵古命(かむやまといはれびこのみこと)で、後に初代天皇・神武天皇となる。
 ウガヤフキアエズは特にこれといった活躍はしていない。神武天皇の父ということで名を残すことになった。母親が海人だから水属性がなくはないけど、一般的には農業の神などとされることが多い。海運の神というのとはちょっと違う。
 それに、鵜戸神宮は782年に桓武天皇の勅命で天台宗の別当が管理するようになり、平安時代には両部神道の霊地とされるなど、早くから神仏習合の神社になっていた。そのため、古社でありながら『延喜式』には載っていない。
 両部神道というのは密教と神道が合体した宗教で、ちょっと特殊なものだ。江戸時代もそれは続いていたはずで、その頃、鵜戸神宮でウガヤフキアエズを祀っていたかというと違うんじゃないかと思う。
 もし、加藤清正が石垣運搬の無事を願って神社を建てたとするなら、それはウガヤフキアエズを祀ったものではない可能性が高い。鵜戸神宮から勧請というのはどこから出てきた話なのだろう。
 ついでに書くと、城造りの名手といわれた加藤清正がもっとも得意だったのが石垣作りで、名古屋城天守の天守台をたった3ヶ月で完成させてしまった。

 波限神社がもともとあった堀川の中州は、現在の愛知時計電機(地図)があるところだ。江戸時代前期に埋め立てられて新田が作られた。
 昭和14年(1939年)、愛知時計電機の工場拡張に伴い、神社は現在地に移された。
 愛知時計は名前の通り、もともとは掛け時計を作るメーカーとして明治26年(1893年)に創業した。
 ほどなくしてその技術力を買われて陸軍、海軍から部品の注文を受けるようになる。
 大正から昭和にかけて事業を拡げ、航空機部門が作られ、それが愛知航空機として独立した。そこで彗星などの軍用機も作られることになる。
 昭和20年(1945年)6月9日、米軍のB-29が飛来した。爆撃目標は愛知時計電機と愛知航空機の工場だった。
 最初に出された空襲警報でいったんは避難した工員たちは、警報解除で工場に戻ったところ再び飛んできたB-29が爆弾を投下したため逃げるのが間に合わず2,000人を超える死者と多数の負傷者を出すことになった。
 その巻き添えを食う形で波限神社も炎上、焼失した。
 昭和25年(1950年)に仮殿が建てられ、昭和49年(1974年)に再建造営。現在の社殿ができたのが昭和56年(1981年)のことだ。波限神社と改称したのもこのときだった。それまで何という名前の神社だったのかは調べがつかなかった。

 以上のことを考え合わせると、やはり波限神社は加藤清正が鵜戸神宮からウガヤフキアエズを勧請して建てた神社ではないだろうということになりそうだ。
 名古屋の人たちが清正を慕って作りだしたお話と言ってしまえば身も蓋もないけれど、それだけ清正が皆に高く買われていたからこそ生まれたエピソードという見方もできる。
 清正は中村区にいくつか神社を創建したという話も伝わっているのだけど、それもやや怪しいところがある。清正という人は自分が神社を建てるという発想がなかったのではないだろうか。領国の熊本にも、清正を祀った加藤神社はあっても清正が創建した神社があるという話は聞かない。
 清正は日蓮宗の熱心な信徒だったので、日蓮宗の寺はたくさん建てている。そのこともあって、神社にはあまり興味がなかったのではないか。
 そもそも、戦国武将がウガヤフキアエズのことを知っていたかどうかというのもある。
 まあでも、すっかり熊本の人となってしまった清正公の足跡がひとつでも多く生まれ故郷の名古屋に残っているのは悪いことではない。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

波限神社を読めるだろうか

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