マンションと民家の間の一角に生け垣に囲まれて行儀よく収まっている小さな神社。 石灯籠の向かって左手には「絹波白龍大権現」、右手には「南無聖観世音菩薩」と彫られている。 裏に刻まれた日付は「昭和三十四年十一月二十三日建之」となっている。 正式な社名は分からないので、とりあえず白龍大権現としておく。 「絹波」というのが何を意味しているのかは分からない。地名ではなさそうだし、人の名前でもないだろう。読み方は「きぬなみ」か「きぬは」か。絹といえば蚕(かいこ)だけど、蚕と白龍は上手くつながらない。 江戸時代の初めまでこのあたりは海だったから、絹のような波から来ているだろうか。しかし、この社がそこまでさかのぼれるかどうか。 白龍神を祀る場合は、白龍大神や白龍明神とするところが多いのだけど、大権現とするところはあまりないのではないか。私は初めて見た。 「南無聖観世音菩薩」とあるものの、それらしい観音像は見当たらない。 石灯籠にある昭和34年(1959年)は伊勢湾台風があった年だ。台風が来たのが9月26日で、石灯籠に刻まれた日付が11月23日だから、台風の約2ヶ月後に奉納されたことになる。鎮魂の意味もあったのだろう。 神社そのものはそれ以前からあったのではないかと思う。 このすぐ北に素盞嗚神社(須成町)がある。これは熱田新田の十四番割の氏神として創建された神社で、創建は1647年頃とされる。 これだけ近い距離にあるから素盞嗚神社との関係も考えられるのだけど、直接結びつくような手がかりは得られなかった。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、素盞嗚神社は集落の北西のはずれに位置していたことが分かる。 少し南を南北に通っている道路は、明治以降に新東海道とされた道だ。今は東海通となっている。 そこから南へ向かう通り沿いに本宮町の龍神社がある。 明治時代は白龍大権現がある場所はまだ田んぼだった。この場所にぽつぽつ家が建ち始めるのは戦前から戦中にかけてのことだ。戦後にこのあたりも区画整理されて、1960年代以降はすっかり住宅地となった。 白龍大権現の東隣のマンション(スナリウム)が建てられたのは2005年のことだそうだ。そのとき神社も何らかの影響を受けたと考えられる。遷座もあったかもしれない。
いくつか手がかりはあるものの、実際のところは何も分からない。いつ誰がどこに白龍大権現を祀ったのが始まりなのか。いつからここにあるのか。南無聖観世音菩薩とは何を指しているのか。 これ以上のことを知るためには古くからこのあたりに住んでいる人にでも教えてもらうしかない。 榊は枯れ果てているものの、花はそれほど古そうではない。「白鶴 特別純米酒 山田錦」と「サントリー ウイスキー角瓶」が供えられていて誰も持っていかないところを見ると治安のいい町のようだ。 生け垣の手入れもされていて、ぱっと見きれいな神社だから、こまめに榊を取り替えたり掃除をしたりすればぐっと印象はよくなるはずだ。小さいながらもいい気を発しているように感じられた。
作成日 2018.10.5(最終更新日 2019.8.4)
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