上野天満宮、桜天神社とあわせて名古屋三天神と呼ばれている。 江戸時代前期、四代将軍・徳川家綱は教育や学問に力を入れる文教政治を行い、各藩にもそれを奨励した。世の中が平和になった時代だ。 尾張藩二代藩主の徳川光友も同じような政治を目指しており、尾張藩の学問奨励の一環として、学問の神様と呼ばれた菅原道真を祀る神社を建てることにした。1672年、九州の太宰府天満宮(web)から勧請して建てたのが天神社だった。 山田村のこの場所が選ばれたのは、名古屋城(web)から見て北東の方角で、鬼門除けを兼ねたためとされている。また、山田村ならびに城下の人々の守護の役割も担っていた。
『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。 「社伝に、四代将軍徳川家綱、広く学問を奨励して、江戸に昌平坂学問所を開いた。尾張藩でも藩主義直、寛文十二年(1672)文道の祖菅原道真の神霊を山田村に学問祈願所を建て祠る。藩主以下藩士一同朝夕山田村に向い遙拝して文武の上達を祈願し併せて藩の厄除方除の神として祭った。明治5年村社に列格し、その後指定社となる。大正5年7月社殿を改築、昭和45年10月1日、八級社に昇級、昭和51年、社名天神社を山田天満宮に改称する。昭和58年8月23日、金神社を合併した。矢田川の橋を天神橋というのは社名を仰ぎ名づける」 義直は1650年に死去しているので1672年に藩主義直が建てたというのは間違っている。1672年当時は二代藩主光友だった。 金神社は現在、境内社となっていて、金運アップの御利益があるということでこちらの方が人気が高いくらいになっている。そのあたりの詳細は金神社のページに書いた。
『尾張志』(1844年)の山田村の項には「大将軍ノ社 天神ノ社」が載っている。天神ノ社が山田天満宮のことで、大将軍ノ社は今の金神社に当たる。 藩主光友が建てた神社にしては扱いが小さいというか、何の説明もないのは気になるところだ。 『尾張徇行記』(1822年)では山田村の項に神社について何も書かれない。この天神社は本当に光友が建てたものかどうか疑わしく思えるのだけどどうなんだろう。 『寛文村無覚書』は1655年から1658年ごろに調査したものを1670年ごろにまとめたとされているから1672年創建の天神社は載っていない。 「社壱ヶ所 大神宮 瀬古村祢宜 吉大夫持分 社内年貢地」とあり、これが今の金神社のことだ。
現在の祭神は菅原道真に加えて誉田別尊と木花開耶姫命になっている。誉田別尊は応神天皇のことで八幡社の祭神だっただろうし、木花開耶姫命は富士山の女神で浅間社の祭神だ。この二柱がいつどういう経緯で山田天満宮に祀られるようになったのだろう。そのあたりについて『愛知縣神社名鑑』には何も書かれておらず、調べがつかなかった。
位置的なことをいうと、少し西を南北に走っている通りがかつての下街道で(今の19号線)、山田村の集落はこの街道沿いにあった。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、天神社があるのは集落の中央やや南寄りの東のはずれだったことが分かる。ただし、明治、大正の地図には鳥居マークが描かれておらず、鳥居マークが現れるのは1932年(昭和7年)の地図からだ。それまでは小さな祠程度のものだったのかもしれない。
名古屋三大天神のひとつということで、冬場は受験の合格祈願に訪れる人が多い。名古屋の天満宮では山田天満宮が一番合格実績が高いという噂が噂を呼んで県外から訪れる受験生関係者もいるという。 恋の三社巡りのひとつでもあり、若い女性も参拝に訪れる。山田天満宮にある御嶽神社の「よりそい石」(道祖神のようなもの)、高牟神社(たかむじんじゃ)の「古井(恋)の水」(古くからわき出している井戸水)、城山八幡宮の「連理木」(市内最大のアベマキで一度離れた幹が再び一体化している)を巡ってスタンプを集めると恋愛運がアップするということになっている。以前は晴明神社だったのだけど常駐する人がいないということで山田天満宮に変更になった。 地元の女子高生が考えたアイディアに神社が乗っかっていつしか定着した。 天満宮といえばやはり菅原道真ゆかりの梅ということで、山田天満宮も梅の木を植えている。梅の季節に訪れることをオススメしたい。
作成日 2017.2.11(最終更新日 2018.12.24)
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