現在の正式名は冨士天満社となっているものの、入り口の社号標は「冨士大権現 天満天神宮」となっている。 『尾張志』(1844年)には「あらこむらにあり 冨士天満天神相殿社 中脇といふ処にあり」と書かれている。 『愛知縣神社名鑑』にはこうある。 「此の地の城主前田利家城内鎮守の社として祀る。道真公は前田氏の祖神という。弘治元年(1555)利家、社殿を修造す。天正四年(1576)越前府中國替えとなったが、城と共に此の地に残された今古城と呼ぶ。明治6年、据置公許となる」 境内には「前田利家御誕生之遺址」と彫られた大きな石碑が建っている。 冨士天満社があるのは前田利家が生まれたとされる荒子城があった場所で、その鎮守として冨士権現を祀り、道真の菅原家の流れを汲む前田家が道真を祀る天満天神も祀った、ということになっている。 『寛文村々覚書』(1670年頃)には、「富士権現壱社 社内弐畝歩 前々除 当村観音寺持分」とあり、『尾張徇行記』(1822年)は「当寺(観音寺のこと)控冨士社内弐畝前々除、是ハ加賀大納言利家卿当所在城ノトキ、城内鎮主ノ由申伝ヘリ」と書く。 前々除とあるので創建は江戸時代以前ということで、江戸時代前期には観音寺(荒子観音)の持分となっていたことが分かる。創建したのは荒子城主だった前田利家だという。
しかし、この話にはいくつか問題点がある。 まず、荒子城は利家の父・利昌が天文十三年(1554年)に築城したとされ、利家が生まれたのは天文七年(1538年)という点だ。利家の生まれ年については1537年説や1539年説などがあるものの、いずれにしても生まれたときにはまだ荒子城は建っていない。 その頃の利昌は前田村の前田城にいたとされる。荒子城の西北2.5キロほどのところで、現在は前田速念寺(地図)という寺になっている。 利昌が荒子に移ったのは仕える織田家から荒子の地を与えられたからとされる。 幼少時代の利家が荒子城で育ったのは間違いないとしても、『愛知縣神社名鑑』の「弘治元年(1555)利家、社殿を修造す」というのはあり得ない。 そもそも、荒子城の築城が1554年で、同時に冨士権現を建てたとしても翌年に利家が修造するはずもなく、利家は利昌の四男坊で、そんな権利はない。 利家が兄から家督を譲り受けて荒子城主になったのは1569年のことだ。 利昌の出自に関してはよく分かっていない。 前田家は大きく分けて三つの系統があり、ひとつが美濃前田家、もうひとつが尾張の本家筋とされる与十郎家、もうひとつが荒子前田家(蔵人家)だ。 美濃前田家は美濃国守護代の斉藤氏庶家の流れを汲むとされ、この系図を辿ると菅原道真がいることから菅原家の子孫を自認していたようだ。 ただ、美濃前田家と尾張前田家が同族だったかどうかははっきりしない。 美濃前田家からは前田玄以が出ている。 尾張前田の与十郎も戦国時代は織田家に仕えていた。 利昌はこの分家という説もあるものの、やはりその関係も明確ではない。
前田利家の生涯をざっと振り返ってみたい。 生まれたのは1538年頃。おそらく前田村の前田城だっただろう。 兄に利久、利玄、安勝が、弟に佐脇良之、前田秀継がいる。 幼名は犬千代といった。 1554年に父が荒子城を築いたため、荒子に移ってきた。 後に結婚することになる「まつ」は生母である長齢院の姉の子供で、その父の篠原一計が死去したため、まつの母は尾張守護斯波氏の家臣・高畠直吉と再婚することになり、妹の長齢院が引き取って荒子城で暮らすことになった。 ふたりが結婚したのは利家22歳、まつ12歳のときだった。 1551年、15歳の利家は3歳年上の織田信長の小姓として仕えることになる。 若き日の利家は短気で怒りっぽく乱暴者で、派手な格好を好む傾奇者(かぶきもの)だったといわれる。 傾奇者というと前田慶次郎がよく知られているけど、慶次郎も前田の一族だ。 戦国時代は男色がわりと一般的で、利家は信長の愛姓だったという話もある。 1552年に萱津の戦いで初陣を飾り、いきなり首級を挙げる戦功を立てた。戦場では長槍を振り回し、槍の又左などの異名を取った。 その後、数々の戦で活躍し、信長に認められるようになる。 1558年結婚。 1559年には長女の幸姫が誕生した。 この年、信長の異母弟である拾阿弥とモメごとを起こし、信長の前で斬り殺すという事件を起こす。 怒った信長に殺されそうになるも、柴田勝家や森可成たちの助命嘆願により出仕停止処分にとどめられた。 しばらく浪人生活で各地を放浪したというが、くわしいことは伝わっていない。 翌1560年、桶狭間の戦いに勝手に参加。首3つを挙げる活躍をみせるも、信長に許されることはなかった。 しかしめげない利家は、翌1561年の斉藤義龍との森部の戦いにもまたもや勝手に参戦。猛将といわれた足立六兵衛ともうひとつの首2つをさげて信長に謁見し、そこでようやく復帰が認められたのだった。 1562年、後の加賀藩初代藩主となる利長誕生。 1569年、父・利昌亡き後家督を継いでいた長男の利久に代わって前田家の家督を継ぐことになる。子供がおらず病弱だった利久よりも勇猛で有能な利家が継いだ方がいいと信長が命じたとされる。 1573年一乗谷城の戦い、1574年の長島一向一揆、1575年の武田勝頼との長篠の戦いなど、多くの戦に参加して活躍している。 1574年、柴田勝家の与力となり、越前で一向一揆の鎮圧に当たった。 その功績により府中を与えられ、府中城を築いて移った。 荒子城は嫡男の利長が継いだ。 1581年、信長から能登一国23万石を与えられ、七尾城主となった。このとき、利長も七尾に移ることになり、荒子城は廃城になったとされる。 1582年、本能寺の変で信長死去。 そこから前田家が加賀百万石の大大名になるのはまた別の話だ。
ここまでの流れをみたとき、荒子の冨士権現と天満天神を創建したのが前田利家というのはやはり無理があると言わざるを得ない。 荒子城の築城が1554年。利家が家督を継いで荒子城主となったのが1569年。府中に移ったのが1574年だから、あるとすればその間ということになるだろうか。 最初から荒子城の鎮守として建てられたとするならば、創建は利家ではなく父の利昌だった可能性が高い。あるいは利家の兄の利久だったかもしれない。利家が建てたという方がありがたみがあるということでそういう話になってしまったのではないか。利家が修造したという話があるならなおさらのことだ。 天神天満は後から建てて相殿になったようだけど、前田家が菅原道真の子孫だったからというのはどうだろう。前田家が道真の子孫を称するようになったのは江戸時代以降ともいわれる。 信長の父の織田信秀は道真好きで、北野天満宮(web)から道真の木像をもらって那古野城の祠で祀ったのが桜天神の始まりというから、戦国武将の間でも道真信仰というのがあっただろうか。 利家は七尾に移る前に荒子観音の本堂を再建して、荒子村に祭りに使う馬道具(ばどん)を残していったというのも、実際はその頃荒子城主だった利久がしたことだったかもしれない。
前田家が去り、荒子城が廃城となった後も、冨士権現と天満天神は残されることになった。守っていったのは一族の関係者だったのか村人たちだったのか。 荒子村の氏神は神明社(荒子)だったため、冨士天満社は村社となることはなく、明治6年に据置公許となっている。 どうして城の鎮守として冨士権現を選んだのだろうという疑問に対する答えは思いつかない。前田家が白山と結びついたのは加賀に移ってからとすれば、前田家の守護神だったからか、利昌、あるいは利家の個人的な信仰心だったのか。 尾張の戦国武将にとって富士山とはどういう存在だったのだろう。武田との戦のときなどに実際に見ているだろうけど、富士山信仰に関する知識はあっただろうか。 いずれにしても、私としてはこの神社は前田利家が建てたものではないということを証明することが目的ではなく、利家が創建したという話になっているならそれでかまわない。荒子の人たちが利家に愛着と誇りを持っていることは確かだろうし、冨士天満社は利家が建てたということにしておけば丸く収まる。
作成日 2017.10.21(最終更新日 2019.6.28)
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