須佐之男社(柳川)

堀川を挟んで住吉神社とワンセット

柳川須佐之男社

読み方 すさのお-しゃ(やながわ)
所在地 名古屋市中川区柳川町7-11 地図
創建年 1609年(江戸時代初期)
社格等 村社・十一等級
祭神

速須佐之男命(はやすさのおのみこと )

 アクセス

・JR/名鉄/地下鉄「金山駅」から徒歩約16分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 名古屋城築城に際して、堀川を挟んで東にある住吉神社(地図)とセットで祀られたという。
『愛知縣神社名鑑』にはこうある。

「慶長十四年(1609年)堀川を掘鑿の時に、水運の業務を担当の川東の船問屋側は住吉神社を祀り、川西側の川方屋は天王社を祀る。文政年間(1818-1829)堀川の水運発達と共に氏子も増加し、尾張津島神社の神輿渡御あり 蟹江の川口にて拝受小船により境内に奉持し七日間安置して盛大な祭礼を行い、毎年旧暦6月16日提灯祭には御屋敷方の御船方の家族打連れ参詣あると、文化二乙丑年(1805)6月、天保九戌年(1838)5月、嘉永三庚戌年(1850)4月、修復の棟札を社蔵す」

 名古屋城の築城が始まるのが1610年で、それに先立って石垣の石などを運ぶために熱田湊と名古屋城を結ぶ堀川が掘られた。
 船問屋が川東に水運の安全を願って住吉明神を祀り、向かい合う川西では疫病除けに牛頭天王を祀ったということのようだ。
 天王社は現在よりもやや北、八熊通の北側だったのではないかと思う。神社という規模のものではなく、川辺の祠程度のものだっただろう。
『尾張名所図会』では住吉社は高台にあって西側が開けているので見晴らしがいいといったようなことが書かれているのに対して、天王社についての記述はない。『尾張志』にも見当たらない。
 江戸時代の後期、1800年代に入るとこのあたりも人が増えて賑やかな場所になったようだ。特に材木商が多かった。
「尾張津島神社の神輿渡御あり 蟹江の川口にて拝受小船により境内に奉持し七日間安置して盛大な祭礼を行い、毎年旧暦6月16日提灯祭には御屋敷方の御船方の家族打連れ参詣ある」というくらだいだから、この頃には神社としての体裁が整っていたということだろうか。『尾張志』にはそんなことは書かれていないと思うのだけど、私の見落としかもしれない。
 津島神社のある津島は、古くから津島湊がある湊町だった。江戸時代に入ると天王川が浅くなって船が利用できなくなり、江戸時代中期に津島湊は閉じられたものの、以前として周囲には多くの川が流れていた。
 神輿は陸路から来たのか水路から来たのか。蟹江の河口ということは日光川だと思うのだけど、そこで小船で受け取ったということは、伊勢湾(今の名古屋港)を水路で運んで堀川からさかのぼって天王社に運び込んだということか。
 1805年以降の修繕の棟札があるということは、1700年代後半には社殿が建っていたのだろう。そのときを実質的な創建とする考え方もある。

 境内の社史によると、近代の歴史は以下の通り。
 明治の終わりから大正、昭和にかけてこのあたりも発展して氏子も増えたので、昭和12年(1937年)に現在の土地を買ってあらたに神社を建てた。
 しかし、昭和20年(1945年)の空襲で社務所を残して焼失。
 昭和27年(1952年)に再建。
 昭和36年(1961年)、伊勢湾台風により大きな被害を受ける。
 平成の大修理で全面修復をして現在に到る。

 神社のある柳川という地名はもともとは簗川だった。
 鎌倉時代後期の永仁4年(1296)の史料に出てくるというから地名としては古い。ただ柳川村というのはなかったようだ。
 簗(やな)は川で魚を捕る仕掛けのことだから、地名の由来はそこから来ているのだろうか。だとすればそれは、堀川の西を南北に流れる江川だったと思う。
 江川の岸辺には柳が多かったというから、そこから柳川になったという可能性もありそうだ。
 神社の北にある八熊(やぐま)村の地名は、明治11年に五女子村と二女子村が合併したときに、それぞれにある八劔神社と熊野神社の頭文字を取って付けられたものだ。

 境内には、お塚社と名付けられた社がある。
 田んぼのあぜ道に塚があり、その前に夫婦神を祀る小さな祠があったそうで、それをここに移したのだという。
 おそらく道祖神のようなものだったのだろう。
 神社というのは長い歴史の中で、いろいろなものが集められ、あるいは持ち込まれた集合体なのだということを再認識する。
 ここ須佐之男社も、名古屋城築城前の何もないような時代から城下町の発展を見続け、明治の時代を経て、昭和の戦争や災害を乗り越え、今日まで守り伝えられてきた神社のひとつだ。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

小さな天王社から立派な須佐之男社へ

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