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須佐之男社(柳川)

堀川を挟んで住吉神社とワンセットというのだけど

柳川須佐之男社

読み方 すさのお-しゃ(やながわ)
所在地 名古屋市中川区柳川町7-11 地図
創建年 1609年?(江戸時代初期)
旧社格・等級等 指定村社・十一等級
祭神 速須佐之男命(ママ/はやすさのおのみこと )
アクセス JR/名鉄/地下鉄「金山駅」から徒歩約16分
駐車場 なし
その他 例祭 10月8日
オススメ度

 名古屋城築城(1610年)に際して、堀川を挟んで東にある住吉社地図)とセットで祀られたというのだけど、はっきりしない部分がある。
『愛知縣神社名鑑』はこう書く。
「慶長十四年(1609年)堀川を掘鑿の時に、水運の業務を担当の川東の船問屋側は住吉神社を祀り、川西側の川方屋は天王社を祀る。文政年間(1818-1829)堀川の水運発達と共に氏子も増加し、尾張津島神社の神輿渡御あり蟹江の川口にて拝受小船により境内に奉持し七日間安置して盛大な祭礼を行い、毎年旧暦6月16日提灯祭には御屋敷方の御船方の家族打連れ参詣あると、文化二乙丑年(1805)6月、天保九戌年(1838)5月、嘉永三庚戌年(1850)4月、修復の棟札を社蔵す、昭和15年7月13日、村社となり同年9月12日、指定社となる。昭和20年3月19日の空襲に社殿悉く焼失せしも氏子の熱意により復旧した」

 名古屋城(web)の築城が始まるのが1610年で、家康の命で福島正則が堀川を掘り始めたのは1610年から1612年にかけてとされる。かつては天守などの石垣を運ぶために堀川が掘られたと考えられていたのだけど、現在その説はほぼ否定されている。石を運んだのは中川で、堀川が完成するのは天守などができた後だ。
 だから、この天王社(須佐之男社)と住吉社を堀川を挟んで1609年に建てたというのは正しくない。ただ、堀川が掘られる以前に自然河川が流れていたという話もあり、そうであれば川を挟んで二社を建てたということもあり得なくはない。
 ただ、清須越が始まるのも1610年以降のことなので、1609年にこのあたりに船問屋があったというのはまずあり得ないことだ。
 住吉社についても創建は享保九年(1724年)と社伝はいっており、1609年に創建したと書いているのは『愛知縣神社名鑑』だけだ。その『愛知縣神社名鑑』も、住吉社のところでは創建は1724年としており、矛盾がある。
『なごやの町名』は、1614年(慶長19年)1月、堀川掘削の時に川の守護神として津島神社から勧請したと書いている。
 これが正しいようにも思うのだけど、堀川は1612年の12月にはほぼ完成しているので、1614年に建てたというのは間が空きすぎているのではないか。
 いずれにしても、1609年に船問屋がこの場所に天王社を祀った可能性は低い。

 江戸時代のここは何村だったのかがちょっと分からない。『中川区の歴史』は古渡村の項で須佐之男社を紹介しているので古渡村の内という認識でいいだろうか。古渡というと、もっと北の古渡町交差点(地図)あたりを思うのだけど、ここまで村域だったのか。
 神社がある柳川町(やながわちょう)は、昭和14年(1939年)に野立町の一部より成立した。字名の柳原と堀川からそれぞれ一字ずつ取って名付けられたものだと『なごやの町名』は書いている。
 しかし、鎌倉時代後期の永仁4年(1296)の史料に簗川という地名が出てくるので、簗川から転じて柳川になったとも考えられる。
 簗(やな)は川で魚を捕る仕掛けのことだから、地名の由来はそこから来ているのだろうか。
 ここが古渡村だったとすると、江戸時代の『寛文村々覚書』(1670年)や『尾張志』(1844年)の古渡村の項に天王社は載っていない。古渡村の神社としては、闇森八幡榊森白山伊勢山神明などがあった。

 江戸時代の後期、1800年代に入るとこのあたりも人が増えて賑やかな場所になったようだ。特に堀川を利用する材木商が多かった。
「尾張津島神社の神輿渡御あり蟹江の川口にて拝受小船により境内に奉持し七日間安置して盛大な祭礼を行い、毎年旧暦6月16日提灯祭には御屋敷方の御船方の家族打連れ参詣ある」というくらいだいだから、この頃には神社としての体裁が整っていたということだろう。
 しかし、それなら『尾張志』や『尾張名所図会』(1844年)などにそのことが書かれていてもよさそうなのに、まったく触れられていない。
 津島神社(web)から名古屋城下への神輿渡御は本当にあったのだろうか。もしそんなことがあったとしたら、尾張名古屋を代表する祭りのひとつとなっていただろうに、そんな話は聞いたことがない。直線距離で16キロ以上も離れているし、話に現実味がない。
 津島神社の天王祭りはユネスコの無形文化遺産に登録された日本を代表する祭りのひとつとして現在も盛大に行われている。旧暦6月14日が宵祭りで翌6月15日が朝祭りだ。柳川の須佐之男社は6月16日に提灯祭りが行われたとすれば、その翌日ということになる。
 津島神社の神輿渡御が天王川で行われるようになったのは明治以降とされ、江戸時代はなかったという。
 津島神社の横を流れていた天王川は江戸時代中期の1785年に締め切られてしまっているので、これ以降は天王川から名古屋城下まで船で神輿渡御などはできない。
「蟹江の川口にて拝受小船」というのもおかしな話で、もし津島神社から名古屋城下まで神輿渡御をしようとすれば、西の木曽川に出て、そこから南下して伊勢湾に出る方が早いし現実的だ。蟹江とつながっている東の善太川までは遠すぎる。
 柳川の須佐之男社で6月16日にお祭りが行われたというのは本当だとしても、津島神社からの神輿渡御というのはちょっと考えられない。

 1805年以降の修繕の棟札があるということは、1700年代後半には社殿が建っていたと考えていい。
 境内の社史によると、明治の終わりから大正、昭和にかけてこのあたりも発展して氏子も増えたので、昭和12年(1937年)に現在の土地を買ってあらたに神社を建てたとある。大きな移動ではなかったのだろう。
 昭和20年(1945年)の空襲で焼失して、昭和27年(1952年)に再建したものの、昭和34年(1959年)の伊勢湾台風でも大きな被害を受けた。
 平成の大修理を経て現在に到っている。

 境内には、お塚社と名付けられた社がある。
 田んぼのあぜ道に塚があり、その前に夫婦神を祀る小さな祠があったそうで、それをここに移したのだという。おそらく道祖神のようなものだったのだろう。
 神社というのは長い歴史の中で、いろいろなものが集められ、あるいは持ち込まれた集合体だということを再認識する。
 ここ須佐之男社も、名古屋城下の発展とともにあり、明治の時代を経て、昭和の戦争や災害を乗り越え、今日まで守り伝えられてきた神社のひとつだ。
 何でもないような街中の神社にも、多くの歴史が積み重なっている。

 

作成日 2017.7.3(最終更新日 2019.5.23)

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