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春日神社(昭和橋通)


天照皇大神社から春日神社へ転身?



昭和橋通春日神社

読み方かすが-じんじゃ(しょうわばしどおり)
所在地名古屋市中川区昭和橋通6丁目35 地図
創建年1631年?(江戸時代前期)
旧社格・等級等村社・十四等級
祭神天児屋根命(あめのこやねのみこと)
アクセスあおなみ線「中島駅」から徒歩約7分
駐車場 なし
その他例祭 10月第1日曜日
オススメ度

 住所が昭和橋通だから昭和橋通という道路があるのかと思うと、どうもそうではないらしい。昭和橋通の前の通りは国道1号線だ。
 昭和橋は中川運河に架かる橋の名前で、住所はそこから来ている。昭和橋は昭和4年(1929年)に完成し、昭和橋通は昭和13年(1938年)に成立した。
 江戸時代のここは中嶋新田と呼ばれる開拓地で、鬼頭景義によって1631年から1634年にかけて開発された。
『愛知縣神社名鑑』は、「社伝によれば寛永八年(1631)鬼頭景義が中島新田開発時に村の安全と繁栄を願って勧請創祀した」というのだけど、これは本当だろうか。
 中嶋新田の氏神は、鬼頭景義が中心となって建てた八劔社(八劔社(中島新町))だった。中嶋新田完成の1634年に勧請したという棟札が残っている。
 開発に当たって工事の無事を願って神社を勧請することもあっただろうけど、それが春日社となるとしっくり来ない。
 そもそもこの神社はもともと神明社だったかもしれない。



『尾張徇行記』(1822年)の中嶋新田の項にはこうある。
「大明神二社神明二社山ノ神社風ノ宮界内一町五畝十歩前々除」
 大明神二社というのは中島新町の八劔社と東中島町の八劔社のことだろう。
 神明二社のうちの一社がこの春日神社ではないかと思う。もう一社の神明は皇太神社(西中島)だろう。
 別の項目にはこうある。
「庄屋書上張ニ、神明社内五畝外ニ下畠一反六畝十歩共ニ御除地 此社ハ承応四未年勧請ノ由、神納米ハ勢州上部左近ヘツカハスト也 神明春日八幡三社界内四畝十五歩外ニ下畠二反五畝十五歩共ニ御除地 此社モ上ノ神明と同時ニ勧請ノ由、神納米ハ勢州曽祢二見太夫ヘツカハストナリ」
 このうちの”神明春日八幡”というのが今の春日神社のことではないかと思う。
 もう一社の神明とともに神社の外に田畑を持っていて伊勢(勢州)の神官に米を納めていたようだ。
 同時に勧請されたのが承応4年というのが本当であれば、1655年創建ということになる。



『尾張志』(1844年)は中嶋新田の神社についてこう書いている。
「神明ノ社
 神明ノ社 畑田といふ地にあり末社に春日ノ社八幡ノ社あり
 八劔ノ社 二所 同所にあり」
 末社に春日と八幡のある神明社が今の春日神社ということになりそうだ。
 ただし、神明社がいつ春日神社になったかがよく分からない。



 昭和57年発行の『中川区の歴史』は、昭和55年7月に昭和橋通6丁目の現在地に遷宮(新築)した神社を天照皇大神社(神明社)としている。
 それとは別に春日社と八幡社も載せている。
『愛知縣神社名鑑』の発行は平成4年なのだけど、中身の情報は昭和の古いものを使用している。それでも、天照皇大神社ではなく春日神社になっているということは、どこかの時点で天照皇大神社が春日神社になったということだと思うのだけど確信は持てない。
 祭神が春日神である天児屋根命(アメノコヤネ)一柱になっているということは、神明(アマテラス)との相殿ではないということだ。末社だった八幡神も本社では祀っていない。
 小さな境内社があるけど、それが神明社か八幡社だったりするだろうか。



 社殿の形式がやや変わっている。
 鳥居は神明鳥居なのだけど、本殿を覆っている覆殿は神明造風で男神千木で鰹木七本になっている。拝殿は神明造風ともいえないちょっと変わったスタイルになっている。本殿は覆殿に覆われていて外から見ることはできない。
 この造りからしても神明社を春日社に改造したように思える。
 隣にある中島稲荷は背後に森林の写真パネルが掛けてあって、ちょっと面白い。



 元は神明社なのか元々春日社だったのか、釈然としないものが残った。神明社が春日社に変身したというのが事実であれば、他に例のないユニークな神社ということになる。




作成日 2017.10.23(最終更新日 2019.6.30)


ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

中島新田の神明社がいつしか春日神社に

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