春日神社(昭和橋通)

天照皇大神社から春日神社へ転身

昭和橋通春日神社

読み方 かすが-じんじゃ(しょうわばしどおり)
所在地 名古屋市中川区昭和橋通6丁目35番地 地図
創建年 1631年(江戸時代前期)
社格等 村社・十四等級
祭神 天児屋根命(あめのこやねのみこと)
 アクセス

・あおなみ線「中島駅」から徒歩約7分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 住所が昭和橋通だから昭和橋通という道路があるのかと思うと、国道1号線に面していて昭和橋通という通りは見当たらない。以前はあったのだろうか。
 エリアとしては東中島で、かつての中島新田だったところだ。
『愛知縣神社名鑑』によると、「社伝によれば寛永八年(1631)鬼頭景義が中島新田開発時に村の安全と繁栄を願って勧請創祀した。明治5年7月村社に列格する」ということになる。
 鬼頭景義は尾張における新田開発の第一人者のような人で、ここ中島新田からその開発は始まった。
 1631年はその初めの年ということになる。だから神社を建てたというのも充分あり得る話だ。
 中島新田が完成した1634年には、6名の連名で八劔社(中島新町)を勧請創建したという棟札が残っている。

 それにしても、何故、春日社だったのか、という疑問を持った。
 鬼頭景義は、源為朝の一族が尾張に流れてきて鬼頭姓を名乗ったことに始まる子孫とされる。戦国時代以降、武士を捨てて農民になったとはいえ、血筋としては源氏だ。どうして無関係と思える春日の神を祀ったのか。
 実はこの神社、かつては天照皇大神社という名前だったという。つまりはアマテラスを祀る神明社系だったということだ。
 このあたり一帯は平安時代後期に伊勢の神宮の荘園だったことから神明社が多い。それを考えると新田の氏神として神明社を創建することは不自然ではない。春日社を鬼頭景義が建てたというのはやはりありそうにない。

 尾張における鬼頭家は、為朝の子ともされる次郎義次から始まる。
 鎮西八郎こと源為朝は、平安時代末の武士だ。大変な乱暴者で、保元の乱(1156年)に巻き込まれたこともあり伊豆大島に島流しにされてしまう。
 その遺児とされる次郎義次も勇猛な強者だったようで、その噂を聞いた土御門天皇は紀州で暴れている悪党を退治するように命じ、見事その役割を果たしたことから鬼の首を取った鬼頭の姓を与えられたという。
 戦国時代の末期、信長の息子・信雄に使えていた鬼頭匠内義直は信雄が秀吉によって追放されると八田村に引っ込んで武士を捨てた。
 景義は義次から数えて22代目に当たるという。
 景義が新田開発にのめりこんだことで鬼頭家は財産を総て使い切り、莫大な借金を負ったのだった。

『尾張志』の中島新田の項を見るとこうなっている。
「神明ノ社
 神明ノ社 畑田といふ地にあり末社に春日ノ社八幡ノ社あり
 八劔ノ社 二所 同所にあり」
 畑田というところにある神明社がこの春日神社に当たるだろうか。末社に春日社と八幡社があるとあるから、それが逆転して春日神社と称するようになったのか。そのあたりの事情はよく分からない。
 八劔社二社は、東中島八劔社中島新町八劔社でいいと思う。
 もうひとつの神明社が中島新田内に見当たらないのだけど、もしかすると皇太神社のことかもしれない。

 社殿の形式がやや変わっている。
 鳥居は神明鳥居なのだけど、本殿を覆っている覆殿は神明造風で男神千木で鰹木七本になっている。拝殿は神明造風の平入に妻入の屋根が合体したような格好をしている。
 本殿は覆殿に覆われていて外から見ることはできない。
 もともとの神明社を春日社に改造した跡が見えるような作りになっている。
 隣にある中島稲荷は背後に森林の写真パネルが掛けてあって、ちょっと面白い。
 なんか変わった春日社だなという印象を残した。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

中島新田の神明社がいつしか春日神社に

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