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相生山神社

相生山の守り神はアマテラスの神明社?

相生山神社

読み方 あいおいやま-じんじゃ
所在地 名古屋市天白区天白町大字野並相生 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 不明
祭神 不明
アクセス 地下鉄桜通線「鳴子北駅」から徒歩約5分
駐車場 あり(神社前スペース)
その他  
オススメ度

 相生山神社の相生(あいおい)は地名から来ているのだけど、神社の実体がよく分からない。
 相生は能や結婚式でよく歌われた「高砂」の中などに出てくる相生の松から来ていると思うのだけど違うかもしれない。このあたりにはかつて松の木が多く生えていたと考えられている。
「高砂」の中では高砂の松と住吉の松とが相生の松であり、自分たち夫婦もそのようであろうと歌われる。松は長寿の象徴であり、相生は共に生きるという意味だ。
 しかしこの話は、別の出来事が元になって生まれた話かもしれない。

 相生山(あいおいやま)は、3つの台地からなる標高60メートルほどの低山で、天白川と扇川に挟まれた鳴海丘陵に位置している。
 全国的に珍しい古赤黄色土の粘土層から成っており、かつては赤褐色の地肌がむきだしになっていたという。
 神社の北800メートルほどのところに菅田遺跡があり、そこからは旧石器時代の石器片が見つかっている。1万年以上前からこのあたりに人が暮らしていたのだろう。
 昭和15年(1940年)に防空緑地とすることが決まり、植林するなどして現在は雑木林が広がる緑地帯になっている。
 北部にある相生山緑地オアシスの森は平成10年(1998年)に開園したもので、今でも初夏になるとヒメボタルを見ることができる。タヌキやキジなども生息しているそうだ。
 相生山緑地を突き抜ける弥富相生山線は8割方完成していたにもかかわらず、市民などの反対運動で阻止され、自然は守られることになった。

 天白町には植田、島田、野並、平針、八事の5つの大字があり、それが江戸時代の村名を引き継いでいる(八事村は昭和区に編入された)。
 野並から相生山、高坂町あたりまでがかつての野並村だったエリアで、集落は現在の野並交差点の東北にあった。
 農地は集落西の天白川との間にあったのと、あとは狭い平地に少しあったくらいで村域のほとんどは手付かずの丘陵地だった。
 それでもやっていけたのは、野並村が熱田大宮司領で諸役を免除されていたからだった。
 八劔社(野並)のページに書いたように、織田信長は熱田社の大宮司だった千秋家(せんしゅうけ)に野並村を所領として与え、江戸時代の終わりまでそれが続いた。
 その関係で八劔社は千秋家が建てたとされているのだけど、個人的には少し疑っている。野並村は千秋家の所領となる前から集落があって、そのときすでに神社があったのではないかと思うからだ。千秋家以降に熱田とゆかりの深い八劔社になったという可能性も考えられる。

『寛文村々覚書』(1670年頃)の野並村の項はこうなっている。
「諸役免許 熱田 千秋刑部領
社四ヶ所 内 大明神 田之神 神明 山之神
社内弐反四畝廿弐歩 前々除 村中 支配」

 大明神というのが八劔社のことだ。あとの3社は八劔社に移された。
『尾張志』(1844年)を見ても顔ぶれが同じなので、江戸時代を通じて野並村にはこの4社があったということだ。
「八劔ノ社 當社を村の氏神とす 末社 六所社 秋葉ノ社
 神明ノ社 八劔ノ社より北の方にあり
 山神ノ社
 田ノ神ノ社 氏神より南の方にあり」
 神明社が八劔社の北にあって、田神社が八劔社の南にあったことが分かる。山神社については分からない。ただ、八劔社より南というと古鳴海地区になってしまうように思えるのだけどどうだろう。
『尾張徇行記』も神社は同じで、野並村についてはこんなふうに書いている。
「此村ハ一村立ノ所ニテ小百姓ハカリ也、民戸山ノ麓ニ立ナラヘリ、農業一事ノ所也、此村山林共ニ大宮司領ナリ、大宮司代々ノ墓所村東ノ山上ニアリ、兆域ニ籬ヲ結ヒ蒙上ニ榊一株ツツ栽ルノミ 此村ハ天白川砂高ニナルニ随ヒ水害多ク、田畝年々不熟セリ、悪水ハ天白川ヲ伏超水筒ヲ以テ、山崎村ノ東田面ヲ堀割リ山崎川ノ上石川ヘ落スナリ」
 村人は小作人ばかりで農業に専念していて、村も林も熱田大宮司の所領で、千秋家代々の墓が村の東にあり、榊を育て、天白川の水害が多いため田んぼの稲はあまり育たず、下水は天白川を越えて山崎川に流していたようだ。

 以上を踏まえて相生山神社の正体は何かということを考えているわけだけど、やっぱりよく分からない。
 幟に相生山神社と秋葉神社とあり、本社向かって右手にある小社が秋葉社ということは分かる。秋葉神社の社号標もあり、どこか別の場所からここに移したとも考えられる。
 本社は神明造で内削ぎ、鰹木は五本。天照大神を祀っているという未確認情報があり、もしかすると野並村にあった神明社が元になっているのかもしれないとも思ったのだけど、神明社は山神社や田神社などともに八劔社に移されて境内社となっている。
 そもそもここは野並村集落から大きく離れた場所で、もとからここに神社があったとは思えない。
 今昔マップを見ると、このあたりが区画整理されて道が通るのは1930年代以降のことで、1932年(昭和7年)の地図には描かれていない鳥居マークが1937-1938年(昭和13年)の地図で初めて描かれることから、創建は昭和10年前後ではないかと推測できる。
 もし、元社が野並村にあった神明社だとすれば、この時期にここに移されたということだろうか。
 宗教法人化したのは昭和42年(1967年)という情報もある。

 今昔マップで戦後の変遷を見てみると、1950年代以降に南の東海通が拡張されて、丘陵地に家が増えていった様子が見てとれる。
 1960年代に現在の町並みがほぼできあがった。
 地下鉄桜通線が今池駅から野並駅まで延びたのが平成6年(1994年)のことだった。これで野並はだいぶ交通の便が良くなった。
 野並から先の徳重駅までつながったのは平成23年(2011年)のことだ。
 徳重から豊田市方面まで延長するという構想だけはあって実現の見通しは立っていない。
 それよりも、徳重-平針-藤が丘と縦につないだ方が利便性が高くなると思うのだけどどうだろう。

 相生の丘陵地に家が建って町ができたとき、この神社がこの場所に建てられたことは間違いなさそうだ。それが新規だったのか、野並の別の場所にあったものを移したのかまでは調べがつかなかった。それほど古い神社でなければ昔からこのあたりに住んでいる人が事情を知っているかもしれない。もしくは八劔社で訊ねた方が早いか。
 天照大神を祀るという情報の出所も気になるところで、いったん保留として情報を更に集めつつ、何か分かれば追記したい。

 

【追記】 2020.9.30

 相生山が開かれるきっかけとなったのは、大正10年(1921年)に高岡徹宗という人物がここの土地を寄進して、熱田の白鳥から慧光院(地図)を移したことによるという。
 続いて大正12年(1923年)には千葉県から徳林寺(曹洞宗/地図)を移した。
 代替わりしていなければ、現在の徳林寺住職は高岡徹宗の孫という。
 このときにサクラやカエデを多数植林したそうだけど今も残っているだろうか。
 その後、昭和初期にかけて相生山は別荘地として開発された。高台から見下ろす風景が美しかったようで、昭和2年(1927年)に新愛知新聞社(中日新聞の母体のひとつ)が募集した愛知県新十名所のひとつに選ばれている。
 今昔マップの1932年(昭和7年)を見ると、山の上に突如として道ができて住宅地が表れるので、この頃には一般の家も増えていったのではないかと思う。
 こうした流れを見ると、やはり相生山神社がでてきたのは昭和初期と考えてよさそうだ。町ができて住人たちが神社を建てようということになったのだろう。
 野並の八劔社から勧請しなかったのは何か理由があったのだろうか。アマテラスを祀る神明社という話はどうやら信じてよさそうだ。徳林寺の意向もあったかもしれない。

 

作成日 2018.11.11(最終更新日 2020.9.30)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

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