港区西エリアの北部は、戸田川を境に東福田新田と西福田新田に分かれていた。どちらも鬼頭景義が開拓した新田で、東福田新田が1640年、西福田新田が1643年だった。 東福田新田は、東は新川右岸、西は戸田川左岸で、北は中川区との境界線、南は東海通の一本南の通りまでの範囲だった。 字名としては、小賀須、船頭場、知多、福田、八百島、東蟹田、七反野などがある。東福田新田は小さな集落が点在したところで、こういった呼び名は江戸時代からあったようだ。 『尾張侚行記』(1822年)にもそのように書かれている。 「此新田ハ東西ヘ行程二十九町ホトアリテ、其間ニ農屋一簇シ村落処々散在シ、東福田西福田ハ戸田川東西ニテ分レリ、マツ川東ニテ六区ニ分ル、船頭場子ケ須八百島七反野知多郡屋敷春田野ト云」
小賀須(こがす)は江戸時代は子ケ須とも表記したようだ。一般的に須賀というと砂処から転じたとか、植物の菅から来ているとされることが多いのだけど、子ケ須となると、ちょっと意味が分からない。 近くに八百島(はっぴゃくじま)という地名があるように、東福田新田開発当時のこのあたりはところどころ水没して小さな島ができていたようだったというから、子ケ須(小賀須)の地名もそのあたりから来ているだろうか。 小賀須1丁目から4丁目は昭和63年(1988年)に南陽町大字福田の一部より成立した。
この秋葉社は小賀須地区の氏神ということになる。現在の祭神は迦具土(カグツチ)となっているけど、これは明治以降のことだろう。ただ、最初から秋葉権現を祀る秋葉社だったかというと、ちょっと決めつけられない。
『尾張志』(1844年)の福田新田村の項を見るとこうある。 「神明ノ社三社 山神ノ社 熱田大明神ノ社二所 六社共に福田新田村にあり」 『尾張徇行記』(1822年)ではこうなっている。 「東福田村 神明四社 大明神三社 界内一反一畝十五歩 前々除 蔵屋敷九畝除地」 かつての東福田新田に今あるのは、小賀須の秋葉社、船頭場の白山社、八百島の稲荷社、東蟹田の神明社、春野田の神明社、七反野の神明社、知多の山神社の7社だ。 神明社3社と山神社はいいとして、熱田大明神2社がどれに当たるのか。白山社、秋葉、稲荷も大明神ということになるだろうか。しかし、熱田社の影はどこにもない。熱田社関連はどこへ行ってしまったのか。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「創建は明かではない。明治9年8月28日、村社に列格する」 これではほとんど手がかりにならない。 本殿は神明造と書いており、実際に神明造だ。千木は内削ぎで、鰹木六本だから、カグツチを祀る社というよりはアマテラスを祀る社といった方が合っている。 もともと秋葉社だったとは思えないのだけどどうなんだろう。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、江戸時代の村落がそのまま残っている様子が見てとれる。字名の地区ごとに小さな集落が散在している。 小賀須の集落に鳥居マークがあり、これが今の秋葉社だ。 大正、昭和、戦後も状況はあまり変わらず、集落があってその周辺は田んぼが広がっている。 ようやく家が増えて住宅地らしくなったのは1960年代から1970年代にかけてのことだ。この頃になると田んぼと家が半々くらいの割合になる。 1980年代以降は道路も整備されて住宅が増え、田んぼはすっかり減ってしまった。 秋葉社はずっと変わらずここから動いていない。
神社北は東海通で交通量が多くて騒々しいのだけど、南は小賀須公園や住宅地なので静かだ。 参道がわりと長くて奥行きがある。神社はやっぱり浅いより深い方がいい。 秋葉社としては規模の大きな神社で、村社になった秋葉社は少ない。 拝殿は屋根瓦の鉄筋コンクリート造の白塗りで、見た目も秋葉社らしくない。まだ新しいので近年建て直したものだろう。 秋葉社らしくはないけど、なかなかいい秋葉社だと思った。
作成日 2018.8.8(最終更新日 2019.7.28)
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