すごく気持ちのいい神社だなというのが第一印象だった。その印象は時間が経った今も消えずに残っている。 神社は鎮守の森などによって閉ざされている方がいいという考えが私の中にあるのだけど、ここは例外で、土手下にあって全方向吹き抜け感が心地いい。この土手全体から上空の空までもが神域みたいに感じられた。 この神社、好きだなと思った。
この秋葉社は江戸時代、万場宿(まんばじゅく)にあった。現在地の90メートルほど南の万場宿の入り口にあったようだ。火事から村を守ってもらえるようにという願いを込めて建てたのだろう。 万場宿は佐屋街道の宿場で、庄内川を挟んで東にあった岩塚宿とセットでひとつの宿場とされた。月のうち半分を万場宿が人馬の引き継ぎを行い、半分を岩塚宿が行っていた。 庄内川の渡しは万場の渡しと呼ばれ、万場宿が担当した。 佐屋街道(佐屋路)が整備されたのは江戸時代前期の1634年(嘉永11年)のことだ。東海道は熱田の宮宿から桑名宿まで船で渡していたので(七里の渡し)、海が荒れて船が出せないときや、船酔いを嫌う人々のための脇街道として整備された。 熱田から北西へ進み、岩塚、万場、神守を通って佐屋宿に至り、そこからは川を下って桑名へ向かった(三里の渡し)。 万場宿が作られたのも同じく1634年のことなので、万場の秋葉社が建てられたのはそれ以降ということになるのではないかと思う。ただ、佐屋路の元になる道自体は古くからあって、萬場の集落もあったとすると秋葉を祀ったのは江戸時代以前かもしれない。 境内に残された常夜灯には安永6年(1777年)と天保13年(1842年)の年号が刻まれている。これは万場宿にあったもののようだ。
『愛知縣神社名鑑』はこう書く。 「古くより万場の火防神として氏子の崇敬篤く、明治6年据置公許となる」 江戸時代の『寛文村々覚書』(1670年頃)、『尾張徇行記』(1822年)、『尾張志』(1844年)に、この秋葉社に相当するような神社は載っていない。江戸時代は神社というより小さな祠だったのだろう。
萬場村(万場村)の地名の由来について『尾張志』は、萬場村の天神社が「右近の馬場」から勧請されたからと書いている。 右近衛府が管轄する馬場を右近の馬場と呼んでいて、すぐ近くに北野神社(北野天満宮/web)があったため、右近の馬場といえば北野神社のことも指した。そのあたりのことについては天神社(万場)のページに書いた。 津田正生は『尾張國地名考』の中でこう書いている。 「正字馬場(うまば)の字を略(はぶ)きてまばといひ又まンば□て呼成べし」 祭りのとき馬場が置かれたことから来ているとか、熱田社の神官だった馬場家の田んぼがあったからなどという説もあり、はっきりしない。
とにもかくにも、この神社はロケーションが素晴らしくて、お気に入りの神社のひとつとなった。他では感じることのない開放感溢れる神社ということでおすすめしたい。
作成日 2017.11.22(最終更新日 2019.7.7)
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