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稲荷社(大生稲荷神社)


又兵衛新田の証人的神社



大生稲荷社(東又兵衛)

読み方いなり-しゃ(たいせい-いなり-じんじゃ)
所在地名古屋市南区東又兵ヱ町4-20 地図
創建年不明(1715年とも)
旧社格・等級等村社・十四等級
祭神倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
アクセスJR東海道本線「笠寺駅」から徒歩約16分
名鉄常滑線「大江駅」から徒歩約18分
駐車場 あり(神社向かって右手)
その他例祭 10月第2日曜日
オススメ度

 東又兵ヱ町にある稲荷社。
 江戸時代中期の1715年(正徳5年)に、笠寺村の郷士・加藤又兵衛勝貞(かつさだ)が仲間を集めて又兵衛新田を作ったときに京都伏見(web)から勧請して稲荷神を祀ったのが始まりとされる(1716年とも)。
 東又兵ヱ町の西には西又兵ヱ町があり、こちらは1749年(寛延2年)に加藤又兵衛勝貞が築いた又兵衛新々田だったところだ(1750年とも)。
 ここは笠寺村の内の土地で、干拓によって拡げたところではない。近くには塩浜があり、江戸時代前期までは塩作りをしていた。
 桜村や笠寺村がたびたび水害にあったため、海へと通じる水路を作って水を逃がしたところ塩浜が傷んでしまい、堤を築いて田んぼにすることにしたのだった。
 加藤又兵衛勝貞の祖先は豊臣秀吉に仕えて小牧長久手の戦いなどに参加した武士だった。その子孫の又兵衛は笠寺村で郷士となっていた。



『愛知縣神社名鑑』は、「創建については明かではない。明治5年7月、村社に列格する」と書くだけで詳しいことは伝えていない。
『南区の神社を巡る』と『南区の歴史』は、創建を又兵衛新田を作った1715年と書いている。
 祭神は『愛知縣神社名鑑』は倉稲魂命とし、『南区の神社を巡る』は宇迦之魂大神、大宮能売大神、佐田彦大神、四大神、田中大神としている。これは伏見稲荷大社(web)の現在の祭神と同じだ。江戸時代は違っていただろう。
『南区の神社を巡る』は、この神社の世話役の人の話として、平成2年(1990年)に大生稲荷神社に改称したとしている。



 笠寺村や新田一帯は、江戸時代は尾張藩領だった。
 明治に入り、明治11年(1878年)に笠寺村、加福新田、又兵衛新田、又兵衛新々田が合併して前浜村となった。
 明治22年(1889年)に前浜村を笠寺村に改称。
 明治39年(1906年)に笠寺村、星崎村、鳴尾村が合併して笠寺村となる。
 大正10年(1921年)に名古屋市に編入されて南区の一部となった。
 東又兵ヱ町は、昭和35年(1960年)に豊田町はじめ5町の一部より成立した。
 かつて山崎川の堤防沿いに又兵衛の屋敷跡があって、米蔵などが建ち並んでいたそうだ。屋敷の一部が熱田神宮(web)に移築されているというのだけど、どこにあるのか調べがつかなかった。又兵衛茶室というのは岐阜県吉城郡細江村の坂上又兵衛の本家を移築したものなので違う。
 神社東にはかつて帝国人絹の工場があった。工場撤退後、名古屋市が買い取り、昭和62年(1987年)に名古屋市総合体育館が建てられた。かつてのレインボーホール、今の日本ガイシアリーナがそれだ。
 名古屋でコンサートといえばレインボーホールと相場が決まっていた時代があった。最近はどうなのだろう。
 日本ガイシが命名権を獲得したのは2007年なので、もう10年以上になる。2019年から2020年まで改修工事が行われるようだ。命名権は2022年までというから、もうしばらく日本ガイシアリーナという名称が続く。



 今昔マップを見ると、明治から現代に至るまで、神社はまったく動かず、同じ場所にあり続けたことが分かる。周りに田んぼしかなかった時代から住宅が増え、鉄道が通り、工場が建ち、工場が去って体育館が建ち、すっかり住宅地になった今もまだここにある。
 その地図上の変遷を見ると、変わりゆく町並みと変わらない神社との対比が面白い。
 神社というのはもっとも時代から取り残された存在であり、すべての時代を見てきた証人といった存在でもある。




作成日 2018.4.17(最終更新日 2019.8.27)


ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

大生稲荷神社は又兵衛新田とともに

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