のちに喜惣治新田と呼ばれることになる新田の開発が始まったのは1693年のことだった。 このあたりには何本もの川が流れ、生活用水が流れ込み、沼と湿地ばかりの土地は稲作には向かなかった。 それでも堤防を造り、排水工事をして、新田のための開発を始めたものの、大雨のたびに水に浸かり、一時は断念せざるを得なかった。 最終的に新田開発が成されたのが1717年だった。神社が創建されたのもそのときとされる。 新田の名前は資金を提供して開発を推し進めた国枝喜惣治から名付けられた。 その国枝喜惣治が伊勢の神宮(web)からアマテラスを勧請して建てたとも、開拓に当たった林平八が夢のお告げで建てたともいわれる。
『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。 「喜惣治新田造成の際五穀豊穣と村内の安全を祈り神社を建立する。明治5年、村社に列格し、明治29年10月、社殿を改築する。大正5年1月31日、字五番割鎮座無格社水神社を本社に合祀した」
『尾張徇行記』(1822年)によると、喜総治新田の高成は天明8年(1788年)とする。 検地を受けて石高が決まったのが1788年とすると、土地の開発は1717年に成ったものの、田んぼにして収穫が安定するまで70年もかかったということになるだろうか。 天明8年といえば天明の飢饉があったときだ。 新田開発の経緯についても書かれているので少し長くなるけど引用しておく。 「此新田ハ元比良村入鹿新田地内成、初メ中島郡三宅村野口善左衛門控居タリシカ、享保二酉年中萱津村平八ト云者、ココニ来リテ先ツ流作場ニ仕立、宝暦三酉年愛智郡戸部下新田喜惣治ヘ売渡シ、同五亥年平八始テ大浦新田ヘウツリ、百姓トナリ、夫ヨリ入百姓漸々増シ、同十三未年見取十三町五反八畝廿七歩ニ極リ、喜総治新田ト称シ来レリ、其後天明四辰年新川堀割ニ付、二町三畝十八歩禿地ニナリ、同八申年如比御高成アリ」 もともとは比良村の入鹿新田と呼ばれていて、1717年(享保2年)に萱津村の平八がやってきて地ならしをして、1753年(宝暦3年)に喜惣治へ売り渡し、平八は大浦新田に移り、その後、農民たちが入植して開発を行い、1788年(宝暦8年)に検地が行われたという経緯だったようだ。 喜惣治新田の神社についての記載はない。
アマテラスと共に祀られる弥都波能売神(みづはのめのかみ)は、大正5年(1916年)に字五番割にあった水神社を移して合祀した後のことだ。 『日本書紀』では罔象女神と表記される。 この水神社についての情報は何もないので、いつ誰が建てたのかは分からない。五番割がどこだったのか、今昔マップを見ても確認できない。 ミツハノメは水の神で、このあたりは水害に悩まされ続けたところだから、ミツハノメを祀るのは自然なことだ。 『延喜式』神名帳の山田郡大井神社は現在の如意に移される前は大我麻あたりにあったといい、ミツハノメを祀っているから、大井神社との関係は考えられる。
神社は、大山川、合瀬川と新地蔵川が合流する手前の堤防にある。住所も番地はなく堤防地となっている。 かつては堤防上に多く神社が建てられていた。その後、堤防工事や護岸工事などで移されたり合祀されたりで近年は残っているものは少ない。 神社南の堤防の上に、大きな楠があり、御神木とされている。 その木の根元に小さな祠がある。祀られているのはスサノオのようだけど、江戸期に津島神社(web)から牛頭天王を勧請して祀ったものではないだろうか。
この神社は村人たちの切実な思いで建てられ、守られてきたことが想像される。 しかし、あれほど苦労して開発した水田はもはや跡形もない。すっかり住宅地になってしまって、地名に痕跡を残すのみだ。 それでも、こうして町ができたのも、水田開発と共に堤防を築いたからで、彼らの苦労は無駄ではなかったと思いたい。 神社もこうして残り、物語は語り継がれる。せめて地名はこのまま変えずにずっと残していってほしいと思う。
作成日 2017.5.11(最終更新日 2019.1.13)
|