南区豊2丁目にある神明社。伝馬神明社と呼ばれている。
伝馬(てんま/でんば)というのは古代律令制において中央と地方を馬で結ぶ制度として始まったもので、中世に一度廃れたものが戦国時代に武将たちが復活させ、江戸時代に入って徳川家康が本格的に整備した。 東海道五十三次の各宿場には初め36頭の馬を用意しておくことが義務づけられ、後に100頭と定められた。 主に幕府の公的な荷物や人物を運ぶことを目的とするもので、宿場ごとに馬を乗り換えて運ぶというシステムだった。そうやってリレーすることで長い距離を馬を疲弊させずに人や物を運べるという利点があり、そうする方が馬の管理もしやすかった。 これを伝馬制といい、その役に当たったのを伝馬役人といった。この伝馬役は宿場が担うことになっていて、金銭的な負担が大きかった。その分、年貢や諸役を免除されたり、旅人の荷物を運んで稼いだりはできたものの、けっこうきつかったようで、伝馬の助成を目的とした新田開発が行われたりした。そういう新田のことを伝馬新田と呼んだ。
豊2の伝馬神明社の創建から現在に至るいきさつはわりとはっきり伝わっている。 熱田宿の伝馬役人だった稲葉源三郎と大森伊右衛門が、海だったこのあたりを干拓して新田を作った。1673年のことだ。 しかし、高潮などで堤防が何度も決壊して、なかなか収穫はあがらなかったようだ。 1696年にその土地の西側を熱田の材木商だった江戸屋長三郎が買い取って開墾した。後に新伝馬新田、長三郎新田と呼ばれるようになる。 その江戸屋長三郎が中心となって新田の守り神として建てたのがこの神明社だ。1712年の創建としている。 それは現在地の200メートルほど南で、新幹線の高架と247号線が交差するあたりだった(地図)。 昭和2年(1927年)頃、247号線が拡張されることになり、そこから300メートルほど東に移された。今の県営南豊住宅があるあたりだ(地図)。 当時そこには白木金属(金城削岩機)があり、戦争によって工場が拡張されると中に取り込まれる格好になり、参拝するのに不便だということで、昭和12年(1939年)に現在地に移されることになった。 ただ、神社境内の由緒碑や郷土碑の説明にはいくつか違っている点がある。 干拓をしたのは1696年(元禄9年)で、長三郎新田と称すようになったのは1744年に検地が行われた後とする。 更に道路の拡張に伴う移転が昭和12年で、現在地に移したのは昭和14年と書いている。 そのあたりの年数の違いがやや気になるところではあるものの、二度遷座していることは確かなようだ。
境内にある松山稲荷の創建も同じ年の1712年(正徳2年)とする。 同じく境内社の天王社の創建は不明ながら、移転するときに近隣の神社をまとめて合祀したようだ。 入り口近くには弘法堂がある。 現在、紀左衛門神社にある白竜社は、かつて長三郎新田にあったものだ。 その中の役行者像(えんのぎょうじゃぞう)と聖観音菩薩像は新田の堤防の上の大松の根元に祀られていた。 庚申塚の碑と青峰観音は悪水落とし(排水路)の水門の上にあった。 それらは昭和20年の空襲で壊れてしまったため戦後に移された。
このあたりは豊本通、豊田町、豊中町など豊がつく地名が多い。神社がある豊は昭和60年に江戸町や屋敷町などからできた町で、町名は周辺に豊がつく地名が多かったことから来ているという。苦労して新田を作った土地だから、それだけ豊かさに憧れ願ったことの表れだろう。 今はもう、田んぼなどまったく見られない住宅地となってしまった土地の歴史を神社は伝えている。 干拓で土地を生みだし、新田を開発して、守り神として神社やお堂を建てた。それらの多くが残ったという事実が苦難の歴史を伝えるといっていい。神社や堂が多く残る地区ほど災害に苦しめられた土地といえるのかもしれない。
作成日 2018.4.9(最終更新日 2019.8.26)
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