覚王山日泰寺(web)の東にある揚輝荘(ようきそう)の中にある稲荷社。 かつてこのあたりは丘陵地帯で森林とわずかな田畑と溜め池くらいしかない土地だった。末森村と丸山村の境くらいなのだけど、ここは古井村に属していたかもしれない。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ても、ほとんど手付かずに近い丘陵地で、丘の上に溜め池を作ってわずかな田畑で作物を育てていた様子が見てとれる。 覚王山駅があるあたりは月見坂と呼ばれる月見の名所として知られていた。『尾張名所図会』(1844年)にも「月見坂」と題した絵が載っている。坂を登ってくる人と坂の上で月を眺めている人たちが描かれている。 覚王山と呼ばれるようになったのは、明治37年(1904年)に覚王山日暹寺(にっせんじ)が建てられて以降のことだ。覚王(かくおう)は仏陀(ぶっだ)を敬っていう言葉だ。 明治31年(1898年)に、当時イギリスの植民地だったインドで、イギリス人地方行政官、ウイリアム・C・ペッペが釈迦の遺骨を発見した。 世紀の大発見ということで世界中が大騒ぎになり、話し合いの結果、いったんシャム王国の王室に預けられることになった(日暹の暹はシャム国のこと)。 その後、仏教国へ分骨されることになるのだけど、ここでも一悶着起きることになる。 日本もそのうちのひとつで、どこの寺が所有するかで大モメにモメて、最後は京都と名古屋の一騎打ちになり、最終的に名古屋に決まって日暹寺が建てられることになる。 そのあたりの経緯については以前ブログに書いた。 名古屋は日泰寺のことをもっと全国に宣伝してもいいんじゃないか シャム国がタイ王国に改名したことを受けて昭和24年(1949年)に日泰寺(にったいじ)とあらためた。 日本で唯一の超宗派の寺で、19派が3年交代で住職をつとめている。
創建当時は10万坪を有した日泰寺(現在は4万坪)の隣の山林を切り開いて伊藤次郎左衞門祐民が別荘を建てた。1918年(大正7年)のことだ。 伊藤祐民は松坂屋の前身、いとう呉服店の初代社長で、その別荘を揚輝荘(ようきそう)と名づけた。 修学院離宮(web)を参考にして池泉回遊式庭園を造り、建物を移築したり新築したりして最盛期は30棟を超えた。 設計には鈴木禎次と15代目竹中藤右衛門が関わっている。 鈴木禎次は名古屋を代表する建築家のひとりで、夏目漱石の義理の弟に当たる。 松坂屋の各店や鶴舞公園奏楽堂、旧中埜家住宅、旧豊田喜一郎邸などを手がけた。雑司ヶ谷霊園の夏目漱石の墓碑も鈴木禎次が設計したものだ。 竹中藤右衛門は竹中工務店の設立者で、初代の竹中藤兵衛正高は織田信長の普請奉行を務め、名古屋城時代に寺社の造営業を始めた人物だ。 揚輝荘は大正から昭和初期にかけて、皇族や政治家、文化人、外国人などが集まる名古屋のサロンのような場所となった。多くの留学生も受け入れたりした。
ここに稲荷社が建てられたのは昭和2年(1927年)のことという。 松坂屋京都店にあった稲荷社から勧請したという話と、松坂屋京都店の稲荷社を移したという話があって、どちらが本当なのか分からない。 その稲荷社は、京都仙洞御所にあった御所稲荷(豊春稲荷)から勧請したものという。 仙洞御所(せんとうごしょ)というのは、退位した天皇の御所のことをいう。仙洞は仙人の住み処という意味で、後に上皇や法皇が住まう場所を仙洞御所といった。 京都御苑の地図を見ると、中央やや西寄りに御所があり、その東南に大宮御所、仙洞御所(地図)がある。 仙洞御所は1627年(寛永4年)に後水尾上皇のために造営されたもので、正式名を桜町殿という。 大宮御所は、後水尾天皇の中宮、東福門院の女院御所として造営されたものが元になっている。 このあたりは豊臣秀吉の正室だったねね(北政所/高台院)の邸宅があったところだ。 仙洞御所は1854年(安政元年)の火災で焼けてしまい、その後は再建されなかった。
仙洞御所にいつ豊春稲荷が建てられたのかは分からない。後水尾天皇によるものなのか、その後なのか。仙洞御所ができた1627年以降だとは思う。 『花洛名勝図会』(1864年)の中に「御所稲荷社」が載っている。 「聖護院の東往還の北邊にありはじめは一條殿館内にありしを□□□□家臣川上氏□□居宅□本社鳥居南向社頭□天照大神官白山権現辨財天豊春稲荷の社等および聖天堂あり」(印刷ではない原文のため、一部旧仮名遣いなどの部分が分からない) 聖護院(web)は鴨川を挟んで御所の東にあった。いつの時点か、御所から移されたということらしい。 『京都坊目誌』(大正4年)にはこうある。 「字福の川春日通の北側三番戸にあり。門祠宇共に南面す。祭神倉稲魂命とす。始め御所の苑中に祀る。寶永五年(1708)三月八日仙院炎上し。翌年八月二十八日内旨を下し此に遷す」 これによると、1708年に仙洞御所が火事で焼けて、そのとき外に移したということのようだ。 更に時期は不明ながら、岡﨑東天王町の岡﨑神社(地図/web)にある宮繁稲荷に合祀されたという。
時系列がよく分からない部分があるのだけど、最初、仙洞御所にあった御所稲荷から松坂屋京都店が勧請して祀り、昭和2年に揚輝荘に移したか勧請して豊彦稲荷として祀ったということのようだ。 名古屋栄の松坂屋名古屋店本館の屋上に豊彦稲荷があるので、それと兄弟社ということになるのではないかと思う。
揚輝荘は名古屋市に寄贈されて、現在は一般公開されている。 北園は無料で、南園は有料(300円)、事前申し込みが必要となっている。 9:30-16:30 月曜日休園 内田康夫の『不等辺三角形』は、この揚輝荘が舞台となっており(表記は陽奇荘)、豊彦稲荷も登場する。
知る人ぞ知る名古屋の紅葉名所で、絵になるところが多いので紅葉撮影にもオススメだ。紅葉シーズンでも訪れる人はあまり多くない。 揚輝荘の住人が去った今、豊彦稲荷に神がいるかどうかは微妙なところなのだけど、ひとこと挨拶くらいはしておいてもいいかもしれない。
作成日 2018.5.31(最終更新日 2019.2.17)
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