302号線の茶臼前交差点のすぐ北なのだけど、奥まったところにあって細い道が入り組んでいるので少し見つけづらい。神社はかつてすぐ南西にある茶臼山古墳の上にあった。 神社創建のいきさつと経緯について、境内の由緒書きはこんなことを書いている。 昭和元年、地主の朝倉千代吉と谷口藤次郎は、小幡、喜多山の丘陵地十六万坪に分譲住宅を建てて売り出したのが始まりだった。彼らはそこを翠松園(すいしょうえん)と名付けた。 山を切り開いたこともあって山の神を祀ろうということになり、オオヤマヅミ(大山祇神)を祀る神社を建てた。それが大山祇神社だ。 翠松園の中には小幡茶臼山古墳(おばたちゃうすやまこふん)があったため、その霊を祀る霊神合祀ノ碑を昭和3年に古墳の上に建てた。 昭和36年に緑が丘商業高校の通学路を作るため、古墳や神社の一部が削り取られることになった。そのため、あらたに社を建て直し、古墳の上の社は神社に移すことになった。 現在の社は平成24年に建て直したものだ。
以上が由緒書きの要点をまとめたものなのだけど、これはちょっと違っているということを詳しい方から教えていただいた。 そもそもの始まりは、小幡字北山2773番10にあった壹萬稲荷神社だったという。それは現在の神社から見て140メートルほど東北のこのあたり(地図)だったようだ。 そこから150メートルほど東に上池・下池という二つの溜め池があり、これは小幡村の人が灌漑用に掘った池だった。小幡村の農民が豊作祈願のために稲荷を祀ったのが始まりだとすれば、神社の創建は江戸時代ということになるだろうか。 朝倉千代吉と谷口藤次郎がこの土地を取得したのは明治45年(1912年)のことという。大正時代に丘陵地を切り開いて道路を通し、昭和元年(1926年)に翠松園と称して住宅地の分譲販売を始めた。 そのあたりの変遷は今昔マップを年代順に見ていくと分かりやすい。明治まで何もない丘陵地だったところに大正時代になって突然、道路が通っている。 茶臼山古墳の西には小さな溜め池が二つあり、こちらは戦後に埋め立てられたようだ。 この分譲地の中にあった壹萬稲荷神社を昭和3年(1928年)に廃して、あらたに大山祇神社(愛媛県今治市)から勧請して大山祇神社を茶臼山古墳の上に建てたという。そのとき壹萬稲荷神社を合祀したようだ。 場所は現在地から見て80メートルほど南西、前方後円墳の前方部中腹あたり(地図)だった。 昭和22年(1947年)に朝倉千代吉と谷口藤次郎から翠松園の住人が作る翠松会に譲られることになり、維持管理も移った。 昭和35年(昭和35年)に県立緑丘商業高校が建設されることになり、翌年、茶臼山古墳にあった神社は現在地に移された。 以上が実際の経緯だったようなので、境内の由緒書きは間違っているとまではいえないけど言葉足らずとはいえそうだ。
小幡一帯にかつて大小100以上の古墳があった。現在の小幡1丁目から4丁目にかけての全域に明治になって軍の小幡ヶ原射撃場が作られ、古墳の大部分が破壊されてしまった。 小幡の茶臼山古墳は一部が破壊されたとはいえ、残された数少ないうちの一基で、6世紀後半に築造された中型の前方後円墳だ。 昭和と平成に何度か調査が行われ、全長は60メートルほどと判明した。横穴式石室や多数の副葬品も見つかっており、この地区の首長クラスの人物が葬られたと考えられる。 大正時代に盗掘されたとされるも、土師器や須恵器だけでなく、鉄製の武器や武具、金環、銀環、玉などの装飾品も入れられていた。 6世紀後半というと古墳時代晩期に当たり、これ以降は古墳そのものがほとんど造られなくなっていく。 守山区内には志段味地区と守山エリアにも古墳が集中しているエリアがある。いずれも庄内川流域の丘陵地に古墳は築かれている。 志段味と小幡、守山との関係性や尾張氏の支配地だったのか非支配地だったのかも気になるところだ。
霊神合祀ノ碑の他に尊星王と刻まれた石碑がある。これに関しては情報がなくて詳しくは分からないのだけど、尊星王(そんしょうおう)は北極星を神格化した神だ。 空海の真言密教(東密)では妙見菩薩と呼び、最澄の天台密教(台密)では尊星王と呼ぶから、これは天台密教との関わりが考えられる。 もともとはインドで発祥した菩薩信仰が中国で道教の北極星信仰と結びついて仏教では天部のひとつとなり、密教を通じて日本にもたらされた。 日本では神仏習合してやや複雑な経緯を辿り、一部で熱心に信仰されてきた。 滋賀県の三井寺(園城寺)(web)にある尊星王像(絵画)や尊星王立像(そんじょうおうりゅうぞう)はよく知られている。 神社の系統としては千葉市の千葉神社(web)が妙見菩薩を祀る神社だった。これは千葉氏が妙見菩薩を一族の守り神としていたためで、剣術の北辰一刀流もこの流れを汲んでいる。 明治以降、千葉神社では天之御中主神を祭神としている。 北辰北斗信仰は民間信仰にもなっていったと同時に天皇も宮中で祀ったとされる。 平安時代以降、元日の四方拝のとき、天皇自らが北斗の神号を称え、北辰に向かって拝し、3月3日と9月3日には北辰に灯を献じる北辰祭も行ったという。 名古屋では妙見信仰はあまり浸透しなかったように思える。現存するのは昭和区の妙見宮(浄昇寺)くらいではないかと思う。尊星王として祀っているのはここで初めて見た。 北極星に限らず、日本で星信仰があまり流行らなかったのはどうしてだろう。ヨーロッパのようにそれぞれの星や星座を神に見立てて祀るようなことはしなかった。 星神社(上小田井)や星宮社が名古屋にもあるものの、天香香背男(アメノカガセオ)や天津甕星(アマツミカボシ)などを祀るとしつつ、その正体ははっきりしない。 月の神であり、アマテラスとスサノオの兄弟神であるツクヨミですら影が薄い。
山の神と星の神と古墳の主を祀っていると考えると、ここはなかなか面白い神社だ。天地人ということになる。それに稲荷神も隠れている。 丘陵地の奥まった住宅地にある小さな神社ではあるけど、そんな神社にも歴史がある。古墳の被葬者は今何を思うだろう。
作成日 2017.12.15(最終更新日 2019.1.9)
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