大山祇神社(翠松園)

山の神と北極星と古墳の主を祀る

大山祇神社 翠松園

読み方 おおやまづみ-じんじゃ(すいしょうえん)
所在地 名古屋市守山区翠松園1丁目 地図
創建年 昭和元年(1926年)
社格等 不明
祭神 大山積大神(おおやまづみおおかみ)
 アクセス

・名鉄瀬戸線「喜多山駅」から徒歩約11分
・駐車場 あり

webサイト  
オススメ度

 302号線の茶臼前交差点のすぐ北なのだけど、奥まったところで細い道が入り組んでいるので見つけるのにちょっと苦戦した。自転車だったからよかったけど車はどこまで入っていけるだろう。地元の人は普通に入っていっているのだろうけど。

 入り口に詳しい由緒書きがあるので分かりやすい。要点をまとめるとこうだ。
 昭和元年、地主の朝倉千代吉と谷口藤次郎は、小幡、喜多山の丘陵地十六万坪に分譲住宅を建てて売り出したのが始まりだった。彼らはそこを翠松園(すいしょうえん)と名付けた。
 山を切り開いたこともあって山の神を祀ろうということになり、オオヤマヅミ(大山祇神)を祀る神社を建てた。それが大山祇神社だ。
 翠松園の中には小幡茶臼山古墳(おばたちゃうすやまこふん)があったため、その霊を祀る霊神合祀ノ碑を昭和3年に古墳の上に建てた。
 昭和36年に緑が丘商業高校の通学路を作るため、古墳や神社の一部がごっそり削り取られてしまう。そのため、あらたに社を建て直し、古墳の上の社は神社に遷すことになった。
 現在の社は平成24年に建て直したものだ。

 小幡茶臼山古墳は、6世紀後半に築造されたとされる中型の前方後円墳だ。昭和と平成に何度か調査が行われ、推定全長は60メートルほどとされた。副葬品も多数見つかっており、重要な首長クラスの人物が葬られたと考えられる。
 大正時代に盗掘されたとされるも、土師器や須恵器だけでなく、鉄製の武器や武具、金環、銀環、玉などの装飾品も入れられていた。
 6世紀後半というと、大型の前方後円墳の最後の時期に当たり、これ以降は古墳そのものもあまり造られなくなっていく。
 守山区の中ではここより北東の志段味地区に一大古墳群があり、小幡エリアにも古墳が集中している。いずれも庄内川流域の丘陵地に築かれている。
 志段味と小幡の関係性や尾張氏の支配地だったのか非支配地だったのかも気になるところだ。

 霊神合祀ノ碑の他に尊星王と刻まれた石碑がある。由緒書きではこのことに触れていないので詳しい経緯は分からないのだけど、尊星王(そんしょうおう)は北極星を神格化した神とされている。
 空海の真言密教(東密)では妙見菩薩と呼び、最澄の天台密教(台密)では尊星王と呼ぶ。
 もともとはインドで発祥した菩薩信仰が中国で道教の北極星信仰と結びついて仏教では天部のひとつとなり、密教を通じて日本にもたらされた。
 日本では神仏習合してやや複雑な経緯を辿り、一部で熱心に信仰されてきた。
 滋賀県の三井寺(園城寺)(web)にある尊星王像(絵画)や尊星王立像(そんじょうおうりゅうぞう)はよく知られている。
 一般的には東密の北辰妙見菩薩や妙見信仰といった呼び名の方が馴染みがあるかもしれない。
 神社の系統としては千葉市の千葉神社(web)が妙見菩薩を祀る神社だった。これは千葉氏が妙見菩薩を一族の守り神としていたためで、剣術の北辰一刀流もこの流れを汲んでいる。
 明治以降、千葉神社では天之御中主神を祭神としている。
 北辰北斗信仰は民間信仰にもなっていったと同時に天皇も宮中で祀ったとされる。
 平安時代以降、元日の四方拝のとき、天皇自らが北斗の神号を称え、北辰に向かって拝し、3月3日と9月3日には北辰に灯を献じる北辰祭も行ったという。
 名古屋では妙見信仰はあまり浸透しなかったように思える。密教系の寺院では多く祀ったのだろうか。神社では見かけた覚えがなく、尊星王を祀っているのはここで初めて見た。
 北極星に限らず、日本で星信仰があまり流行らなかったのはどうしてだろう。ヨーロッパのようにそれぞれの星を神に見立てて祀るようなことはしなかった。
 星神社や星宮社は名古屋にも何社かあるものの、天香香背男(アメノカガセオ)や天津甕星(アマツミカボシ)などを祀るとしつつ、その正体ははっきりしない。あまり大っぴらに祀っていないという言い方もできる。
 月の神であり、アマテラスとスサノオの兄弟神であるツクヨミですら影が薄い。

 山の神と星の神と古墳の主を祀る神社と考えると、ここはなかなか面白い。天地人だ。
 丘陵の住宅地にある歴史の浅い小さな神社ではあるけど、こんな神社があるということをこうして伝えられてよかった。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

翠松園の守り神、大山祇神社

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