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五所社(中小田井)


五社を祀るから五所社というのは本当か



中小田井五所社

読み方ごしょ-しゃ(なかおたい)
所在地名古屋市西区中小田井1丁目 地図
創建年不明
旧社格・等級等指定村社・十三等級
祭神菊理比売命(くくりひめのみこと)
誉田別尊(ほんだわけのみこと)
アクセス名鉄犬山線「中小田井駅」から徒歩約7分
駐車場 なし
その他例祭(秋祭り) 10月15日
オススメ度

 中小田井村の氏神で、五柱の神を祀っているから五所社と名づけたとされる。
『尾張志』(1844年)にはこうある。
「五社ノ社 中小田井村にあり 神明八幡天神愛宕熊野の五神を祭れり 古は五神の外白山ノ神をもて本社に配せ祭れり 社内に辨天の社一區あり 天文十四乙巳年小田井城主織田藤左衞門寛維造進す 寛永十六巳卯年熊野社修造あり 承応二年癸巳愛宕ノ社修造あり」
 神明、八幡、天神、愛宕、熊野、白山というなら五社ではなく六社ではないかという指摘は当然あるべきなのだけど、白山は昔に合祀されていて今は五社なので五社社というのが当時の認識だったらしい。
『尾張名所図会』(1844年)は五社明神社(ごしゃみょうじんのやしろ)として「本社八幡、白山を相殿に祭る。左右の摂社神明・愛宕・天神・熊野の五社なり」と書く。本体は八幡だったようだ。
 ただ、江戸時代前期の『寛文村々覚書』には「五社大明神」とあり、五柱の神というより五社大明神という神を祀っていたのではないかと思ったりするのだけどどうだろう。
『寛文村々覚書』には五社大明神の他に、中小田井村には天神、愛宕、神明、白山があると書いている。村に5つあった神社の中心だったから五社大明神と呼ぶようになり、それが社名になったという可能性はないのか。
 少なくとも最初から五社社として創建されたのではないような気がする。



『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。
「創建は明かではない。『尾張志』に五社ノ社とあり、神明・八幡・天神・愛宕・熊野の五神を祭る 古くは五神の外、白山ノ神も配せ祀る。天文十四年乙巳年(1545)8月、小田井・城主、織田藤左衞ヱ門寛維再建すと、尚境内社の熊野社は寛永十六己卯年(1639)の修造、愛宕社は承応二癸巳年(1653)の修造なり。明治5年、村社に列格し、明治24年9月地震により拝殿倒潰 明治26年10月再建する。明治40年10月26日供進指定社となる」



 しかしこれはおそらく解釈を間違えている。
「天文十四乙巳年小田井城主織田藤左衞門寛維造進す」というのは五所社のことではなく、注釈の「社内に辨天の社一區あり」に続く文章なので、織田藤左衞門寛維が造進したのは、この辨天社のことだろう。
「造進」というのは造って献上するという意味で、本社を再建したのなら修造などと書くはずだ。
 いずれにしても、1545年にはすでに五社社があったということは間違いなさそうだ。思う以上に古いかもしれない。



 織田寛維(おだとおふさ)は清洲三奉行のうちのひとつ藤左衛門家の当主で、織田寛故(おだとおもと)の嫡男に当たる。
 尾張国は管領でもある斯波氏(斯波武衛家)が守護職で、織田家は守護代だった。応仁の乱で斯波氏内で内紛が起こり、それに伴い織田家も分裂することになった。
 清洲織田氏(大和守家)と岩倉織田氏(伊勢守家)に分かれ、清洲三奉行は清洲織田家に仕える3つの奉行家で、因幡守家、藤左衛門家、弾正忠家があった。
 信長は弾正忠家で、結果的に弾正忠家が尾張国を統一することになる。織田家は守護代とはいえ、信長の家は守護代の下の奉行家のうちのひとつということで、下克上には違いない。
 織田寛維は父の後を継いで三代目の小田井城主となった。
 1542年の大垣城攻めに参戦して討ち死にしたと伝わっている。
 もしそれが事実なら、『尾張志』がいうように1545年に五所社に辨天を建てるのは無理ということになる。年数の間違いか、弟の寛廉(信張)あたりが建てたものが寛維の名で伝わってしまったのか。



 小田井城(おたいじょう)は、中小田井の南、清須市西枇杷島町の古城交差点(地図)あたりにあったと伝わる。
 室町時代中期の応永年間(1394-1428年)に、清洲織田家の織田敏定(おだとしさだ)が築城したとされる。
 敏定が清洲城に移った後、その弟で藤左衛門家当主の織田常寛(おだつねとお)が城主となった。
 その後、藤左衛門家の居城として寛故、寛維、信張、信直、信氏と続き、忠辰のとき羽柴秀吉によって追われ、廃城となったとされる。1584年の小牧長久手の戦いのときだ。



 五所社のすぐ西の道は旧岩倉街道だ。
 岩倉方面と名古屋城下を結ぶために1667年に整備された道で、部分的には古くからあったと考えられている。中小田井のあたりは名古屋城築城の頃にできたという。
 枇杷島には大きな青物市場があり、尾張北部から野菜などを運ぶために利用された。その運搬人のための小さな店が並んでいたのが中小田井の集落で、往事の面影を残す通りは名古屋市の町並み保存地区に指定されている。
 五所社の少し北にある願王寺は、平安時代前期の829年に、越州の澄純法師が寺を建てて、慈覚大師作と伝わる薬師如来を安置して疫病の治療を行ったのが始まりとされる古刹だ。
 小田井城主だった織田信張(寛維の子)が伽藍の整備をしたと伝わっている。
 善光寺別院とされるのは、明治42年(1909年)に善照院伏雷法師が夢でお告げを受けて信州の善光寺(web)から善光寺如来を勧請したことから来ている。



 小田井は中世の史料には於田江と出てくる。当時は東保・中保・西保に分かれていたようだ。
 江戸時代は上中下の小田井村に分かれていた。
 村に小田井城主の織田家が作った用水路があり、織田殿の井通と読んでいたことから小田井村になったという説もある。



 社殿は明治24年(1891年)の濃尾地震で倒壊している。名古屋市北部の神社では、この濃尾地震の話がちょくちょく出てくる。
 名古屋の中心部は空襲で焼け、南部は伊勢湾台風でやられ、北部は濃尾地震で被害に遭っている。いつかどこかで災害は起きるものだ。
 その後、明治26年に再建されたというけど、現在の社殿はそのときのものだろうか。


 創建の時期やいきさつについては結局のところよく分からない。
 六所社とか十所社とか、所社系の神社は分からないところが多い。何故、社ではなく所なのか。五社を祀るなら五所社ではなく五社社だろう。実際、『尾張志』などでは五社ノ社や五社大明神となっている。いつ五社を五所としたのか。
 これ以上調べても新情報は得られそうにないし、考えて分かることでもないのだけど、これで解決したわけではない。




作成日 2018.3.26(最終更新日 2018.12.18)


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