かつての二女子村にあった神社のひとつで、現在は二女子町の熊野社(地図)の末社という扱いになっているようだ。熊野社から見て白山社は140メートルほど南に位置している。
『寛文村々覚書』(1670年頃)の二女子村の項にこうある。 「社三ヶ所 内 明神 権現弐社 牛立村祢宜 九左衞門持分 社内六畝拾五歩 前々除」 『尾張志』(1844年)に、「熊野社 白山ノ社 二女子村にあり」とあるから、権現弐社は熊野権現と白山権現のことだろう。 いずれも前々除となっていることからすると、1608年の備前検地以前からあったと考えられる。
東隣にある祐正寺は、かつて専光坊といっており、寺伝によると鎌倉時代前期の1224年(元仁元年)に義円という僧が堂を建てたのが始まりという。 『尾張志』は、智多郡大野村光明寺の末寺で、延徳三年寅二月に道圓という僧が創建したと書いている。延徳3年は1491年だから戦国時代前期に当たる。 『尾張志』は寺伝によると加藤清正の弟・祐正が創建したとあるとも書いている。 『中川区の歴史』は、加藤祐正が剃髪して僧になってここに住んで、家康が祐正寺という寺号を与えたという説があることを紹介している。 寺の周囲の石垣に名古屋城築城の際に余った石が使われているということなので、加藤清正との関わりはあり得る話だ。 白山社はこの祐正寺の管理だったというから、明治になるまでは寺の鎮守という扱いだったかもしれない。 祐正寺は浄土真宗の寺なのだけど、寺の住職が白山権現を勧請したとも考えられる。 もしくは、白山権現の方が先で、祐正寺の方が後という可能性もあるのか。
『愛知縣神社名鑑』は、明治6年に据置公許となったと書くだけで詳しいことは分からない。 氏子も宮司も熊野社と同一とあるので、お世話や祭礼なども熊野社の氏子や宮司が行っているのだろう。 この規模でよく合祀されなかったものだ。二女子の北と南でかつては住み分けができていたのかもしれない。 お世話をする人もたくさんいるだろうから、今後も心配はなさそうだ。小さいながらもこざっぱりした神社だと感じた。
作成日 2017.7.7(最終更新日 2019.6.9)
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