七所神社(伏屋)

熱田神宮と神仏習合の「ひちしょ」

伏屋七所神社

読み方 ひちしょ-じんじゃ(ふしや)
所在地 名古屋市中川区伏屋2-1701 地図
創建年 不明
社格等 村社・十二等級
祭神

日本武尊(やまとたけるのみこと)
足仲彦命(たらしなかつひこのみこと)
乎止与命(おとよのみこと)
稲依別命(いなよりわけのみこと)
宮酢姫命(みやすひめのみこと)
迦具土神(かぐつちのかみ)
草薙御劔御霊(くさなぎのみつるぎのみたま)

アクセス

・近鉄名古屋線「伏屋駅」から徒歩約4分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 七所と名前のつく神社もそれぞれだけど、名古屋における七所は熱田神宮と関係があるところが多い。この中川区伏屋にある七所神社もそうだ。

 中村区岩塚の七所社は、熱田神宮に納める米を作るための神田があり、そこに御田神社を建てたことに始まり、室町時代に岩塚城主だった吉田守重が熱田神宮(このときはまだ熱田神社)から七社を勧請して祀ったことから七所社と称されるようになったとしている。
 祭神は以下の通り。

日本武尊(やまとたけるのみこと)
天照大神(あまてらすおおみかみ)
倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)
高倉下命(たかくらじのみこと)
宮簀姫命(みやずひめのみこと)
乎止與命(おとよのみこと)

 南区笠寺にある七所神社は、平将門が起こした反乱を鎮めるために、笠寺の地に熱田の七社を移して祈祷したことに始まるとされる。
 祭神は以下の通り。

日本武尊(やまとたけるのみこと)
須佐之男尊(すさのおのみこと)
宇賀魂命(うがみたまのみこと)
天穂日尊(あめのほひのみこと)
天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)
乎止与尊(おとよのみこと)
宮簀比売尊(みやずひめのみこと)

 この中川区伏屋の七所神社については、いつ誰がどういういきさつで建てたのかという話が伝わっていない。
 岩塚の七所社から見て、南西約2キロの庄内川右岸に神社はある。南区笠寺とは10キロ以上離れているから関係性は薄いか。
 祭神は以下の通り。

日本武尊(やまとたけるのみこと)
足仲彦命(たらしなかつひこのみこと)
乎止与命(おとよのみこと)
稲依別命(いなよりわけのみこと)
宮酢姫命(みやすひめのみこと)
迦具土神(かぐつちのかみ)
草薙御劔御霊(くさなぎのみつるぎのみたま)

 共通するのはヤマトタケル(日本武尊)、その妃のミヤズヒメ(宮簀姫命)、ミヤズヒメの父で尾張国造のオトヨ(乎止与命)で、あとは少しずつ違っている。
 中でも伏屋七所神社の祭神の顔ぶれはちょっと変わっている。やや違和感もある。
 何故ここに火の神カグツチが入っているのか。熱田神宮にもカグツチを祀る末社くらいはあるかもしれないけど、直接的な関係はないはずだ。
 更に何故、稲依別命(いなよりわけのみこと)がここに入ってくるのかもよく分からない。
 足仲彦命(たらしなかつひこのみこと)はヤマトタケルの第二子とされ、のちの第14代仲哀天皇として即位した。
 母は垂仁天皇の皇女・両道入姫命(ふたじいりひめのみこと)だ。
 稲依別命は、ヤマトタケルの第一子で、母親も足仲彦と同じ両道入姫とされる。
 どうして稲依別が天皇になれなかったのかは分からないけど、熱田から七柱の神を呼ぶとなったとき、稲依別を選んだのはどういう理由だったのだろう。
 一説では日別(日割御子神社)の祭神が稲依別というのがある。それくらいしか理由が考えられない。
 現在の熱田神宮摂社・日割御子神社の祭神は天忍穗耳尊(あめのおしほみみのみこと)となっている。尾張氏の祖とされる天火明命(あめのほあかりのみこと)の父神とされる神だ。
 もうひとつ疑問なのが、三社ともタケイナダネ(建稲種命)が入っていないことだ。
 現在の熱田神宮では、熱田大神を主祭神として祀り、アマテラス、スサノオ、ヤマトタケル、ミヤズヒメ、タケイナダネを相殿神として祀っている。
 しかし、なんとなく熱田においてタケイナダネの影が薄いような気がしてならない。
 タケイナダネは、オトヨの息子でミヤズヒメの兄で、オトヨの跡を継いで尾張の首長となった人物だ。ヤマトタケルの東征に副将軍として従い、武功を挙げた帰り道で駿河の海に落ちて死んだことになっている。
 そんな重要人物なのに、どうも扱いが雑というか重要視されていないように感じられる。
 これ以上考えると熱田神宮の迷宮に迷い込むことになるで、この話はいったん保留としたい。

 七所の読み方だけど、中村区岩塚は「しちしょ」社で、南区笠寺は「ななしょ」神社、ここ伏屋は「ひちしょ」神社となっている。わざわざそうフリガナを振っているということはそれが正式な読み方なのだろう。神社の由緒書きもそうだし、『愛知縣神社名鑑』でもそうなっている。
 普通、七は「しち」と読む。「ひち」と発声するのは関西に多いとされ、名古屋でも「しち」と「ひち」は混在しているようだけど、神社の名称なのだから単なる訛りとも思えない。何か特別な理由があるのだろうか。
 七という数字以外に「ひちしょ」ということであれば、たとえば日地所や火地所などといった漢字が思い浮かぶ。「ひち」を一文字で表す漢字は思い浮かばない。
 ひちしょ、ひちしょ………。考えすぎだろうか。

 創建年は不明ながら、永正六巳年(1509年)再建の棟札があると『尾張殉行記』にあることから、創建されたのはそれ以前ということが分かる。どこまでさかのぼれるかは何とも言えない。
『尾張志』では「七社明神社 伏屋村にあり」とある。
 伏屋の地名の由来は、布施屋(ふせや)から来ているとされる。
 現在の伏屋は「ふしや」と読ませているけど、かつては「ふせや」だった。
 津田正生『尾張国地名考』にこうある。
「【近藤利昌云】伏屋何某の住居より村名と成とぞ
【因書】【眞野時綱曰】仁明天皇の御時諸國に布施屋を建(袖中抄)と見ゆ是は往来無頼(よるかたなき)の旅人を宿し恤む所なり
【正生考】布施(ふせ)は漢語、屋は國語の継継(つぎつぎ)にて俗語なり」
 伏屋という人がかつてここで暮らしていたことから村の名前になったという説と、仁明天皇のとき各地に作られた布施屋がここにもあったことから伏屋という村の名前になったという説を紹介している。
 布施屋というのは、救済簡易宿泊施設のようなものだ。仁明天皇は平安初期の天皇で、律令制のもと、地方の人間は労役や兵役に借り出され、都に歩いて行き来することを余儀なくされた。行き倒れたりする人も少なくなかったということで、各地に布施屋が作られることになり、主に寺院がその任に当たった。
 布施(ふせ)というのは今でもお布施というときに使うように、施(ほどこ)すという意味から生まれた言葉だ。恤むは「めぐむ」と読み、今は恵むと書く。
 ちなみに、袖中抄(しゅうちゅうしょう)というのは平安末期の歌学書で、歌の中にある難しい言葉を選び出して注釈を加えたものだ。
 伏屋は庄内川の右岸で、布施屋は大水で川を渡れないときに旅人が泊まる宿としての機能もあったと考えられる。
 伏屋の地名が布施屋から来ているというのであれば、この七所神社はその関係で創建された可能性がある。

 ここはどうも仏教色が強い感じがする。
 入り口の鳥居が両部鳥居(りょうぶとりい)というのもそのひとつだ。
 両部鳥居というと海に浮かぶ厳島神社のものがよく知られている。名古屋市内では数少ない。
 密教との関連も深く、神仏習合の名残ともいう。
 拝殿には十二支が彫られ、その一番には金剛力士像のようなものも彫られている。中程には恵比須と大黒の石像が置かれている。
 拝殿と本殿は瓦屋根の渡殿でつながり、本殿は銅板葺になっている。
 神社由緒書きにはないながら気になる情報がふたつある。
 ひとつは、明治42年(1909年に)神社公称となるということ、もうひとつは昭和20年(1945年)の戦争で本殿が全焼したということだ。
『愛知縣神社名鑑』には、明治5年に村社に列格して明治40年に指定社となり、明治42年に七所神社と改称したとある。
 明治42年に七所神社と改称したとき神社公称となったということは、それまでは何という名前のどういう神社だったのか。神仏習合の七所大明神と称していたのを仏教色を排して七所神社にしたのかとも考えたのだけど、明治初めの神仏分離令を逃れられたとも思えず、だとすれば明治終わりの神社合祀政策に絡むものかもしれない。
 戦争で本殿が全焼したというのは空襲があったということなのか。名古屋空襲というと熱田区から北の名古屋中心部がよく知られてけど、中川区も一部被害が出たようなので、ここもそのひとつということになるだろうか。
 焼けたのが本殿だけだとするなら、本殿は戦後の建物で、拝殿などは戦前の建物ということかもしれない。
 そのあたりのことは想像で書いているので実際のところはどうか分からない。

 結局のところ、この神社はどういう神社かと問われると、なんとも答えようがない。
 熱田神宮、七所、布施屋、大明神、神仏習合、空襲、そんないくつかのキーワードが浮かぶも、つながりそうでつながらない。
 歴史のベールをはいでいくと、最後に残った本体は意外な姿をしているようにも思える。それは熱田神宮とはまったく無関係のものという可能性もある。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

中川区伏屋の七所神社はよく分からない

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