名古屋で七所と名前のつく神社は熱田社(熱田神宮/web)と関係がある。中川区伏屋にある七所神社もそうだ。 中村区岩塚の七所社は、熱田社に納める米を作るための神田があり、そこに御田神社を建てたことに始まり、室町時代に岩塚城主だった吉田守重が熱田社から七社を勧請して祀ったことから七所社と称されるようになったとしている。 南区笠寺にある七所神社は、平将門が起こした反乱を鎮めるために、笠寺の地に熱田の七社を移して祈祷したことに始まるとされる。 この中川区伏屋の七所神社については、いつ誰がどういういきさつで建てたのかという話が伝わっていないものの、祭神の顔ぶれは熱田の神だ。蕃塀にも熱田神宮の神紋である五七桐竹紋が浮き彫りされている。 岩塚の七所社から見て南西約2キロの庄内川右岸に神社はある。南区笠寺とは10キロ以上離れているから無関係か。
江戸時代の書を見ると、伏屋村には七所社(大明神)と白山の二社があったことが分かる。白山社は今も現存している。
『寛文村々覚書』(1670年頃) 「社弐ヶ所 内 大明神 白山 当村祢宜 助太夫持分 社内壱反弐畝拾歩 竹木・林 前々除」
『尾張徇行記』(1822年) 「府志云、七社明神祠白山祠倶在伏屋村 祠官村上相模書上帳ニ、七社大明神祠境内一反二十歩前々除 勧請ノ初年暦不詳、永正六巳年再建ノ由 白山祠境内二畝前々除 勧請ノ初年暦ハ不詳、永禄拾卯年再建ノ由」
『尾張志』(1844年) 「七所明神ノ社 白山ノ社 二社伏屋村にあり」
創建年は不明ながら永正6年再建ということは1509年以前にはあったということだ。 現在もそうなのかは分からないけど、近年まで村上氏が宮司をしていたから江戸時代から変わらず村上家がこの神社を守ってきたようだ。
神社がある伏屋は現在「ふしや」といっているのだけど、江戸時代の伏屋村は「ふせや-むら」だった。 伏屋の由来について津田正生は『尾張国地名考』にこう書いている。 「【近藤利昌云】伏屋何某の住居より村名と成とぞ 【因書】【眞野時綱曰】仁明天皇の御時諸國に布施屋を建(袖中抄)と見ゆ是は往来無頼(よるかたなき)の旅人を宿し恤む所なり 【正生考】布施(ふせ)は漢語、屋は國語の継継(つぎつぎ)にて俗語なり」 布施氏または伏屋氏の田があったことが由来という説や、旅人や無宿人のために作られた布施屋があったからという説に加え、傾斜地を意味する「ふせ」から来ているという説などがある。 布施屋というのは、救済簡易宿泊施設のようなものだ。平安前期の仁明天皇(在位833-850年)の時代、律令制のもと、地方の人間は労役や兵役に借り出され、都に歩いて行き来することを余儀なくされた。行き倒れたりする人も少なくなかったということで、各地に布施屋が作られることになり、主に寺院がその任に当たった。 布施(ふせ)というのは今でもお布施というときに使うように、施(ほどこ)すという意味から生まれた言葉だ。恤むは「めぐむ」と読み、今は恵むと書く。 袖中抄(しゅうちゅうしょう)というのは平安末期の歌学書で、歌の中にある難しい言葉を選び出して注釈を加えたものだ。 伏屋は庄内川の右岸で、布施屋は大水で川を渡れないときに旅人が泊まる宿としての機能もあったと考えられる。 伏屋の地名が布施屋から来ているというのであれば、この七所神社はその関係で創建された可能性も考えられる。
祭神の顔ぶれが少し変わっている。 日本武尊(ヤマトタケル)と草薙御劔御霊(くさなぎけん)、ヤマトタケルの妃になったとされる宮酢姫命(ミヤズヒメ)、その父の乎止与命(オトヨ)までは熱田社関係でいいとして、足仲彦命(タラシナカツヒコ)と稲依別命(イナヨリワケ)が入ってくるのは意外だ。 秋葉社などで祀られる迦具土神(カグツチ)は最初からだったのか。 足仲彦命はヤマトタケルの第二子とされ、のちに第14代仲哀天皇として即位した人だ。母は垂仁天皇の皇女・両道入姫命(フタジイリヒメ)となっている。 稲依別命はヤマトタケルの第一子で、母親も足仲彦と同じ両道入姫とされる。『日本書紀』では同母弟に稚武王(ワカタケノミコ)もいるとする。 フタジイリヒメについては、『日本書紀』では両道入姫と表記して垂仁天皇の皇女としているのに対して、『古事記』では布多遅比売として近江の安国造の祖の意富多牟和気(オオタムワケ)の娘としている。それ以外にヤマトタケルの妃として布多遅能伊理毘売命(フタジノイリビメ)がいるとする。このあたりに混乱というか『日本書紀』の作為があるかもしれない。 それはともかくとして、熱田社関連で稲依別というと、日割御子神社が考えられる。かつては日別として稲依別と祀るとしていた(今の祭神は天忍穗耳尊(アメノオシホミミ)となっている)。 足仲彦が祭神に入っている理由は分からない。熱田社でも他の七所社でも足仲彦は祀られていない。 逆に、建稲種(タケイナダネ)が入っていてもよさそうなのに入っていない。ミヤズヒメの兄であり、オトヨの息子であり、ヤマトタケルの東征では副将軍として活躍した人物だ。熱田神宮では祭神の中の一柱とされている。
江戸時代前期の時点では大明神だったのがいつからか七社大明神となり、七所明神となっている。大明神と呼ばれていた時代は本当に七柱の神を祀っていたのだろうか。 七社と七所は本当に同じことを表しているのかどうかという疑問もある。 『愛知縣神社名鑑』は七所に対して「ひちしょ」とフリガナを振っている。一般的に正しくは「しち」ではある。ただ、質屋を「ひち」といったりするように「ひちしょ」が必ずしも間違っているわけではない。関西では特に多いとされる。江戸っ子は逆に「ひ」が「し」になる。
入り口の鳥居が両部鳥居(りょうぶとりい)になっているのはあえてなのだろう。 両部鳥居というと海に浮かぶ厳島神社(web)のものがよく知られている。名古屋市内では数少ない。 両部というのは密教における金剛界と胎蔵界のことで、中世の神仏習合時代には両部神道と呼ばれる考え方があった。 拝殿には十二支が彫られ、上部には力神(リキジン)像がいる。名古屋南部の神社にちょくちょくあるもので、北部や東部ではまったく見られない。 力神というのは仏教の守護神だとか、四天王に踏みつけられている悪鬼だとかいわれるも、その実体はよく分からない。 恵比須と大黒の石像もあり、全体的に神仏習合の名残が感じられる。
神社のすぐ東南にある宝蔵院は奈良時代の僧、行基が開いたともされる古い真言宗の寺だ。古くは雲龍山無勤寺と称していたという。 この寺を中興させたのが汲範上人で1504年から1521年にかけてだった。七所神社が再建されたのが1509年だから、そのとき何らかの関わりがあったかもしれない。
『愛知縣神社名鑑』によると明治5年7月に村社に列格して、明治40年10月26日に指定社となり、明治42年に七所神社と改称したとある。 昭和33年には近くにある白山社と秋葉社を合併した。ただ、本社への合祀ではなく境外社という扱いのようだ。
結局のところ、この神社がどういう神社かと問われると、なんとも答えようがない。熱田社、大明神、七社、布施屋、神仏習合など、いくつかのキーワードが目の前にありながら上手くつながらない。 歴史のベールをはいでいくと、最後に残った本体は意外な姿をしているかもしれない。それは熱田社とはまったく無関係のものという可能性もある。
作成日 2017.6.11(最終更新日 2019.5.26)
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