東区の出来町の一帯にある3社(+1社)の須佐之男社のうちのひとつ。 このあたりに須佐之男社が多い理由や創建のいきさつ、山車祭りなどについては東之切・須佐之男社のページに書いた。 ここ新出来にある須佐之男社は、3社の中で一番西にあるということで西之切の須佐之男社と呼ばれている。東之切、中之切はそれぞれ昔の地名のようだ。 この西之切須佐之男社が他の2社と違うのは、もともとの場所から現在地に遷座している点だ。そのあたりのいきさつについては、境内にある由緒書きに書かれている。それによるとこうだ。 もともとは新出来町2丁目33番地にあって、昭和59年に行われた名古屋市の新出来地区土地区画整理で移動を余儀なくされ、代替地として名古屋市が提供したのが現在の場所ということになる。八神みよさんという人の好意だった。 正確な位置は分からないのだけど、出来町通を挟んで徳川園の南には違いない。 昭和60年に地鎮祭を執り行い、社殿や社務所、山車庫などが完成して現在に至る。 狭い敷地に社殿も山車庫も集会場も詰め込んでいるからぎゅっとしているのは他の2社と変わらないものの、すべてを新たに建て直したということで他よりも整然としている。こぎれいに片付いているという印象だ。
新出来(しんでき)の地名は、文字通り新しく出来た町ということから名づけられた。 南西には尾張徳川家の菩提寺である建中寺(地図)があり、すぐ北西には徳川園(web)と徳川美術館(web)がある。 江戸時代前中期の1695年に尾張藩2代藩主の光友が建中寺の北に大根屋敷と呼ばれる隠居屋敷を建てた。敷地面積が13万2千坪という広大なものだった。 光友の没後、家老の成瀬隼人正の下屋敷となり、建物だけが残った。 その後、大曽根御殿の南部一帯は1702年に小塚源兵衛に払い下げられ、町屋となった。 つまり屋敷跡に町屋ができたから出来町というわけだ。ただし、すでに東側に出来町という名の町があったため、新たに出来た町、新出来町とした。もともとの出来町は区別するために古出来町としたのだった。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「若宮八幡社の氏子中区住吉町の山車を文化七年(1810)に当社の氏子共が譲りうけた。山車の格納庫で狭い境内の大半を領して神社も肩身がせまい有様である。明治6年、据置公許となる。昭和61年2月16日、都市区画整理により同町2丁目33番地から現在地に遷座する」
山車を曳いて町内を練り歩いてからくりを披露する出来町天王祭についても東之切・須佐之男社のページに書いた。毎年6月の第一土日に行われている。 中区住吉町から山車を譲り受けたというのは中之切・須佐之男社と共通している。ただし、西之切は江戸時代に譲り受けているので、経緯がだいぶ違っている。 若宮八幡社は名古屋総鎮守という位置づけの神社で、その祭礼である若宮祭は、江戸時代は名古屋東照宮の東照宮祭、天王社(那古野神社)の天王祭と並んで名古屋三大祭と称されていた。 山車7台が神輿とともに名古屋城三の丸にあった天王社との間を往復し、名古屋城下のメインストリートだった本町通を練り歩いた。 若宮八幡社が持っていた山車は他に譲ったり空襲で焼けたりして、現在は福禄寿車の1台のみとなっている。今の若宮まつりではこの山車と神輿で那古野神社との間を往復している。 西之切の山車は鹿子神車(かしかじんしゃ)と呼ばれるものだ。造られたのは1761年とされている。 1772年に住吉町では新たに山車を造ったということもあって、1810年に西之切が譲り受けることができたということもあったようだ。 昭和62年に修理がなされ、本漆や金箔が使われるなど、豪華な仕上がりになっている。 水引幕には孔雀の刺繍が施されている。 人形は屋台に大将と2体の唐子人形、前棚に麾振(ざいふ)り1体が乗る。 からくりは、小唐子が蓮台の上で逆立ちして、中唐子(お梅さん)が団扇太鼓を乱打しながら左右に走り、それを見た大将が軍配を振る。
私は名古屋まつり(web)のときに二、三度、山車揃を見たことがあるのだけど、それほど興味がなかったこともあって、そのときはじっくり見ていない。次に機会があれば、しっかり見ておくことにしよう。 徳川園で行われる筒井町天王祭との山車揃も一度くらい見ておいてもよさそうだ。
作成日 2018.2.4(最終更新日 2019.2.21)
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