神仏習合の信仰である三十番神信仰が明治以前の名古屋でどの程度の広がりを見せていたのかは分からない。明治政府によって三十番神を神社で祀ることは禁じられたため、表向きは神社としてはもうないことになっている。しかし、名古屋には少なくともふたつの三十番神の神社が現存している。ひとつが守山区中志段味の参拾番神社で、もうひとつが千種区茶屋が坂の三十番神社だ。 熱田区二番町の熱田社は、もともと三十番神だったのを明治になって熱田社にあらためた。 その他、港区茶屋後の神明社などに境内社として残っている。 中志段味や茶屋ヶ坂の三十番神が明治の神仏分離令を乗り越えたものなのか、明治以降の新しいものなのかはなんとも言えない。小さな祠だったから見逃されたのかもしれないし、昭和以降に復活させたものかもしれない。
三十番神というのは、全国各地の有名神社から祭神を30柱集めて一日交替で守ってもらおうという発想から生まれた信仰だ。 平安時代に天台宗を開いた最澄が比叡山に祀ったが最初とされ、平安末から鎌倉時代にかけて一般にも広がった。 主に日蓮宗や法華宗の守護神とされた一方、吉田兼倶は吉田神道から来たものだと主張した。 1日の熱田大明神から始まり、諏訪大明神、広田大明神、気比大明神と続き、最終日の30日は吉備大明神と、有名どころの神社の祭神が顔を揃えている。神像もよく作られた。
神社のある場所は江戸時代の鍋屋上野村の集落のはずれで、現在の茶屋ヶ坂交差点の角に当たる。前の通りは山口街道や長久手街道などと呼ばれていた。今は出来町通といっている。 南側は丘陵地帯で坂道ばかりで赤坂などの地名もある。 茶屋ヶ坂の地名の由来はだいたい想像がつくように、この坂に一軒の茶屋があったことによる。 もともと上野村だったのが鍋屋上野村になったのは、戦国時代から江戸時代にかけて鋳物師(いもじ)の初代水野太郎左衛門が住んでいたためだ。江戸時代も鋳物師が多くこの村に暮らしていたようだ。 この茶屋ヶ坂を四観音道(しかんのんみち)が通っていた。 家康が名古屋城(web)を築いたとき、城下の四隅にあった4つの古い観音寺を城下の守り神と定め、中心に大須観音(聖観音・1333年/web)を置いた。 北西に甚目寺観音(聖観音・597年創建/web)、南西に荒子観音(聖観音・729年創建)、南東に笠寺観音(十一面観音・733年創建/web)、北東に龍泉寺観音(馬頭観音・795年創建/web)という位置関係だった。 これら4つの観音を巡拝する人々が増えると、それらの寺をつなぐ道は四観音道と呼ばれるようになった。 この中で笠寺観音と龍泉寺観音を結ぶ道の一部が現存している。千種区田代町にある四観音道東・四観音道西の地名はこの四観音道が由来となっている。 笠寺観音を北上して塩付街道に合流し、御器所を通って安田で右に曲がり、丸山、覚王山を過ぎて茶屋ヶ坂を下り、茶屋ヶ坂で北に曲がって矢田川を渡って小幡を通り龍泉寺に至る。 途中に一ヶ所、明治時代の道標が残っている。そこには「南あつた かさでら 北 せと りゅうせんじ 東 やごと ひらばり 西 なごや かち川」の文字が刻まれている。
鍋屋上野村の集落の中の街道筋にある祠ということで、古くからこの場所に祀られていた可能性はありそうだ。 三十番神を信仰する村人が建てたものかもしれないし、村で祀ったものかもしれない。 かつてはこんもりとした森のように木々が生い茂って小さな鎮守の杜といった風情だったのに、近年になって木をだいぶ刈ってしまって寂しくなった。 それでもこの場所に残ったことに意味はあって、できることならこれからもずっと守っていってほしいと思う。
作成日 2018.6.16(最終更新日 2019.2.17)
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