諏訪社

ここは歴史に埋もれた古い社なのか

諏訪社参道と拝殿

読み方 すわ-しゃ
所在地 名古屋市守山区中志段味宮之前1174 地図
創建年 伝718年(奈良時代前期)
社格等 村社・十四等級
祭神

武御名方命(たけみなかたのみこと)

伊邪那岐命(いざなぎのみこと)
素戔嗚命(すさのおのみこと)

 アクセス

・JR中央本線「神領駅」から徒歩約38分
・ゆとりーとライン「藤塚停留所」下車(大曽根→高蔵寺)
・駐車場 あり

webサイト  
オススメ度

 初めてこの神社を訪れたときの感想は、いいんだか悪いんだかよく分からない神社だな、というものだった。古いといえば古そうだし、新しいといわれればそうも見える。創建年代の予測がさっぱりつかなかった。
 でも、何か感じるものはあった。なんかくすぶってるな、といったような感覚だ。それは過去の栄光とともに人々に忘れ去れてしまった往年のスターを見るような感じに似ていた。

 ネットで検索してみると分かるのだけど、この神社に関する情報はほとんど出てこない。まさに忘れられた神社といった感がある。
 最初に、おっと思ったのは、『尾張国神社考』の津田正生の言葉だった。おっというよりまさか、と言った方がいいか。
 印場の渋川神社は『延喜式神名帳』にある渋川神社ではないとしつつ、「山田荘志段見村諏訪明神のやしろ是なるべし」と言い切っている。
 どういうこと? と思う。
 続けて、「いま志段見村と書はかな書也。正字下垂水(しだみ)のいひ也。尾張山の水の雫(したた)りおつる所也。故に下垂水と呼。集説本に澁河神社を印場村に引たるは非なり」とその根拠を説明している。
 志段見村(今は志段味と表記)は当て字で、尾張山(東谷山のこと)の水がしたたり落ちる場所という意味で名付けられたのだと。
 更に、「印場の八所明神の社人が、曾父川(そぶかわ)とよふ畔名(あざな)も有と答えしは偽言也(いつわり)。澁川は實志談上中下の三村をいへば也」としている。澁川の由来は曾父川なんかではなく、志段味上中下三村のことというのがその主張だ。
『尾張国地名考』の中ではこう書いている。
「中志太水に諏訪の原の地名あり 是は尾張山より雫水所々に淀て小さき湖水をなせるによりて也 湖水を洲廻(すわ)といひ其邊の廣野を原といふことに諏訪明神を祀る」
 東谷山から流れ出た水が湧き水となって中志段味に小さな湖水を作り、それを諏訪と呼んだので諏訪明神を祀ったということらしい。

 津田正生(つだまさなり)という人は、言うなれば地名の専門家のようなものだ。神社に関する考察も地名を元にしていることが多い。
 尾張国海東郡根高村(愛知県愛西市根高町)の出身で家は酒屋だった。
 学者を本職としていたといっていいかどうかはやや微妙なところで、今でいう郷土史家に近い。頼まれもしないのに尾張の地名について徹底的に調べ上げて本にして尾張藩に献上している(1836年)。
『尾張国神社考』(1850年)は、尾張藩士で学者の天野信景が1707年に完成された『本国神名帳集説』に対して(勝手に)補足訂正をした書で、原題を『尾張神名帳集説本之訂考』という。
 尾張藩士お抱えの学者である天野信景に対して、津田正生はそうではない分、自由な立場で調査し、自由な説を唱えることができた。純粋な研究者ではないからこそ導き出せた説も多い。
 徹底した現場主義で、尾張国中の神社を歩き回って関係者や村人に聞き込み調査を行い、得意の地名に関する知識から神社の真相に迫ろうと試みた。尾張国の公式な地誌である『尾張志』の著者たちとも交流があり、よく話を聞いていたというからまったく在野の人というのでもない。
 そういう人の著書なので、全面的に信用することの危うさは確かにある。ただ、最初から眉唾ものだと捨て置いてしまうにはあまりにもったいない気がする。少なくとも一度は耳を傾けて考察してみるに値する書だと思う。頭の中でこねくり回しただけの机上の空論とは一線を画す。
 私の中では叩き上げの刑事のイメージと重なる部分がある。刑事の勘を侮ってはいけないみたいな。それが思い込みと紙一重であるということも忘れないようにしたい。
 津田正生は口が悪いのが玉に瑕というかご愛敬だ。

  津田正生以外に中志段味の諏訪社を『神名帳』にある山田郡渋川神社とする説を唱えている人は知らない。『特選神名牒』でも触れられていない。だから普通なら軽く受け流すところなのだけど、簡単にそうできない理由がある。
 それは愛知県神社庁が出している『愛知縣神社名鑑』に「創建は養老二年(718年)二月十五日と伝える」とあるからだ。
 718年というと710年に奈良時代が始まって間もなくのことだ。これが本当なら905年から編さんを始めた『延喜式』の時代から見ても200年近く経っている神社ということになる。充分式内社となる資格がある。2月15日と日付まで伝わっているところに真実味がある。
 それにしても、8世紀前半という年代は微妙で悩ましくもある。諏訪社が式内の渋川神社かどうかはいったん置いておいて、この神社があるエリアについて考えてみる必要がある。

 志段味は現在でも右(東)から上志段味、中志段味、下志段味と3つの地区に分かれている。上志段味の東の外れに東谷山(地図)があり、北を庄内川が流れ、南には広大な森林地帯(森林公園)が広がっている。
 古代、このあたりまで海岸線が来ていて、庄内川を少しさかのぼった河岸段丘に人々は暮らし、大量の古墳を築いた。それは上志段味地区に集中している。その数は分かっているだけで100基を超える。
 その中心部にもっとも古いとされる白鳥塚古墳(地図)がある。築造されたのは4世紀半ば(300年代半ば)で、100メートルを超える前方後円墳だ。この地区を支配した最初の首長のものと考えられている。
 出土した副葬品から大和王権との関係性が指摘される。それが古代の尾張氏だったのかどうかはなんとも言えない。個人的には志段味古墳群は尾張氏のものではないような気がする。
 その後も大小の古墳が白鳥塚古墳周辺に造られた。東谷山の山頂に築かれた尾張戸神社古墳もそのひとつで、4世紀後半のものとされる。その古墳の上には尾張戸神社が乗っている。
 尾張戸神社の祭神は尾張氏の祖神である天火明命(アメノホアカリ)であることから、古墳は尾張氏の首長というのが一般的な説だ。ただ、尾張神社ではなく「尾張戸(おわりべ)」という点に着目して尾張部、つまり尾張氏に従った渡来系氏族のこととする説もある。
 5世紀に入ると副葬品に大和王権に関するものだけではなく朝鮮、大陸由来の武具などが入ってくる。古墳の形状は前方後円墳から帆立貝式古墳へと移行する。それらは大久手池周辺に集まっている。
 6世紀前半に帆立貝式古墳の勝手塚古墳(地図)が築かれたのを最後に、ぴたりと古墳築造が止まってしまう。勝手塚古墳がエリアの西の端で、中志段味地区との境界線に近い。
 6世紀前半というのは、熱田に150メートルを超す断夫山古墳(地図)が築かれた時期だ。同時期に春日井の味美には味美二子山古墳(地図)が築造されている。続いて大須二子山古墳が造られた。
 このあたりのことは、大高から熱田に移った尾張氏の勢力と、味鋺・味美エリアを本拠とした物部氏を含めて総括的に考える必要がある。
 一時的な古墳築造の停止期間を経て、ふたたび6世紀後半から7世紀後半にかけて志段味地区で小さな古墳が造られるようになる。ほとんどが横穴式石室を持つ形式の墳墓になっている。

 以上を踏まえた上で、話を諏訪社創建に戻す。
 創建年が718年とすると、もはや古墳の時代は終わっている。600年代後半まで古墳を造っていた勢力がその頃どうなっていたのかは分からない。645年の大化の改新以降、律令国家として中央集権制がかなり進んでいただろうから、もはや地方豪族全盛の時代は終わっていたと見るべきだろう。
 そこでどうして諏訪社だったのかということが問題となる。
 最初から信濃国の諏訪神社からタケミナカタを勧請して諏訪社を建てたのかどうか。
 名古屋は意外なほど諏訪神社が少ない。同じ中志段味に小さな諏訪社がある他、緑区や中村区にある程度でしかない。
 タケミナカタの故郷は一般的に出雲とされる(異説もある)。アマテラスに国を譲ることを迫られたオオクニヌシの次男坊で、逆らってタケミカヅチ(建御雷神/鹿島の神)と力比べをして負けて、諏訪湖まで逃げていってここでおとなしくしていると誓った神だ。諏訪で祀られることになり、それが諏訪神社となったとされる。
 諏訪神社も日本最古の神社のひとつとされるくらい起源は古い。一説ではもともと地元の神がいたところにタケミナカタがやって来て旧勢力を滅ぼして支配したともされる。
 出雲から諏訪までは普通に考えると日本海ルートを進んだはずだ。伊勢を経由したという話もあるけど、その場合は伊勢から海路を行っただろうから、いずれにしても名古屋のあたりは通らなかったということか。
 700年代前半にどんな勢力がここにあって、何故諏訪社を建てたのかという問いに対する答えは見えてこない。もともと諏訪社ではなく別の神を祀る古い神社だったとしても、途中で諏訪社に変わる理由も必然もないような気がする。
 長きにわたって大量の古墳を築いた上志段味エリアの勢力と中志段味にいた人たちはどういう関係だったのか。何故、中志段味には古墳が造られなかったのか。

 それからもうひとつの疑問は、この地区に古い神社が少なすぎるのは何故なのかということだ。
 4世紀から7世紀という300年以上の期間、大きな力を持った勢力がこの地にありながら古い神社が東谷山の山頂にある尾張戸神社しかないというのはあまりにも不自然に思える。
 勝手塚古墳の上にある勝手社は、南北朝時代に建てられた新しい神社だ。
 諏訪社創建が実際718年だとしても、それはすごく古いとは言えない。本来であれば、熱田エリアのようにたくさんの式内社が集まっていてもおかしくはない。
 考えられるとすれば、古墳エリアと居住エリアは別だったということだけど、志段味周辺に視界を広げても古い神社が集まっているところはない。
 上志段味に古墳を築いた人々は600年代までに集団でよそへ移住してしまったということだろうか。
 現状の私としては、ここで行き止まりとなる。諏訪社が延喜式の渋川神社かどうかの判断もできない。
 ただ、諏訪社についてはあまりにも捨て置かれすぎている感が強いので、もう一度注目し直して、よくよく調べてみる必要があると思う。

 1684年(貞享元年)の棟札に「当社諏訪大明神本地 建御名方命と記るす」とあるので江戸時代前期には確かに諏訪明神を祀っていたことが分かる。当時は当然のことながら神仏習合しているのでタケミナカタではなく諏訪大明神だ。
 明治5年(1872年)に村社に列格。
 明治41年(1908年)、宮浦にあった村社・熊野神社と、西田にあった素戔嗚社を合祀。
 拝殿の横に廿二夜塔(にじゅうにやとう)がある。
 室町時代頃から始まったとされる月待行事は、十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの特定の月齢の夜に仲間で集まって月を見ながら飲み食いをして邪鬼を払うという神事だ。
 その中でも二十二夜というのは女性の集まりで、今でいうところの奥さまたちの女子会のようなものだ。そういう集まりが神社や寺などで行われていた。二十二夜は主に関東を中心に盛んに行われたようで、愛知県でも一部に風習が伝わって残っている。
 特に旧暦の8月に行われていたということで、諏訪社では現在でもこの祭りが引き継がれている。
 ここには神楽も伝わっており、獅子頭を被った子供たちが町内を回って神楽太鼓の奉納を行っている。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

 

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