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神明社(平手)

1651年にせよ1653年にせよ平手新田の氏神

平手神明社

読み方 しんめい-しゃ(ひらて)
所在地 名古屋市緑区平手南1丁目203 地図
創建年 1651年(江戸時代前期/1653年とも)
旧社格・等級等 村社・十四等級
祭神 天照大御神(あまてらすおおみかみ)
アクセス 地下鉄桜通線「徳重駅」から徒歩約31分
篭山バス停」から徒歩約5分
駐車場 なし
その他 例祭 10月16日
オススメ度

 鳴海村の中の相原郷の人たちが新田を開発して平手新田と称し、後に平手新田村として独立したのを機に勧請された神明社ということは間違いなさそうだ。ただ、その年と創建のいきさつについての認識に少しバラツキがある。

『愛知縣神社名鑑』はこう書く。
「社蔵の棟札に慶安四辛卯年(1651)9月16日、平手村開闢役人等によって神明祠一宇を建立した旨を記るす。平手部落は当時相原村の新田として開かれ、村内の安全と五穀豊穣を祈って創立されて。『尾張志』に神明ノ社平手新田にあり、と。明治5年7月28日、村社に列格した」

 相原郷には古くから祀られる熊野社(徳重)諏訪社(相原郷)があり、村としての独立は備前検地が行われた1608年という説があるのだけど、実際に集落が作られたのはもっとさかのぼると考えられる。
 承応二年(1653年)に平手新田の検地が行われ、この年を平手新田村の成立とするのが妥当のようだ。神明社創建もこの年とする説がある。

『尾張志鳴海村書上』には鳴海八幡宮の神職だった久野仁太夫の書上として以下のように記されているとある。
「愛知郡平手新田
一 神明社 横弐尺 竪弐尺五寸 久野越後□
祭神 国常立尊 天照大神
一 境内 七畝拾歩余 御除地
一 例祭 八月九日
 勧請之儀は承応弐巳年、御代官佐々長兵衛様御検地之節、新田相成就之氏神勧請請致様被仰付候」

 ここでも検地および神社勧請は承応2年の1653年としている。
 境内の由緒碑は「承応二癸巳(1652)年」と刻んでいるけど、これは1653年の間違いだろう(承応二年の一月前半だった場合は新暦に直すと1652年になるのだけど)。

 久野仁太夫の書上も史料としては信用のおけるものではあるけど、神社が慶安四辛卯年九月十六日の棟札を所蔵しているというのであればそちらの方が確かだろうから、創建年については1651年と考えていいのではないかと思う。

 平手新田の開発は『愛知縣神社名鑑』は相原村の人たちが行ったと書いている。
 津田正生は『尾張国地名考』(1816年)の中で「平手新田村近世鳴海山の内に一群出来たり是は千代倉下郷氏の小作の農民也」と書く。
 千代倉下郷氏は天満宮(細根)のページにも書いたように、鳴海の庄屋で酒造りで財を成して、千代倉二代の知足は鳴海六歌仙の筆頭としても知られた人物だ。その下郷家の小作人が開いた新田ということであれば、相原村の人たちが開いたという話とは違ってくるのではないかと思うけどどうなんだろう。下郷家の小作人は相原村に暮らしていたということだろうか。

『寛文村々覚書』(1670年頃)にはこうある。
「承応二年(癸巳)同所平手新田
 家数 八軒
 人数 三拾九人
 牛馬五疋 内 牛壱疋 馬四疋
 神明壱社 社内三畝拾歩 前々除 なるみ村祢宜 仁太夫持分」
 家が八軒は少なく感じるけど、そもそも耕作地は丘陵地と丘陵地の間の狭い谷間しかないので、これで充分だったのだろう。
 平手新田の平手(ひらて)は傾斜地という意味で、そこからもうかがい知ることができる。
 平手の旧字は篭山(かごやま)で、これは断崖のある山という意味の欠山(かけやま/かこやま)から転じたとされる。
 通常、前々除は1608年の備前検地以前からの除地だったことをいうのだけど、この場合は1653年の検地にともなう平手新田村独立のときに除地になったことをいうようだ。

 祭神について『愛知縣神社名鑑』では天照大御神のみとなっているものの、神社の由緒碑や久野仁太夫書上に国常立尊とあることから、もともと国常立尊と天照大御神を両方祀っていたということだろう。
 それを意識してのことだろうか、本社の千木は外削ぎ、鰹木七本で、男神を表したものになっている。

 今昔マップで明治以降の変遷を見てみる。
 平手新田の集落があったのは、神社の東、報恩寺や平手文化センターなどがあるあたりだったことが分かる。集落としては決して大きくはないものの、明治中頃までには家数もそれなりに増えたようだ。
 神社は集落から外れた東の田んぼの中にあり、樹林のマークで囲まれていることから鎮守の森の様相を呈していたことが想像できる。
 田んぼは主に扇川の両岸に広がっている。丘陵地に挟まれた土地で広い田んぼを作れるのはここくらいだっただろう。しかし、水害には悩まされたに違いない。
 1920年から1932年にかけてはあまり変わらない。北の32号線が整備されて広くなったくらいだ。
 途中の地図がなくてその頃の様子が分からないのだけど、1960年代以降に道路が通って家が建つようになったのが見てとれる。
 住宅地として発展したのは1990年代初頭以降のようだ。

 明治26年(1893年)に建てられた拝殿が老朽化したので昭和62年(1987年)に建て直している。木造でなかなか立派なものだ。
『愛知縣神社名鑑』には10月16日が例祭日とある。今もこの日を守っているのか、日曜日にしているのかは分からない。
 久野仁太夫の書上には例祭は8月9日とあるから、江戸時代とはすでに違っている。
 棟札にあるという9月16日を新暦にした日ということで10月16日に行うようにしているのかもしれない。

 

作成日 2018.11.20(最終更新日 2019.4.10)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

創建のいきさつがはっきりしている平手の神明社

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