白山権現のご加護とは | |
読み方 | はくさん-じんじゃ(えのき-はくさん) |
所在地 | 名古屋市西区押切町2丁目5-2 地図 |
創建年 | 1477年(戦国時代初期) |
旧社格・等級等 | 指定村社・十二等級 |
祭神 | 菊理姫命(くくりひめのみこと) 天照皇大神(あまてらすすめおおかみ) 豊受大神(とようけおおかみ) |
アクセス | 地下鉄鶴舞線「浅間町駅」から徒歩約15分 駐車場 なし |
その他 | 例祭(湯立て神事) 7月17日・18日 |
オススメ度 | * |
旧美濃路沿いにある白山社。創建のいきさつについては、はっきりしているというか見解が一致している。 『尾張名所図会』(1844年)の説明が簡潔にまとまっていて分かりやすい。 「白山権現社(はくさんごんげんのやしろ) 押切村の北側にありて、俗に抜(ぬけ)の権現と称す。別当は榎本山福満寺と称して、紀伊国高野山金剛三昧院の末寺。文禄年中の建立なり。縁起略に曰く、当社は文明九年、当国の太守斯波治部大輔義廉(よしかど)、清洲に在城の時、加州白山権現を信仰ありしに、在夜夢中に老尼顕れ、我は白山の霊なり、当国鴛鴦喜里(おしきり)の沼の辺(ほとり)に勧請すべし。武門の守護せんと見て夢覚めぬ。夫(それ)より此社を勧請し、左右に神明・秋葉を祭れり。又社内に榎木一株あり。是即白山の神木なれば、榎権現の称ここに起こる。近年榎枯稿するといへども、猶其通称は残れり。当社鰐口に正長二年九月九日の文字見えたり。西国の諸侯方・琉球人などまで、みな当社に休息す。書院より西北の眺望、打開きて風景頗(すこぶ)るよし」 要するに白山権現を信仰していた斯波義廉の夢に白山権現を名乗る年を取った尼さんが出てきて自分を祀れば守ってやろうというので白山権現を祀る神社を建てたというのがこの神社の縁起として伝わっているということだ。それが1477年だとする。 『尾張志』(1844年)や『尾張徇行記』(1822年)なども同様のことを書いているので、この話が江戸時代においては共通認識だったということなのだろう。それは正しいようにも思うけど、疑問点がなくもない。 鰐口(わにぐち)というのは、神社の拝殿や寺の本殿の外にかかっている鐘というか平べったい鈴のようなもので、それに正長二年とあるというのも気になるところだ。正長二年は1429年で、白山社創建の1477年より前になる。よそから移したものということか。 斯波義廉(しばよしかど)は、室町幕府三管領筆頭で、越前・尾張・遠江の守護も兼ねていた。応仁の乱の中心人物のひとりでもある。 足利氏一門の渋川氏の出で、管領家の斯波氏を継ぎ、山名宗全の娘を正室に迎えている。 1460年代にいろいろモメ事が起こり、義廉は管領や守護を剥奪されたり復帰したり家督相続でゴタゴタがあったりで、応仁の乱に巻き込まれてしまった。乱が始まったのは1466年のことで、1477年まで11年間も続くことになる。 当初西軍についていた義廉は後に東軍に移り、幕府から追われる立場になる。管領や守護職も失い、尾張守護代の織田敏広(織田伊勢守家/岩倉織田氏)を頼って尾張へと下った。それが1475年のこととされる。 その後、1478年には尾張での争いに敗れて行方をくらませている。 そんな時期に、のんきに夢を見たからといって白山神社を建てるだろうかという疑問を抱く。幕府から追われてかくまわれている身でもある。追い詰められたからこそ神仏に頼ったということだろうか。 細かいことをいうと、織田敏広は織田伊勢守家で、織田大和守家と対立して争っていた。1475年に義廉が尾張に下ってきたときは、敏広は尾張守護所だった下津城(おりづじょう/愛知県岩倉市)に入城している。 翌1476年に清須方の織田大和守家と戦って敗れ、下津城は落城。国府宮へ逃げ込み態勢を立て直して巻き返し、一時は清須城にいたものの、取り戻され、1479年に敏広は岩倉城を築いてそちらに移っている。 義廉が白山社を建てたのが1477年で清須にいたときというのであれば、その時期は義廉と敏広は清須城にいたときということになるのだろう。 行方不明になった義廉はその後、越前に逃げたという話があるも、くわしいことは伝わっていない。白山権現のご加護は得られなかったと見るべきか。あるいは、白山のお膝元の越前に逃げ込んで命が助かったのであれば、それこそ白山権現のおかげというべきかもしれない。 美濃路は東海道と中山道をつなぐ脇道として江戸時代に整備された街道だ。ただ、道としては古くからあったようで、鎌倉時代初期にこのあたりに押切城が築かれたことからもそれはうかがえる。 押切城は平安末期、源平合戦で源氏方についた大屋佐渡守によって築かれた城で、白山神社のあたりにあったと考えられている。 ただ、戦国時代まで大屋家が代々城主を務め、織田信秀と今川氏豊が那古野城をめぐって争っているとき廃城になったというから、押切城跡に白山神社が建てられたわけではない。美濃路沿いから少し入ったところではないかと思う。 旧美濃路は、現在の22号線より少し北の細い道で、かつての名残を少しとどめている。今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると当時の様子が見てとれる。 この道は清須城と那古野城を結ぶ道ということで、若き日の信長もよく通っていた。信長は那古野城で生まれたとされ(勝幡城で生まれたという説もある)、21歳のとき清須城主となった。桶狭間の戦いの際はこの美濃路を馬で駆けていき、勝利の後、この道を通って凱旋した。 清須城を夜明け前に単身飛び出した信長は、まず白山社で戦勝祈願をしたと伝わる。戻ったときに奉納したという太刀は残念ながら第二次大戦の空襲で焼けてしまって現存していない。 信長にとっての神は白山権現だったのかもしれない。ルイス・フロイスは著書『日本史』の中で、信長が語ったこととしてこんなことを書いている。 「予は伴天連らの教えと予の心はなんら異ならぬことを白山権現の名において汝らに誓う」 キリスト教の教えと自分の考えは何も変わらないことを白山権現の名にかけて誓うと言ったというのだ。 信長の織田家はもともと越前の劔神社(web)の神官だったとされる。福井県丹生郡越前町にあり、氣比神宮(web)に次ぐ越前国二宮の由緒ある古社だ。 文字通り剣が御神体で、素盞嗚尊を祀るとしている。その剣は垂仁天皇の皇子の五十瓊敷入彦命(イニシキイリヒコ)が作らせた神剣で、仲哀天皇の皇子の忍熊王(オシクマ)が譲り受けたものとされる。 尾張に移った織田家は津島湊を押さえ、津島神社(web)を大事にしていたのはスサノオ=牛頭天王つながりということもあっただろうか。 信長だけでなく織田家が白山権現を信仰したということがあったようで、信長の弟の信行(信勝)も、末森城の城主になったとき白山権現を勧請して祀っている。 信長というと比叡山焼き討ちなど神仏を恐れないイメージがあるけど、少なくとも前半生は戦勝祈願もするし、勝てばお礼に奉納することは忘れないし、神社を大切にする一面が確かにあった。 『尾張名所図会』に「別当は榎本山福満寺と称して、紀伊国高野山金剛三昧院の末寺。文禄年中の建立なり」とあるように、古くから寺が管理する神社だったようだ。 もともと松壽院という名前で文禄年中(1593-1596年)の建立というから、安土桃山時代末だ。再興したとき福満寺と名を改めている。 高野山金剛三昧院(web)は鎌倉時代前期の1211年に、北条政子の発願で源頼朝を弔うために建てられた寺だ。当初禅定院といっていたものを源実朝を弔うことになったとき金剛三昧院に改名した。鎌倉将軍家の菩提寺でもある。 『尾張名所図会』に描かれた絵を見ると、鳥居はなく、周囲を塀で囲んで、入り口には門がある。神仏習合の神社だったのが分かる。 名古屋城城下の西の端で、このあたりに 木戸があり、夜は閉ざされて人の出入りができなくなった。昼間は茶店などが並んで賑やかなところだったようだ。 榎権現の呼び名の由来となった榎は、江戸時代にはすでに枯れていたらしい。今も境内にある榎が同じものだろうか。 この榎にはちょっとしたエピソードがある。あるとき、雉(キジ)がこの地に飛んできたと思ったら落ちて死んでしまったため、村人が埋めてやったところ、雉の腹の中にあった榎の種が芽吹いて育ったというものだ。この話は何かを象徴しているのだろうか。 1月1日の求火祭を初め、初午祭、赤丸神事(6月17日)、茅輪神事(8月17日)など、古くから続く特殊神事が今も行われている。 境内にある田道間守命(たじまもり)を祀る田道間守社はちょっと珍しい。 渡来人である天日槍(アメノヒボコ)の後裔で、垂仁天皇に常世国へ行って非時香菓(ときじくのかくのみ)をとってくるように命じられた田道間守は苦労の末ようやく見つけるも、戻ったときにはすでに垂仁天皇が亡くなっており、嘆き悲しんで天皇陵で自殺したと『日本書紀』に書かれている。 非時香菓は橘(たちばな)のこととされ、それを見つけてきた田道間守は後に菓子の神、菓祖とされた。 いつ白山神社に田道間守社が建てられたのかはよく分かっていない。 兵庫県にある中嶋神社が田道間守社の総本社ということになっている。 大正13年(1924年)に新愛知新聞社(中日新聞の前身のひとつ)が選んだ「名古屋十名所」の中に、この榎白山神社が入っている。 その頃は境内が五百坪もあって、古色蒼然とした神社だったのだろう。今、この白山神社が名古屋を代表する神社といえるかといえばいえない。第二次大戦の空襲でほとんどが焼けてしまい、社殿は戦後にコンクリート造で建て直された。時代の空気感までも焼けてしまったのか、歴史を感じさせる神気みたいなものはとどめていないように感じられた。 『尾張名所図会』が書いた「西国の諸侯方・琉球人などまで、みな当社に休息す。書院より西北の眺望、打開きて風景頗(すこぶ)るよし」といった光景はもはや残っていない。 作成日 2018.4.1(最終更新日 2019.9.9) | |
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