大井神社

山田郡と春部郡の郡境問題を考える

大井神社境内と拝殿

読み方 おおい-じんじゃ
所在地 名古屋市北区如意2-1 地図
創建年 伝700年代初期(飛鳥時代後期から奈良時代初期)
社格等 式内社・村社(郷社とも)・八等級社
祭神

罔象女命(みつはのめのみこと)
速秋津彦命(はやあきつひこのみこと)
速秋津姫命(はやあきつひめのみこと)

 アクセス

・城北線「比良駅」徒歩約33分。
・名鉄小牧線「味美駅」から徒歩約37分
・名古屋市バス停留所「如意一丁目」下車
・駐車場 あり(無料/神社裏手)

webサイト  
オススメ度 **

 この大井神社を、『延喜式神名帳』(927年)にある尾張国山田郡大井神社としていいかどうかは意見が分かれる。否定派の主張としては、庄内川で山田郡と春部郡を分けていたらここは春部郡だから山田郡の大井神社のはずがない、というものだ。
 私もこれまで山田郡と春部郡の郡境は庄内川だと考えてきた。しかし、いろいろと調べたり考えをめぐらせるうちにそうではないと思い始めた。自分が地図というものにとらわれすぎていたことに気づいたとき、はっとする思いがした。
 我々現代人は、紙に印刷された地図を見て地理を知る。そして、地図上に引かれた線によって境界を認識する。
 けど、平安時代の人の頭の中に地図があるだろうか? あるとは思えない。彼らがどうやって地理を把握していたかといえば、それはもう目で見て知り得た情報によってでしかない。我々もそうだけど、肉眼で何かの境界線が見えるはずもない。
 郡(こおり)というものが初めて制定されたのは645年、天智天皇の大化の改新のときとされている。日本国内を591郡としたと『延喜式』にある。
 翌646年、郡の地図を作るようにという命が下された。しかし、これがなかなか進まず苦労したようで、なんとか郡境が定まったのが天武天皇の684年だったという。38年もかかってやっと郡境をどうにか決めただけで、きちんとした地図はできなかったようだ。初の完全な日本地図完成は江戸時代の伊能忠敬まで待たなければならない。
 何故、郡を定める必要があったかといえば、簡単に言えば国が地方を管理してきっちり年貢を納めさせるためだ。それまで地方はその土地の豪族や有力者がバラバラに管理していた。
 日本が中央集権国家へと向かう中、地方の管理をする必要が出てきた。
 そこで国は郡を定め、郡司(こおりつかさ)を派遣し、その管理の下で地方運営を行おうと考えた。
 ただ、普通に考えてそんなことがすんなり上手くいくはずがないのは明らかだ。すでに地方では管理体制ができているのに、そこへ国からやってきた役人が今日からここは山田郡で、ここから向こうは春部郡、これからは国が管理するから国に年貢を納めるようにといったところで、その通り言うことを聞くはずがない。
  特に境界線のあたりは難しい。尾張国山田郡はのちに東大寺の飛び地荘園になったということも事情を複雑にしたはずだ。
 山田郡の成立は676年で、752年に郡内の寺田が東大寺の荘園になった。
 荘園と山田郡の郡司と春部郡の郡司、そこにこの地の有力者や豪族などの勢力が入り乱れて、かなり複雑な支配体制になっていたと考えられる。
『延喜式』が編さんされたのは平安時代中期の905年から927年にかけてのことで、ちょうどこの頃までに律令体制が確立されたとされている。どういう経緯を辿ったにせよ、その頃までには郡境や支配体制もある程度固まっていただろう。
 では、あらためて郡とは何かを考えてみる。それは地図上の境界線などではない。我々は山田郡と春部郡の境界を地図を見ながら線を引こうとしているから見えてこないのだ。地上に降りたって郡境を考えてみる必要がある。
 郡を決めるのは要するに誰がそこを支配して年貢を払わせるかということであって、線を引いて分けることそのものが目的ではない。
 郡の下は郷があり、郷の下には里がある。つまり、集落ということだ。
 郡は集落によって決まる。確かに大きな川は地理的に考えると郡境としやすい。とはいえ、実情はそう単純に割り切れるものではない。川向こうに親類縁者の集落があれば、それはこちら側だ。郡境の壁があるわけでもなし、行き来ができないわけもない。
 この時代の集落は一族郎党が基本単位だったはずで、たとえばそれが川向こうにずっと続いていれば、地理的な問題よりも血族的な問題としてこちら側の郡に属すと考えた方が自然ではないだろうか。その間に別の一族がいたとしたら、それはあちら側の郡になる。別に境界線は途切れなくきっちり引かれている必要はない。飛び地であっても全然かまわない。
 この時期の支配体制ごとに色分けした地図を作ったとしたら、かなり複雑なまだら模様になっただろう。
 それは常に流動的だったことも意味する。集落が大きくなったり、移動したり、消滅したり、あるいは洪水などがあったりすれば、郡境そのものが変わってしまうこともあったはずだ。支配側の力関係によっても変化するし、時代の変遷で様変わりもする。郡境が一定でなかったことだけは確かだろう。
 戦国時代に山田郡を廃止して、矢田川付近を境に分けて、春日井郡と愛智郡に編入したというのも、あまりにもごちゃごちゃしすぎていた境界を整理するためではなかっただろうか。
 庄内川のすぐ北にある味鋺神社は春部郡となっている。だから、味鋺神社から北は春部郡だという決め付けは間違っている。味鋺や味美のあたりは物部氏の本拠だったところで、他とは事情が違う特殊な地域だ。
 山田郡というのは庄内川より南ではなく、むしろ庄内川を越えて大きく北に食い込んでいたのではないかと考えを改めた。味鋺神社のあたりだけが春部郡の飛び地だった可能性がある。だとすれば、春日井市の朝宮神社や和爾良神社なども、山田郡の和爾良神社だった可能性が高まってくる。
 とても長い前置きになってしまったけど、庄内川を渡ってずっと北に入ったところにある大井神社は、山田郡大井神社であってもいっこうにかまわないということが言いたかったのだ。
 この大井神社が神名帳に載る大井神社かどうかはまた別の問題だ。

 和銅・養老年間(700年代初め)に、現在地の北西にあった大井の池のほとりに産土神として勧請したのが始まりと伝わる。
 江戸時代に大浦新田として開発される過程で埋め立てられてしまうことになる大井の池(大浦の池)は周囲数キロもある大きな池だったという。
 産土神(うぶすながみ)というのは、土地の守り神だ。どこかの一族の氏神とは違う。その産土神として罔象女命(ミツハノメ)を持ってきたのはどういうことだったのだろう。速秋津彦命(ハヤアキツヒコ)、速秋津姫命(ハヤアキツヒメ)は最初からだったのか途中で合祀したのか。
 ミツハノメは水の神だ。
 火の神カグツチを生んだとき女陰にやけどをして苦しんでいるイザナミの尿から生まれたのがミツハノメで、和久産巣日神(ワクムスビ)とともに生まれたともいう。
「ミツハ」「ミズハ」は、「水が走る」、「水が這う」に通じることから、灌漑用水の神だとか、井戸の神などとされることが多い。
 ミツハノメを主祭神として祀る神社は意外に少ない。主なところでは奈良県吉野郡の丹生川上神社や静岡県島田市の大井神社などくらいしかない。かつて伊勢国鈴鹿郡にあったミツハノメを祀る大井神社は、合祀されて今はない。
 その代わり、境内社として祀っているところは多い。
 ハヤアキツヒコ・ハヤアキツヒメも水に関係が深い神だ。イザナギとイザナミの神生みで生まれた男女一対の神で、総称して水戸神(みなとのかみ)とも呼ばれる。
 水戸は湊、河口のことで、川湊を守る神といったところだ。
 水の神を祀るパターンとしてはいくつか考えられる。農作物がよく育つよう水の恵みを与えてくれるように願うとか、火事にならないための火伏せのためとか、洪水から村を守ってもらうためとか、航海の安全を見守ってもらうとかだ。
 大井神社の場合は、産土神としてミツハノメを選んだということは、やはり水に関する願いを込めてなのだろうけど、同時にハヤアキツヒコとハヤアキツヒメも祀ったというのであれば、航海や漁業の神としてだったとも考えられる。
 やや唐突な話ではあるけれど、この地に最初に住みついたのは、朝鮮半島の加羅国(から)からやってきた渡来の海人族だったという話がある。伽耶(かや)といった方が馴染みがあるだろうか。
 伽耶は倭国とも関係が深い国で、一時は倭人が支配していたともされている。400年代終わりから500年代初めにかけて造られたとされる前方後円墳も見つかっているし、出土品も倭国のものだという。
 百済、新羅、高句麗との争いの中でやがて滅亡してしまうのだけど、そのときに大挙して倭国にやってきたというのは充分に考えられることだ。
 この話をこれ以上広げると長くなるのでやめておく。渡来人とミツハノメの関係については引き続き考えてみる必要がある。

 鎌倉時代になって、水難を避けるために神社も含めて村ごと今の場所に引っ越してきたという。
 津田正生『尾張国神社考』にこんなことが書かれている。
 山田郡大井村は、かつての安食村(あじきむら)の北(大浦新田)にあって、鎌倉時代に春日部郡(春部郡)豊場村(とよばむら)の南に村ごと移ってきた。そのとき、長母寺の無住國師に頼んで安食を福徳、大井を如意と縁起のいい仏教言葉に変えてもらった。更に加えて、この場所は本来であれば春日部郡一色庄とすべきところを、山田郡大井神社を移したので、山田庄如意村としたのだといっている。
 これが事実だとすれば、最初にあった大井の池のほとり、のちの大浦新田は山田郡で、今ある場所は春部郡ということになり、郡境飛び地説が現実味を帯びてくる。

 この神社には笑ってはいけないけどちょっと面白いエピソードがある。
 南北朝時代に南朝の後醍醐天皇側についた越中国(富山県)・貴船城城主だった藤原重之の子・藤原(石黒)重行がその主人公だ。
 父の跡を継いで貴船城主となった重行は、後醍醐天皇の皇子・宗良親王を城に迎え、足利氏の北朝側と戦いを繰り広げる。
 しかし、戦に敗れ、城を追われ、奥州の方に逃げざるを得なくなった。
 そこでも追い詰められた重行は、奥州千賀浦(宮城県塩竃市)の塩竈神社から塩竈六所明神の尊像を背負って尾張の大井にやってきて、大井神社に合祀したというのだ。
 藤原というから名門には違いないし、南朝の忠臣だったのだろうけど、いきなり神像を背負ってやってきて、これ、塩竈の神様だからここで一緒に祀ってくれないかなと頼まれた方はびっくりしたんじゃないだろうか。背負ってきたというからには1メートルくらいあったのだろうか。それにしても、そんな持ち込み祭神制度は聞いたことがない。それ、ちゃんと許可取って持ってきたんでしょうねと確認しただろうか。
 実際、現在でも塩竈六所明神は大井神社で祀られている。この六神は、事勝国勝長狹命、表筒男命、中筒男命、底筒男命、豊玉彦命、猿田彦命のことという。
 重行は長谷川重行と名前を変え、ここに潜伏したといわれる。やってきた年は1391年という説と1393年という説があり、そのどちらだったかによって意味が違ってくる。というのも、南北朝の統一が1392年だからだ。統一後であれば、重行もそれほど隠れる必要はなかったのではないか。
 のちに斯波氏に仕えるようになり、如意と味鋺の領主になったという。まだ斯波氏に力があった時代だ。
 夢窓国師を慕い、瑞竜寺(のち瑞応寺)の伽藍を造営し、晩年は仏門に入って宗円居士と名乗り、1437年に88歳で死去した。

 重行の息子の朝房が1442年に大井神社の社殿を再建したという棟札が残る。
 江戸時代前期の1698年には氏子によって修造され、長く守られてきた。
 それも老朽化が進み、昭和62年(1987年)にコンクリート造で再建されることになった。
 なお、如意の地名は、大浦池で見つかった如意輪観音が元になっているという話もある。
 現在も隣接する鶏足寺との間にかつて観音堂があって、 聖観音像と如意輪観音像を安置していたら、泥棒に入られて如意輪観音像を持っていかれてしまったのだとか。なので、残った聖観音像を鶏足寺に移して守ることにしたという。盗まれた如意輪観音像は愛知郡尾頭沢妙安寺にあるやつがそうなんじゃないかという話があったとかどうだとか。

 郡境問題は私としては一応腑に落ちたつもりでいるけど、実際のところどうだったのかは分からない。ただ、きっちりした線で分けられていたわけではないということは確かだと思うから、今後、山田郡と春部郡の境界線上にある式内社を考えるときは柔軟に検討することにしたい。 

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

名古屋市北区の式内社・大井神社

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