大井神社

山田郡と春日部郡の郡境問題を考える

大井神社境内と拝殿

読み方 おおい-じんじゃ
所在地 名古屋市北区如意2-1 地図
創建年 伝・700年代初期(飛鳥時代末から奈良時代初期)
旧社格・等級等 指定村社(郷社とも)・八等級・式内社
祭神 罔象女命(みつはのめのみこと)
速秋津彦命(はやあきつひこのみこと)
速秋津姫命(はやあきつひめのみこと)
事勝国勝長狭命(ことかつくにかつながさのみこと)
中筒男命(なかつつのおのみこと)
底筒男命(そこつつのおのみこと)
豊玉姫命(とよたまひめのみこと)
猿田彦命(さるたひこのみこと)
 アクセス 城北線「比良駅」徒歩約33分
名鉄小牧線「味美駅」から徒歩約37分
名古屋市バス停留所「如意一丁目」下車
駐車場 あり(無料/神社裏手)
その他 例祭 10月10日
オススメ度 **

 この大井神社を『延喜式』神名帳(927年)に載る尾張国山田郡大井神社としていいかどうかは意見が分かれている。否定派の主張としては、庄内川で山田郡と春日部郡を分けていたのなら庄内川の北にある神社は山田郡ではないというものだ。
 私もこれまで山田郡と春日部郡の郡境は庄内川だと考えてきた。しかし、いろいろと調べたり考えをめぐらせるうちにそうではないと思い始めた。自分が地図というものにとらわれすぎていたことに気づいた。
 我々現代人は、紙に印刷された地図を見て地理を把握する。そして、地図上に引かれた線によって境界を認識する。
 けれど、奈良・平安時代の人たちの頭の中に地図があるかといえばそれはない。彼らがどうやって地理を把握していたかといえば、それはもう目で見て知り得た情報によってでしかなく、肉眼で何らかの境界線が見えるはずもない。
 701年、大宝律令の国郡里制(こくぐんりせい)によって国内は国・郡・里の三段階に組織化され、それぞれに長が置かれた。646年の改新の詔で基本方針が定められたという話もあるけど、いずれにしても郡境というのは飛鳥時代の後期に定められた。
 しかし、郡境問題はなかなか難しかったようで、きちんとした日本地図が作られることもなく、正式な日本地図は江戸時代の伊能忠敬まで待たなければならなかった。
 どうして郡を定める必要があったかといえば、簡単に言えば国が地方をきっちり管理するためだ。それまではその土地の豪族や有力者がそれぞれに支配していた土地と人を国(朝廷)が管理する中央集権制へと移行したのがこの時期だった。
 しかし、そんなことがすんなりいくはずがないのはちょっと考えれば分かる。力を持った地方豪族が簡単に土地や権力を手放すはずもなく、中央から派遣された役人ともめたであろうことは容易に想像がつく。今日から川のこっちは山田郡であっちは春部郡なのでよろしくと言ったところで素直に従うはずもない。
  その後、752年に尾張国山田郡の一部が東大寺(web)の荘園になったということもあって、事態は更に複雑化したはずだ。
 荘園と山田郡の郡司と春日部郡の郡司、そこにこの地の有力豪族などの勢力が入り乱れて、かなり複雑な支配体制になっていたと考えられる。
『延喜式』が編さんされたのは平安時代中期の905年から927年にかけてのことで、ちょうどこの頃までに律令体制が確立されたとされている。だから、どういう経緯を辿ったにせよ、その頃までには郡境や支配体制もある程度は固まっていただろう。
 では、あらためて郡とは何かを考えてみる。それは地図上の境界線などではない。我々は山田郡と春日部郡の境界を地図を見ながら線を引こうとしているから見えてこないのだ。地上に降りたって郡境を考えてみる必要がある。
 郡を決めるのは要するに誰がそこを支配して年貢を払わせるかということであって、線を引いて分けることそのものが目的ではない。
 郡の下は郷があり、郷の下には里がある。つまり、集落ということだ。
 郡は集落によって決まる。確かに大きな川は地理的に考えると郡境としやすい。とはいえ、実情はそう単純に割り切れるものではない。川向こうに親類縁者の集落があれば、それはこちら側だ。郡境の壁があるわけでもなく、行き来ができないわけもない。
 この時代の集落は一族郎党が基本単位だったはずで、たとえばそれが川向こうにずっと続いていれば、地理的な問題よりも血族的な問題としてこちら側の郡に属すと考えた方が自然ではないだろうか。その間に別の一族がいたとしたら、それはあちら側の郡になる。別に境界線は途切れなくきっちり引かれている必要はない。飛び地であっても全然かまわない。
 この時期の支配体制ごとに色分けした地図を作ったとしたら、かなり複雑なまだら模様になっただろう。
 それは常に流動的だったことも意味する。集落が大きくなったり、移動したり、消滅したり、あるいは洪水などがあったりすれば、郡境そのものが変わってしまうこともあったはずだ。支配側の力関係によっても変化するし、時代の変遷で様変わりもする。郡境が一定でなかったことだけは確かだろう。
 戦国時代に山田郡を廃止して、矢田川付近を境に分けて、春日井郡と愛智郡に編入したというのも、あまりにもごちゃごちゃしすぎていた境界を整理するためではなかったか。
 庄内川のすぐ北にある味鋺神社地図)は『延喜式』神名帳では春日部郡となっている。だから、味鋺神社から北は春日部郡だという決め付けは間違っている。味鋺や味美のあたりは物部氏の本拠だったところで、他とは事情が違う特殊な地域だ。
 味鋺神社の西約2.7キロにある大乃伎神社地図)は庄内川の北にありながら『延喜式』神名帳の山田郡大乃伎神社とされている。個人的には比良の六所神社地図)が式内の大乃伎神社ではないかと思っているのだけど、それは大乃伎神社よりも更に北に位置している。上小田井の星神社地図)も庄内川の北で山田郡坂庭神社の論社となっているし、もっと言えば、大井神社の4キロ以上北の小牧市小針にある尾張神社(地図)が山田郡尾張神社だという話もある。
『尾張名所図会』(1844年)は、和名抄(和名類聚抄/平安時代中期の事典)にある山田郡神戸は大井のことだと書いている。
 山田郡というのは庄内川より南ではなく、むしろ庄内川を越えて大きく北に食い込んでいたのではないかと私は考えている。味鋺神社のあたりだけが春日部郡の飛び地だった可能性もある。だとすれば、春日井市の朝宮神社(地図)や和爾良神社(地図)なども、山田郡の和爾良神社だった可能性が出てくる。
 以上とても長い前置きになってしまったけど、庄内川を渡ってずっと北に入ったところにある大井神社が山田郡大井神社であってもいっこうにかまわないということが言いたかったのだ。
 個人的な感触としては、この大井神社が『延喜式』神名帳に載る大井神社でいいのではないかと思う。

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「社伝に、和銅・養老年間(708-723)の勧請という。『延喜式神名帳』に春日井郡大井神社とあり、『国内神名帳』に従三位大井天神とある神社なり。明徳二辛未年(1391)9月、石黒大炊介藤原重行、奥州千賀の塩竈六所大明神の尊像を負い、春日井郡山田庄如意郷の大井天神の合殿に祀る。これより六所明神と称えた。嘉吉二壬戌年(1442)3月8日、石黒右馬頭藤原朝房社殿を再建、慶安元戌子年(1648)正月、社殿修復から村民の奉賛により如意の産土神となる。明治5年、村社に列格し、明治42年10月26日、供進指定社をうく」

 社伝を信じるならば、創建は飛鳥時代末から奈良時代初期にかけてということになる。元明天皇、もしくは元正天皇の時代で、『古事記』(712年)や『日本書紀』(720年)が編さんされていた頃だ。
『愛知縣神社名鑑』だけでは創建のいきさつが分からないので、他の史料を当たってみる。

『尾張志』(1844年)
「如意村のうち大井といふ地に鎮座也今は六所明神と申す延式神名式に山田郡大井神社本國帳に従三位大井天神とある官社也」

『寛文村々覚書』(1670年ごろ)や『尾張徇行記』(1822年)によると、江戸時代の如意村には六社大明神、神明二社、八幡宮、山神三社の七社があった。
 ただ、いずれも創建のいきさつなどは書かれていない。

 津田正生は『尾張国神社考』で「社伝曰く、筒男三神海童三神を祀るといふ」と書いている。
 さらに「近藤利昌云」として、山田郡大井村はかつて安食村(あじきむら)の北(大浦新田)にあって、鎌倉時代に春部郡豊場村(とよばむら)の南に村ごと移ったという話を紹介している。水害が多かったというのがその理由で、水の神を祀った理由もそこにあったかもしれない。
 そのとき、長母寺の無住國師に頼んで安食を福徳、大井を如意と縁起のいい仏教言葉にしてもらったという。
 大浦新田は江戸時代に開発された新田で、現在の大井神社の700メートルほど西に当たる。かつてはそのあたりに大井の池と呼ばれる大きな池があったと『尾張国地名考』の中で津田正生は書いている。
 この話が本当だとすれば、もともと大井村は西にあり、大井神社も西から現在地に移されたということになる。その大井神社が『延喜式』神名帳の大井神社ということであれば、現在の大我麻あたりも山田郡だったということになる。

 祭神について江戸時代の人たちの間では筒男三神、綿津見三神を祀るという認識だったようだ。
『尾張名所図会』(1844年)は男体三体、女体三体の六体の神像を所蔵していて、住吉・和魂・荒霊を表しているだろうかと書いている。
 それに対して現在の祭神は罔象女命(ミツハノメ)を筆頭に、速秋津彦命(ハヤアキツヒコ)、速秋津姫命(ハヤアキツヒメ)、事勝国勝長狭命(コトカツクニカツナガサ)、中筒男命(ナカツツノオ)、底筒男命(ソコツツノオ)、豊玉姫命(トヨタマヒメ)、猿田彦命(サルタヒコ)となっている。大きく変わってしまっているし、いるはずの顔ぶれが抜けて中途半端なことになっている。
 筒男三神は住吉三神とも呼ばれるように住吉大社(web)の神だけど、どういうわけか表筒男命(ウワツツノオ)が抜け落ちてしまっている(『愛知縣神社名鑑』の書き落としかもしれない)。
 綿津見三神は住吉三神と同じく、黄泉の国から戻ってきたイザナギが禊ぎをしたときに生まれた神で、
底津綿津見神(ソコツワタツミ/底津少童命)、中津綿津見神(ナカツワタツミ/中津少童命)、表津綿津見神(ウワツワタツミ/表津少童命)をいう。しかし、これらは現在の祭神には入っていない。
 
速秋津彦・速秋津姫はイザナギ・イザナミが産んだ男女神で、別名を水戸神(みなとのかみ)という。
 豊玉姫は海神の豊玉彦の娘で、山幸彦(火折尊)と結婚して彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)を産んだ。初代神武天皇の祖母に当たる。
 事勝国勝長狭命はシオツチノオジの別名で、鹽竈神社(web)を合祀したときの神だろう。猿田彦はどこかの時点で合祀されたのだと思う。
 そもそも、誰がこの地にどんな神を祀ったのが始まりかということが問題になる。

 罔象女命(ミツハノメ)にしても筒男三神にしても綿津見三神にしても、いずれも水に関わりの深い神には違いない。大井池のほとりに祀ったとも、大井川なる川がかつてあってそのほとりに祀ったともいう。
 祀ったのがどんな勢力だったにしても、一族の祖神を祀ったというよりも産土神(うぶすながみ)を祀った可能性が高そうだ。
 では最初はどの神を祀ったのか? 江戸時代の人たちが思っていた筒男三神・綿津見三神が始まりの神とは限らない。最初はミツハノメだったということも考えられる。ハヤアキツヒコとハヤアキツヒメは最初からだったのか途中からなのか。
 火の神カグツチを産んだとき女陰に火傷をして苦しんでいるイザナミの尿から生まれたのがミツハノメで、共に和久産巣日神(ワクムスビ)も生まれたという。
「ミツハ/ミズハ」は、「水が走る」、「水が這う」に通じることから、灌漑用水の神だとか、井戸の神などとされることがある。
 ミツハノメを主祭神として祀る神社は意外に少なく、主なところでは奈良県吉野郡の丹生川上神社(web)や静岡県島田市の大井神社(web)などくらいだ。かつて伊勢国鈴鹿郡にあったミツハノメを祀る大井神社は合祀されて今はない。
 ハヤアキツヒコ・ハヤアキツヒメの別名、水戸神の水戸は湊や河口のことで、川湊を守る神といった属性がある。そこから広がって農作物の神や火伏せの神、航海の神などともされた。
 大井神社が農耕の神を祀ったとすればミツハノメもあるし、川に関係のある神として祀ったのであればハヤアキツヒコ・ハヤアキツヒメであってもおかしくはない。あるいは、航海や漁業の神だったかもしれない。

 やや唐突な話ではあるけれど、この地に最初に住みついたのは、朝鮮半島の加羅国(から)からやってきた渡来の海人族だったという話がある。
 日本では伽耶(かや)と呼び、倭国とも関係が深い国で、一時は倭人が支配していたともされている。その地では5世紀終わりから6世紀初めにかけて造られたとされる前方後円墳も見つかっており、出土品も倭国のものという。
 伽耶は百済、新羅、高句麗との争いの中で滅亡したため、伽耶人が大挙して倭国にやってきたというのは充分に考えられる。彼らがこの神社を創建した可能性もある。ただし、根拠があるわけではなく、空想の域を出ない。

『愛知縣神社名鑑』にもちらっと書かれているように、この神社が六所明神と呼ばれるようになったのは石黒重行がやって来て、鹽竈神社の神を祀ったためだ。
 南北朝時代に南朝の後醍醐天皇側についた越中国(富山県)・貴船城城主だった藤原重之の子・藤原(石黒)重行は父の跡を継いで貴船城主となると、後醍醐天皇の皇子・宗良親王を迎え、足利氏の北朝側と戦いを繰り広げることになる。
 しかし、戦に敗れ、城を追われ、奥州に逃げざるを得なくなった。
 そこでも追い詰められた重行は、奥州千賀浦(宮城県塩竃市)の塩竈神社から塩竈六所明神の尊像を持ち出し、それを背負って尾張の大井にやってきて大井神社に合祀したというのだ。
 藤原というから名門には違いないし、南朝の忠臣だったのだろうけど、いきなり神像を背負ってやってきて、これ、塩竈の神様だからここで一緒に祀ってくれないかなと頼まれた方はびっくりしたんじゃないだろうか。背負ってきたというからには1メートルくらいあったのだろうか。それにしても、そんな持ち込み祭神制度は聞いたことがない。ちゃんと許可を取って持ってきたかどうかも気になるところだ。
 しかし今でも塩竈六所明神は大井神社で祀られているそうで、この六神が事勝国勝長狹命、表筒男命、中筒男命、底筒男命、豊玉彦命、猿田彦命なのだという。
 重行は長谷川重行と名前を変え、ここに潜伏したといわれる。やってきた年は1391年という説と1393年という説があり、そのどちらだったかによって意味が違ってくる。というのも、南北朝の統一が1392年だからだ。統一後であれば、重行もそれほど隠れる必要はなかったのではないか。
 重行は後に斯波氏に仕えるようになり、如意と味鋺の領主になった。
 夢窓国師を慕い、瑞竜寺(のち瑞応寺)の伽藍を造営し、晩年は仏門に入って宗円居士と名乗り、1437年に88歳で死去した。
 重行の息子の朝房が1442年に大井神社の社殿を再建したという棟札が残っている。
 江戸時代前中期の1698年には氏子によって修造され、長く守られてきた。
 それも老朽化が進み、昭和62年(1987年)にコンクリート造で再建されて今に到る。

 ここまで見てきて、結局のところ、郡境問題も祭神問題も何の結論も出ないのだけど、とりあえず考察だけはしたので、この先は後に続く人に託したい。調査研究が進めば山田郡と春日部郡の郡境は今よりはっきりするかもしれないし、私が知らない史料の中に祭神に関する答えかヒントがすでに出されているのかもしれない。
 本来であれば、ここより北の豊山町、春日井市、北名古屋市の神社や歴史とあわせて考察すべきなのだけど、名古屋神社ガイドは名古屋市内限定ということで限界がある。もう少し遺跡や古墳などと絡めて書ければよかったとも思う。
 いつか私の認識が進んだところでもう一度大井神社については考察し直してみたいという気持ちもある。それが一年先になるのか数年先になるのかは分からない。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

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