名古屋市内に日吉社(山王社)は二社しか現存していない。一社は名東区の日吉神社(上社)で、もう一社がここ吉津の日吉神社だ。 日吉社の総本社は滋賀県大津市坂本にある日吉大社(web)で、東京にある江戸総鎮守とされた日枝神社(ひえじんじゃ/web)も日吉系の神社だ。 日吉社系の神社は全国に3,800社ほどあるといわれている。 尾張の中心が名古屋城下に移るまで尾張の首府は清須にあった。その清須総鎮守とされたのが清洲山王宮日吉神社(web)だ。 江戸に日枝神社を建てたのは江戸城を築城した太田道灌で、川越の無量寿寺の鎮守だった川越日枝神社から勧請したとされる。 それを江戸城内の紅葉山に移して江戸城の鎮守としたのは徳川家康だった。 名古屋城を築城したのも家康で、江戸城の鎮守も日吉社、清須の総鎮守も日吉社であれば名古屋城や城下も日吉社でよかったのにそうはならなかった。 中区にある山王は、正木の古渡稲荷神社の中にある山王社が由来となっている。清須にあった山王社を名古屋城下に移したもので、稲荷社と合体して山王稲荷と呼ばれていたのがその後、稲荷色が強くなって古渡稲荷神社となった。 名古屋城下の有力寺院が比叡山系の天台宗ではなく高野山系の真言宗だったことも関係があるかもしれない。名古屋城三の丸の天王坊、大須観音(眞福寺/web)、七寺(長福寺/web)、笠寺観音(web)などは真言宗で、天台宗の荒子観音(web)や龍泉寺(web)といった有力な天台宗寺院は名古屋城下から遠かった。尾張藩菩提寺の建中寺(web)は浄土宗で、万松寺(web)は曹洞宗だ。
日吉社の山王信仰(さんのうしんこう)は、比叡山を司る山の神を祀る素朴な信仰から始まっている。 もともとは日枝山(ひえやま)と呼ばれた山で、比叡山の字を当てたのは後世のことだ。 いつ頃から山王信仰が始まったのかは定かではない。最初は大山咋神(オオヤマクイ)を祀っていたところに、668年に大津京を鎮護するため大和国の三輪山から大三輪神(おおみわのかみ/大物主神)を呼んであわせて祀ったことで形が整ったとされる。 大山咋神の咋は杭(くい)のことで、山に杭を打ち込む神、つまりは山を支配する神という意味だ。素戔嗚尊(スサノオ)の孫に当たるとされる。 788年、最澄が比叡山に延暦寺(web)を開いた。オオヤマクイとオオモノヌシを山王として、天台宗の守護神としたことで神仏習合していくことになる。 山王の由来は、唐(中国)の天台山国清寺が山王弼真君(さんのうひつしんくん)を祀っていたからなどという説がありつつも、はっきりしたこは分からない。 いずれにしても、山王信仰が神道の日吉大社と仏教の天台宗の両方で広がり浸透していったということは言えそうだ。 家康が日吉社を江戸城鎮守、江戸市民総氏神としたのは、家康のブレーンだった天海が天台宗の僧だったということもある。江戸城下を実質的に作ったのは天海だったという説もある。
中川区吉津にある日吉神社の創建については明かではないとしつつ、鎌倉時代にはすでにあった。 江戸時代のここは松下村と呼ばれており、平安時代後期の11世紀に成立した富田荘と呼ばれる荘園の一部だった。 鎌倉時代末の1327年に描かれた「富田荘絵図」(重要文化財)に鳥居マークと「比叡」とあるのでこの頃にはすでに建っていたことは間違いない。
『寛文村々覚書』(1670年頃)にはこうある。 「社弐ヶ所 内 山王 神明 伏屋村祢宜 助太夫持分 社内壱反七畝弐拾八歩 松・竹林 前々除 外ニ下田壱反壱畝拾八歩 二社之社領 御国検地」 『尾張志』(1844年)にも「山王ノ社 神明ノ社 二社共に松下村にあり」とある。 『尾張徇行記』(1822年)はもう少し詳しい。 「伏屋村祠官村上模(ママ/相模のはず)書上張ニ、山王社内六畝廿歩前々除 此社草創ハ不知、再建ハ寛永十五年寅年由 神明社内一反一畝八歩前々除 此社草創ハ不知、再建ハ寛永十九午年ノ由」 松下村には山王社と神明社があって、どちらも前々除となっているから1608年の備前検地以前の創建ということだ。 再建は山王社が1638年(寛永15年)で、神明社が1642年(寛永19年)だったことが分かる。 明治の神仏判然令で山王社を日吉社にあらためた(昭和59年に日吉神社に改称)。 神明社は昭和33年(1958年)に日吉社と合併したというのだけど、日吉社に合祀したのはそれより後ではないかと思う。というのも、今昔マップを見ると、1976-1980年の地図までは鳥居マークがふたつあるからだ。日吉神社と道を挟んで南西の鳥居が神明社のものだろう。この鳥居マークは次の1984-1989年の地図では消えているから、合祀されたのは1980年代前半と推測できる。 現在は本社で大山咋神と天照皇大神の二柱を祀っている。
松下村について津田正生は『尾張国地名考』の中でこう書いている。 「松下村 村名正字なり そのかみ川条の所にや地面低き村里なり」 「富田荘絵図」には長須賀としか書かれていないので、その当時は広く長須賀と呼ばれていたかもしれない。 松下村は明治以降、服部村と合併して正治村となり、赤星村を経て富田村となった。名古屋市中川区に編入されたのは昭和30年(1955年)だった。 神社の北にある松下公園などに地名の名残がある。 神社の少し東を流れる新川は、その東を流れる庄内川の洪水対策として江戸時代中期に掘られた人工の河川だ。1784年に工事が始まって1787年に完成した。 「地面低き村里」なのは昔も今も変わらない。日吉神社がある場所も海抜0メートル地帯だ。 境内社として祀られている水天宮も、水難除けのために建てられたものだろうか。
神社を訪れて一番最初に目に飛び込んでくるのが、朱色に塗られた山王鳥居だ。明神鳥居の上に三角形の破風(屋根)が乗った独特の形をしている。 昭和56年に建てられたもので、神社由緒書きによると、境内を道路が通ることになり、境内の再整備の一環として建てたとのことだ。 造営の関係者23人は技術者6名を伴って日吉大社まで出向いていって、宮司の指導と許可の元、建てることになったのだとか。 拝殿前には狛犬の代わりに猿像が左右にいて、神社を守っている。日吉神社にいるこの猿は「まさるさん」と呼ばれている。魔が去るに引っかけて縁起のいい猿といわれている。「勝る」と置き換えてもいい。
そんなわけで、名古屋で日枝山の神を参ろうと思ったら名東区の上社か中川区の吉津を訪れるしかない。
作成日 2017.6.16(最終更新日 2019.5.29)
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