バス停のすぐ前、神社前の道路は高速道路の高架で、隣はパチンコ屋という、なかなかに落ち着かないロケーションの中にある。万場が佐屋街道の宿場だったのは遠い昔のことだ。 かつての佐屋街道は神社の南200メートルほどのところを東西に通っていた。万場大橋も今より南側に架かっており、現在の場所に架け直されたのは昭和に入ってからのことだ。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、江戸時代から続く集落の様子や神社の位置関係が分かる。この天神社は、集落の北西、佐屋街道から少し北に入ったところにあった。
萬場村(まんばむら)の地名の由来についてはいくつかの説がある。『尾張志』(1844年)は、天神社が右近の馬場から勧請したもので馬場が萬場に転じて村名となったと書いている。 現在北野天満宮(web)が建っている場所の南東に、右近衛府の管轄する馬場があった。人々はそこを右近の馬場と呼んでいた。 右近衛府(うこんえふ)は左近衛府とともに武器を持って宮中を警護する官職のことだ。 菅原道真は右近衛大将を務めていたことがあり(権大納言との兼任)、右近の馬場が好きだったという話が伝わっている。道真といえば梅だけど、馬場は桜の名所でもあった。 道真が無実の罪を着せられて太宰府に左遷され、そこで命を落として間もなく、多治比文子(たじひのあやこ)という女性の元に道真の霊が現れ、「われを右近の馬場に祀れ」と告げたという。 多治比文子は道真の乳母だとも、巫女だとも、少女だともいう。 彼女は道真の霊を祀る祠を自宅に建て、のちにそれは文子天満宮(web)と呼ばれるようになる。 右近の馬場近くに朝廷が北野天満宮を建てたのは、道真が没して40年以上経った947年のことだ。 津田正生は『尾張国地名考』の中で、神社の祭礼のときに馬場を設けたことが村名の由来だろうと書いている。 別の説としては、熱田の神官で総検校の馬場家の田があったことが由来というのもある。
『尾張志』がいうように右近の馬場から勧請して祀ったというなら、この天神社の祭神は初めから菅原道真ということになる。それはいつのことだったのか。 江戸時代前期の1670年頃にまとめられた『寛文村々覚書』には「戸田庄万場村 大明神 八幡 弐ヶ所」とあり、天神社は載っていない。大明神は今の 国玉神社・八剣社合殿のことで、この当時の八劔社のことだ。 江戸時代後期の『尾張徇行記』(1822年)にはこうある。 「大明神 八幡社界内一反五畝歩前々除府志云、八剣祠 天神祠 八幡祠倶在万場村」 『張州府志』(1752年)には天神社が載っているということを伝えている。 【覚王院書上張】にある「鎮守天神社」というのが萬場の天神社のことかどうか、ちょっと分からない。覚王院(地図)と天神社は佐屋街道を挟んで150メートルほど離れている。 『尾張志』には「万場村に八劔社 天神社 八幡社あり」とある。 しかし、いずれも天神社の扱いは低く、この神社が萬場の地名の由来となったとは考えにくい。萬場の中心神社は大明神と呼ばれた八劔社だった。 『中川区の歴史』は古書に白山社とあると書いている。それが本当であれば、白山を称していた時代があったということで、右近の馬場から勧請したという話自体が怪しくなってくる。
天神(てんじん)はもともと天皇家ゆかりの天津神や有力豪族の祖神のことを指していた。 アマテラス(天照大神)をはじめとした天孫系の神々は天神で、地上を治めていたオオクニヌシ(大国主命)などが地神(国津神)として区別される。 菅原道真の死後ほどなくして道真は天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)として祀られることになり、その後、左遷に関わった人々が次々と謎の死を遂げたり、清涼殿に雷が落ちて燃えたりして、それらが道真の祟りだということになり、雷と火事から火雷神と道真が結びつき、天神といえば道真のことということになっていった。 太宰府天満宮(web)も北野天満宮も、そもそもは道真の怨霊を鎮めるために建てられた神社だ。学問の神とされたのは江戸時代に入ってからのことだ。 それにともなって、それまで古い神を祀っていた天神社が道真を祀る天満宮になったものが少なくない。
結局、創建のいきさつについてはよく分からないとするしかない。本当に最初から道真を祀る天神社だったのかどうか。 菅原道真を祀るとしながらも天満宮らしさはまったくない。天満宮ではおなじみの牛像もない。 受験の合格祈願に訪れるには少々心許ない気もする。 それでも残ったことをよしとすべきだろう。ここもまた萬場の歴史を伝える大切な神社のひとつだ。
作成日 2017.6.19(最終更新日 2019.6.3)
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