かつて明道町(めいどうちょう/あけみちちょう)と呼ばれたこのあたりは、全国有数の駄菓子問屋街で、今もその名残を色濃く残している。この神社はその一角の奥まった薄暗い場所にあり、かなり特異な空気感を漂わせている。 駄菓子問屋街の神社かと思いきや、その歴史は意外と古く、江戸時代前期の1688年までさかのぼる。 神社西の江川線はかつて江川が流れていたことから来ており、川沿いには農家の集落があった。あるとき、熱病が流行り、村で火事も起きたことから、村人たちが協力して疫病退散と火災防止を願って社を建てたのが始まりと伝わる。祀ったのは牛頭天王と秋葉権現だっただろう。 一般的には隅田神社として通っているこの神社の正式名は、「須佐之男社迦具槌社合殿」となっている。神社本庁への登録名がそうということで、境内にある説明書きにも隅田神社とあるから、もはや隅田神社の方が正式名といえるのかもしれない。隅田神社の名前は、ここが隅田町だったことから来ている。
明道町のあたりが菓子問屋になった歴史も思いのほか古く、名古屋城築城の際に労働者たちに甘味菓子を売ったのが始まりなどという話もある。 江戸時代に入って美濃路を旅人や商売人が行き来するようになると、尾張藩の下級武士たちが内職に作った飴や煎餅を作って売ったともいう。 大正に入って江川沿いを市電が走るようになると(江川はその後暗きょになる)、全国最大規模の菓子問屋街へと発展していくことになる。 昭和になっても発展は続き、それは戦後も続いた。 しかし、昭和46年(1971年)に市電が廃止となり、平成12年(2000年)には中心的役割を担っていた中京菓子玩具卸市場が閉鎖したことで活気がなくなってしまった。それでも、現在でも多くの駄菓子がここで作られ、全国の小売店に運ばれ販売されている。駄菓子のパッケージを見ると、名古屋市西区幅下や新道の製造業者の名前が書かれているのが分かると思う。 最近は観光目的で訪れる人も多く、名古屋のちょっとしたディープスポットとして人気を集めている。戦後の空気感をこれほどとどめているところはそうはない。一般客も駄菓子を箱買いできる。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「古く元禄初年(1688)創祀なり当時の隅田町は灌漑用水江戸川の東に沿う農村で元禄の初め熱病流行し加えて村内に火災起り民心恟々となる。村民河原を開拓して祠宇を建立し二柱の大神を鎮祭し国家安穏と村内の安全を祈る。疫病退散、村民蘇生す又祝融の火災もなく神徳を感謝する。然るに明治四年太政官布達に依公祭禁止となるや復祭を希い、社掌堀田直衛、総代加藤典三郎、今井八左ヱ門、滝野金次郎ら連署歎願遂に熱意が実を結び、明治12年8月31日、公祭の許可となった」(江戸川は江川の誤り) このように明治になっていったん廃止になったものを氏子や住民の希望で復活させたという例はいくつかある。あるいは、いったんは合祀したものの、後になってもう一度取り戻したということもあった。
境内由緒書きには、摂社として隅田開運稲荷神社と柳龍神社があると書いている。 詳しいことは分からないのだけど、稲荷神は問屋の商売繁盛を願って祀ったのだろうし、龍神は江川にまつわるものかもしれない。 名古屋城下から名古屋駅周辺は龍神を祀る神社が多い。戦前まではかなりの数の祠などがあったようだ。
名古屋城三の丸の西、堀川を挟んで西側のこのあたりは現在、幅下(はばした)という町名になっている。これは昭和56年の住居表示によって成立した町名で、古くは巾下(はばした)と呼ばれていた。 名古屋城は熱田台地(那古野台地)の北西端に築かれており、その西と北は台地の下の湿地帯だった。 名古屋城下の台地上に築かれた商人町や御家人町を上町(うわまち)、台地の下を巾下と呼んだ。 名古屋城下が南へ延びていく中で東と西も発展し、台地下にも民家や商家などが増えていった。ここのすぐ南の四間道沿いなどもそうだ。 江戸時代は名古屋村と呼ばれていた。
非常にマニアックな神社だ。何がどうマニアックなのかは実際に訪れて確かめてもらうのが一番なのだけど、普通の神社には飽き足らないという人にオススメしたい。 名古屋駅からも名古屋城からも歩けない距離ではないので、町の雰囲気を感じるためにも歩いていくといいかもしれない。 名古屋のちょっと面白い見所ない? と訊かれたら、四間道、円頓寺、明道町の一帯を挙げる。訪れた際には、那古野の浅間神社や幅下の隅田神社も訪ねてみてほしい。 大須商店街などは名古屋の表の顔にすぎなくて、名古屋のディープスポットは、円頓寺商店街であり、明道町の駄菓子屋問屋街であり、熱田の神宮小路であり、中村の大門、中川の尾頭橋あたりをいう。それらを見ずして名古屋は語れない。
作成日 2018.3.31(最終更新日 2018.12.17)
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