熱田神宮(web)の境内にある摂社のひとつ。 南鳥居をくぐってすぐ左手に半ば独立した境内地を与えられており、八剣宮と敷地を共有するような格好になっている。 江戸時代までは源大夫社(げんだゆうしゃ)と呼ばれており、八劔社の南、市場町の美濃路と東海道の追分にあった。現在でいうと、愛知県警察自動車警ら隊の建物が建っているあたりだ(地図)。 熱田神宮境内に移されたのは戦後の昭和24年(1949年)のことで、参道入り口の左側に移築され、昭和40年(1965年)に現在の社殿を建てて遷座した。
熱田の他の摂社同様、この上知我麻神社もいつ誰がどこに祀ったのが始まりか分かっていない。 南区本星崎町にある星宮社(地図)に上知我麻神社・下知我麻神社の社があり、そこが元地だという説がある。そのふたつの社は、星宮社本社の北の高い場所にあり、星宮本社を見下ろす格好になっている。 星宮社は舒明天皇の637年の創祀とされ、現在地の北200メートルほどの場所(地図)だったともいう。今の笠寺小学校があるあたりだ。もしくはその西の軻愚突知社(本星﨑)(地図)があるあたりだともいう。中世に星﨑城を建てるときに現在地に移したとしている。 いずれにしてもそこは笠寺台地の先端に近い高台で、南は海だった。海を挟んで南には火上山(大高)があり、そこに宮簀媛(ミヤズヒメ)の館があったという。氷上姉子神社の元宮(地図)は火上山の上にあった。ミヤズヒメは乎止與命(オトヨ)の娘とされる。
上下の知我麻神社の知我麻(ちかま)は、千竃(ちかま)のことではないかという説が有力だ。 千竃は『和名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう/平安時代中期の930年に成立した百科漢和辞書)にも載る尾張国の古い地名のうちのひとつだ。 写本によって表記の違いなどがあるものの、尾張国愛智郡には以下の10の郷名があったようだ。 中村(なかむら)、千竃(ちかま)、日部(くさかへ)、太毛/大毛(おおけ)、物部(もののへ)、厚田/熱田(あつた)、作良(さくら)、成海/奈瑠美(なるみ)、驛家(うまや)、神戸(かんへ) 千竃は塩作りのために浜辺にたくさんの竈を並べる様子から名づけられたのだろうということから、塩作りが盛んだった星﨑あたりと考えられている。今の戸部、山崎、本地、牛毛あたりだ。 知我麻神社の本来の祭神は、この地に塩作りの製法を伝えた伊奈突智翁命(イナツチノオジ)とされることもその説を裏付けるように思える。 しかし、個人的に問題と感じるのは、郷名の並び順だ。 中村は今の中村区で、日部、太毛、物部は不明、厚田は熱田、作良は桜、奈瑠美は成海、驛家、神戸は不明とされている。この順番はある程度北から南へと並んでいるので、おおよそ判明している郷だけを考えても、千竈は南区星﨑よりもずっと北ということになるのではないか。物部が物部神社のある東区だとすると(個人的には御器所あたりだと考えている)、中村より南で、物部より西、熱田より北のどこかということになる。可能性として考えられるのは中川区か、熱田台地(那古野台地)の北部あたりだろうか。 ひとつ忘れてはいけないのは、上知我麻神社と下知我麻神社があるということだ。普通に考えれば上知我麻神社が上、つまり北にあり、下知我麻神社が下(南)にあったということだろう。その距離は思っている以上に離れていたかもしれない。 星宮にある上知我麻神社と下知我麻神社の社は規模からして本社ではなく遙拝所だったのではないか。 あるいは、もともと千竈神社だったのが途中で上と下の二社に分かれた可能性も考えられる。
上知我麻神社・下知我麻神社はどちらも『延喜式』神名帳(927年)に載っており、『尾張國内神名帳』では「正二位 千竈上名神」・「正二位 千竈下名神」となっている。 延喜の頃は小社だったものの、文治2年(1186年)に2社とも名神に列している。 古くから熱田七社として崇敬された(熱田神宮・八剣宮・高座結御子神社・日割御子神社・氷上姉子神社・上知我麻神社・下知我麻神社)。 創建年代ははっきりしないものの、大化3年(647年)という説がある。これは創建なのか遷座なのかははっきりしない。
現在の上知我麻神社の祭神は乎止與命(オトヨ)で、下知我麻神社の祭神は真敷刀俾命(マシキトベ)となっている。 オトヨは尾張国初代国造で、尾張の祖神・天火明(アメノホアカリ)の十一世孫(十三世孫とも十世孫とも)とされる。 マシキトベはオトヨの妻で、ミヤズヒメや建稲種命(タケイナダネ)の母ということになっている。 千竈神社の本来の祭神が塩作りに関係する伊奈突智翁命(イナツチノオジ)という説を信じていいのかどうかは分からないのだけど、地主神を祀ったのが始まりという伝承がが色濃いのは確かだ。 オトヨは初代の尾張国造とされているものの、地主神といった性格ではない。 上知我麻神社・下知我麻神社の祭神をオトヨ・マシキトベとしたのは、熱田に移されて以降のことだろう。 本来の千竈神社がどこにあったにせよ、何故それを熱田に移して尾張氏関係の祭神を祀ることにしたのか、ということが問題となる。
オトヨについてはよく分かっていない。 父親は小縫とも建斗米ともされるも定かではなく、母は不明となっている。尾張氏の正統な後継者で尾張国の国造だとすると、これは通常あり得ない。 ただ、どこの誰とも知れない人間が有力豪族だった尾張大印岐の娘を妻にできたとも思えず、やはり正統尾張氏と見るべきか。 それでも素性をはっきりさせられなかった事情のようなものがあったのだろう。個人的な印象でいうと、オトヨは入り婿のような恰好だったのではないかと考えている。父方の血筋が重視されるようになったのは近世以降のことで、古代は女性の血筋が大事だった。妻の実家の勢力を得て権力を初めて持てたということもあったし、女性の血筋がよくなければ后になれないということもあった。 勘違いしている人が多いのだけど、尾張氏は娘を天皇の后(妃)にして権力を強めたのではなく逆で、尾張氏という有力豪族から后を迎えることで天皇は権威と権力を高めていたのだ。それはずっと後の時代の天皇家と藤原家の関係を見ても分かる。 オトヨに関してもうひとつの問題は、生きた時代だ。 『先代旧事本紀』によると第13代成務天皇のときにオトヨは国造に定められたという。成務天皇は第12代景行天皇の子で、ヤマトタケルの異母弟に当たる。 ヤマトタケル東征の際に、オトヨの息子のタケイナダネは副将軍として従い、帰り道に駿河の海に落ちて死んだとされる。ヤマトタケル東征が何年に渡るものだったのは分からないものの、タケイナダネには尾綱根(オツナネ)という息子がいたとされるので、東征の出発時点で成人していたということだろう。 ヤマトタケルは東征の帰りに尾張に寄ってタケイナダネの妹のミヤズヒメと結婚したとされる。その後、ヤマトタケルは伊吹山の神を退治しようとして返り討ちに遭い、亡くなったときは30才だったという。 ヤマトタケル亡き後も景行天皇の時代は続き、次の成務天皇に引き継がれたときまでオトヨは果たして生きていただろうか。生きていたとして、高齢でも国造は務まっただろか。 国造というのはヤマト王権が指名した地方長官のようなもので、それ以前は県主(あがたぬし)と呼ばれていた。地方の有力豪族がそのまま任命された例が多いとされる。 国造制度が始まったのが5世紀から6世紀にかけてとされるのだけど、オトヨはおそらく4世紀の人なので、国造に任命されたという『先代旧事本紀』の内容をそのまま信じていいとは限らない。 神話と現実を混同するのは間違っているとはいえ、系図にあって神社の祭神ともなっているオトヨの実在を疑ってしまうと話が進まないので、とりあえずいたと仮定する。 ただ、実はオトヨとタケイナダネ、マシキトベとミヤズヒメは重なる部分があって、史実と伝説が混ぜ合わさってしまっているようにも思える。そのあたりは自分の中でまだ整理がついていないので、いったん保留としたい。 ミヤズヒメを初代国造とする説があったり、ヤマトタケルは天皇だったという話もあったりするので、そのへんも絡めて考えないといけない。
中世から近世にかけて、上知我麻神社は源大夫社と呼ばれることが多かった。下知我麻神社は紀大夫社といっていた。 『尾張名所図会』(1844年)はこう書いている。 「市場町通傳馬町の西にあり。俗に源太夫社、又智恵の文殊ともいふ」 源大夫の由来はよく分からない。 本地仏を文殊菩薩としたことから智恵の文殊さまともいっていたようだ。 どうしてオトヨを文殊と重ねたのかもよく分からないのだけど、まったく無作為に文殊菩薩を本地仏としたことは考えにくいから、何か根拠があったのではないかと思う。単なる語呂合わせみたいなことだったりする場合もあるのだけど。 『尾張名所図会』は、末社に海神祠(わたつみ)と大黒天祠があると書いている。 今は本殿の左右に大国主社と事代主社があり、それぞれで大黒天と恵比須を祀っている。海神(わたつみ)が恵比寿に転じたようだ。 オオクニヌシとコトシロヌシといえば、日本神話において国作りをした神として描かれている。文殊の源太夫にその2柱を祀ったということも、何か関連があったのかもしれない。 オトヨ=源太夫=智恵の神というのは、きっとどこかでつながっている。 智恵の文殊様ということで、受験シーズンには合格祈願に訪れる人も少なくない。 毎年1月5日の初えびすは、大国主社と事代主社で行われる祭事で、大勢の人で賑わう。 また、古くから名氏子(なうじこ)信仰というのがあり、新生児の名前をつけるとき上知我麻神社で一文字いただいて名づけると賢く育つとされる。そうやって一字をいただいた人を名氏子と呼んでいる。
上知我麻神社とはどういう神社かという問いに答えるのは難しい。それは八剣宮や高座結御子神社、日割御子神社とは違う種類の難しさだ。 そもそもの始まりの地も分からないし、どういう経緯で熱田に移されてオトヨを祀ることになったのかを推測することも難しい。 なんとなくではあるけれど、上知我麻神社も下知我麻神社も、熱田ファミリーに入れてもらっていないような感じがある。よそ者感が漂うといったらいいだろうか。 独立した社を与えられているといえば好待遇にも思えるのだけど、熱田神宮本殿の相殿にヤマトタケル・タケイナダネ・ミヤズヒメが祀られていることを考えると、やはり疎外感といったものがぬぐえない。 たとえ、オトヨの正体を突き止めたからといって上知我麻神社の実体まで分かるということはない。千竈とはどこだったのか、千竈神社は本当に千竈にあったのかなどと考え出すととりとめもなくなる。 『平家物語』にヤマトタケルが尾張国の松戸の島というところに住む源大夫の家に泊まったとき、その娘の岩戸姫を見初めて一晩を共にしたという話が出てくる。 南北朝時代の『神道集』には熱田大明神が天降ったとき、宿を貸したのが紀大夫で、お世話をしたのが源大夫だったという話が載っている。 元になる出来事があって、そこから伝承が派生したり変化したり混在したりして現在に伝わったのは間違いない。 千竈神社と上知我麻神社・下知我麻神社と源大夫社・紀大夫社は実は別物ということも考えられる。
作成日 2018.6.20(最終更新日 2019.9.14)
|