上知我麻神社(熱田神宮内)

オトヨはいつどこから来たのか

上知我麻神社

読み方 かみちかま-じんじゃ(あつたじんぐう-ない)
所在地 名古屋市熱田区神宮1丁目1 地図
創建年 不明
社格等 不明
祭神 乎止與命(おとよのみこと)
アクセス 地下鉄名城線「伝馬町駅」から徒歩約7分
駐車場 あり(無料)
webサイト  
オススメ度

 熱田神宮(web)の境内にある摂社のひとつ。
 南鳥居をくぐってすぐ左手に半ば独立した境内地を与えられており、八剣宮と共有するような格好になっている。
 江戸時代までは源太夫社(げんだゆうしゃ)と呼ばれており、八剣宮の南、市場町の美濃路と東海道の追分にあった。現在でいうと、愛知県警察自動車警ら隊の建物が建っているあたりだ(地図)。
 熱田神宮境内に移されたのは戦後の昭和24年(1949年)のことで、参道入り口の左側に移築され、昭和40年(1965年)に現在の社殿を建てて遷座した。

 熱田の他の摂社同様、この上知我麻神社もいつ誰がどこに祀ったのか分かっていない。
 南区本星崎町にある星宮社地図)に上知我麻神社・下知我麻神社の社があり、そこが元地だという説がある。そのふたつの社は、星宮社本社の北の高い場所にあり、星宮本社を見下ろす格好になっている。
 星宮社は舒明天皇の637年の創祀とされ、現在地の北200メートルほどの場所(地図)だったという。今の笠寺小学校があるあたりだ。もしくはその西の軻愚突知社(本星﨑)地図)があるあたりだともいう。中世に星﨑城を建てるときに現在地に移したとしている。
 いずれにしてもそこは笠寺台地の先端に近い高台で、南は海だった。海を挟んで南には火上山(大高)があり、そこに宮簀媛(ミヤズヒメ)の館があったという。氷上姉子神社の元宮(地図)は火上山の上にあった。ミヤズヒメは(乎止與命)オトヨの娘とされる。

 上下の知我麻神社の知我麻(チカマ)は、千竃(ちかま)のことではないかという説が有力だ。
 千竃は『和名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう/平安時代中期の930年に成立した百科漢和辞書)にも載る尾張国の古い地名のうちのひとつだ。
 ちなみに、このときの尾張国には中村(なかむら)、日部(くさかべ)、太毛(おおけ)、物部(もののべ)、熱田(あつた)、作良(さくら)、成海(なるみ)、駅家(うまや)、神戸(かんべ)があった。
 千竃は塩作りのために浜辺にたくさんの竈を並べる様子から名づけられたのではないとされる。星﨑あたりは古くから塩の一大生産地だった。
 知我麻神社の本来の祭神は、この地に塩作りの製法を伝えた伊奈突智翁命(イナツチノオジ)とされる。日本神話に登場し、鹽竈神社(web)の祭神である塩土老翁(シオツチノオジ)とは名前が似通っている。
 知我麻神社は星﨑を中心とする笠寺台地の土地神を祀ったのが始まりと考えていいだろうか。
 初めから上知我麻神社と下知我麻神社の二社に分かれていたのかどうかは分からない。
 現在の上知我麻神社の祭神は乎止與命(オトヨ)で、下知我麻神社の祭神は真敷刀俾命(マシキトベ)となっている。マシキトベはオトヨの妻で、ミヤズヒメや建稲種命(タケイナダネ)の母とされる。
 これは上下の我麻神社が尾張氏に支配下に入って以降のことだろう。ではそれがいつだったのかが問題となる。

 そもそもオトヨとは何者で、どこから来たのだろう?
 尾張氏系図によると、尾張氏の祖である天火明命(アメノホアカリ)から数えて11代目をオトヨとしている。それが本当であれば、尾張氏はアマテラスの流れを汲む天孫族ということになる。
 しかし、オトヨ以前の系図は結合で、実質的な尾張氏の始まりはオトヨだとする説が主流となっている。つまり、オトヨの父も母も出自もはっきりしないということだ。
 実際、尾張氏の前半部分は怪しい。ねつ造というより接続といった方がよさそうだ。ただし、そういう系図を許されたという点に留意しておく必要がある。まったくの作り物であればそんな系図は系図として成立しない。
 オトヨがどこから来たどんな氏族だったのかはよく分からない。とにかくどこかからやって来て、この地の大豪族だった尾張大印岐(おわりのおおいみき)の娘であるマシキトベ(真敷刀俾命)と結婚したという。それは入り婿だったに違いない。そして、初代の尾張国造(おわりのくにのみやつこ)に任命されたという。
 国造というのは、中央の朝廷が任命した地方長官のようなものだ。それを任命したのは第13代成務天皇だという。
 素直に考えるなら天皇に任命されるくらいだからヤマトから尾張に派遣されたということだろう。しかし、それならオトヨの素性がもう少しはっきりしていてもよさそうなものだ。隠さなければいけない理由でもあったのだろうか。
 もちろん、どこの誰だか分からないような流れ者を尾張の大豪族が娘の婿にするはずもないし、尾張国造に任命されるはずもない。中央の意向が反映されていたに違いない。
 ひとつ確認しておかないといけないのは、尾張氏はどこが発祥かはっきりしてないということだ。尾張国内発祥説と国外発祥説があり、国外説では葛城(奈良県西部)の高尾張から移ったとするものが多い。
 オトヨが初代尾張国造というのであれば、どこからか来てマシキトベの聟となって尾張氏を名乗ったということも考えられる。

 オトヨに関してはいろいろな部分で年代の辻褄が合わない点をどう考えるべきなのだろう。
 日本の時代区分で弥生時代は紀元前4世紀から3世紀中頃とされている。その後は古墳時代として区分される。
 倭国の成立は弥生時代中後期の1世紀中頃から2世紀頃とされている。2世紀の後半になると日本各地にの規模大きな集落が作られるようになり、人々が定住して富を持つことで争いが起こるようになった。
 中国の『三国志』の中の「魏志倭人伝」(魏書東夷伝倭人条)にもそのあたりのことが書かれており、30くらいの国に分かれて争っているとある。邪馬台国もこの頃成立したと考えられている。
 248年には狗奴国と邪馬台国との戦いがあり、卑弥呼が死に、後を受けて台与が女王となって争いが収まったと書く。
 その後、4世紀に奈良県桜井市の纒向(まきむく)でヤマト王権が誕生する。全国各地の土器などが持ち込まれていることから、最初は連合国家だったと考えられている。
 纒向では尾張地方特有のS字甕(S字状口縁台付甕)が大量に持ち込まれたことが分かっており、愛知県一宮市の萩原遺跡群や清須市の朝日遺跡からもたくさん見つかっていることから、尾張が狗奴国だったとする説もある。
 少なくともヤマト王権の成立に尾張が深く関わったことは確かだと思われる。
 オトヨがいつの時代の人物だったのかということだけど、成務天皇の時代だとすると4世紀ということになるだろうか。ただ、成務天皇は第12代景行天皇の子供で、ヤマトタケルとは兄弟に当たる。
 そうなってくといろいろ話が合わなくなるので困る。ヤマトタケルが尾張にやってきたときはオトヨはすでに尾張国造でなければいけないし、オトヨの娘のミヤズヒメを妃としたという話とも合わなくなる。
 時代的にオトヨが4世紀の人だとすると、オトヨを埋葬した古墳はどうなんだということになり、その候補が思い浮かばない。熱田の断夫山古墳は6世紀初めのものでまったく時代が違うし、尾張で古い古墳というと犬山の東之宮古墳が3世紀末から4世紀初頭、東海市名和町の兜山古墳が4世紀末、守山区東谷山の尾張戸神社古墳が4世紀前半、守山区志段味の白鳥塚古墳が4世紀前半と、これらは場所が合わない。
 そもそもでいうと、成務天皇は実在性を疑われている天皇で、4世紀前半に国造の制度が確立されていたかどうかという疑問もある。
 尾張氏の姓(かばね)は基本的に連(むらじ)だった。いつどの天皇が尾張氏に連の姓を与えたのか。
 尾張氏と中央朝廷との関係はどうだったかなどと書き始めると長くなるのでここではやめておく。

 熱田社の縁起によると、ヤマトタケルが東征の途中で尾張に立ち寄り、オトヨの娘のミヤズヒメと結婚を約束して東国に旅立ち、東征を終えて尾張に戻ってミヤズヒメを妃にし、伊吹山の賊を退治にするとき草薙剣を置いていったので負けて、鈴鹿の能褒野で命を落としたとする。残されたミヤズヒメは最初、館のある火上山で草薙剣とヤマトタケルを祀り、自分が年老いたので草薙剣を祀る社を熱田に建てたとしている。
 オトヨが何らかの活躍したという話は伝わっていないものの、尾張のキーパーソンには違いない。
 では何故、オトヨを熱田社本社で祀らなかったのか?
 4世紀中期以降の古墳が何故、火上山もしくは熱田にないのか? あればそれは巨大な前方後円墳のはずだ。
 イナツチノオジを祀る知我麻神社を乗っ取るような形でオトヨとマシキトベを祀るとしたのは何故なのか? イナツチノオジはオトヨのことなのか?
 書き忘れたけど、927年の『延喜式』神名帳に、愛智郡上知我麻神社と愛智郡下知我麻神社は載っている。『国内神名帳』では千竈上名神、千竈下名神として正二位上とある。
 平安時代までには官社とされていたということだ。このときの上知我麻神社と下知我麻神社がどういう状況だったのかはよく分からない。熱田社との関係も不明だ。
『尾張志』などを読むと、江戸時代の人の認識でも本地村あたりから移されたものらしいけど、その創祀がいつだったのか、いつ遷座したのかは分からないということだったようだ。
 いつ頃から源太夫社・紀大夫社と称するようになったのかも分からない。
 神仏習合時代は、源太夫の本地は文殊菩薩で、紀大夫の本地は十一面観音とされる。
 このことから源太夫は智恵の文殊様と呼ばれることも多かったという。
 紀大夫は何故か旅行の安全祈願をする神とされた。
 1月5日の初えびすでは大勢の人が訪れて賑わう。
 知恵の文殊様ということで受験シーズンは受験生や親などがよく訪れる。
 名氏子(なうじこ)信仰というのがあり、新生児の名前をつけるとき上知我麻神社で一文字いただいて名づけると賢く育つとされる。そうやって一字をいただいた人を名氏子と呼んでいる。

 上知我麻神社とはどんな神社かと訊かれてもちゃんと答えることはできない。分からないとしかいいようがない。
 熱田神宮摂社で熱田七社のひとつでもあり、立派な社殿も与えられているとはいえ、どこか本社から切り離されている感じがする。本来よそ者であるはずのヤマトタケルよりも扱いが低い。本宮にも入れてもらえず、いまだよそから来た人扱いを受けているようなところがある。マシキトベを祀る下知我麻神社の扱いは更に低い。
 オトヨとミヤズヒメは親子ではないのかもしれないし、オトヨとマシキトベは夫婦ではない可能性もある。ふたりの子供とされるタケイナダネなどは出ていってしまった息子といった感じで影が薄い。本宮には入れてもらっているものの、これはこれで丁寧に扱われているとはいえない。
 尾張氏の中心にはミヤズヒメがいる。熱田にしても笠寺にしても火上にしても、女首長としてのミヤズヒメを中心に考えるべきなのかもしれない。
 この話の続きは、下知我麻神社のところでしたい。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

 

HOME 熱田区

スポンサーリンク

Scroll Up