八劔社(中島新町)

中島新田のもうひとつの守り神

中野新町八劔社

読み方 はっけん-しゃ(なかじましんちょう)
所在地 名古屋市中川区中島新町4丁目4104番地 地図
創建年 1631年(江戸時代前期)
社格等 村社・十四等級
祭神 日本武尊(やまとたけるのみこと)
 アクセス

・あおなみ線「中島駅」から徒歩約16分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 中野新町4丁目にある八劔社。
『尾張志』がいうところの「中島新田 八劔ノ社 二所 同所にあり」のうちの一社。
 もう一社は東中島町にある八劔社だ。

『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。
「社伝によれば寛永八年(1631)中嶋新田開発により村民の安全と五穀豊穣を願って創祀したという。万治二年(1659)現在の社地に移る。明治5年7月村社に列格する」

 棟札が残っており、創建は寛永十一年(1634年)、鬼頭吉兵衛景義を筆頭に、河津九郎右衛門、河津勘右衛門、伊藤権右衛門、久田四郎右衛門、鬼頭勘助の計六名の連名で勧請し、熱田社家の鏡味賀大夫、松岡牛大夫が神主を務めたことが分かっている。
『愛知縣神社名鑑』が創建を寛永八年(1631)としている理由はよく分からない。建てると決めたのが1631年で、社殿が完成したのが1634年ということだろうか。
 1631年は鬼頭景義が中島新田の開発を始めた年で、1634年は検地を経て中島新田が成立した年ということになる。
 1659年に現在地に移ったということは、創建されたのは別の場所ということだ。中島新田の内だったのか外だったのかは分からない。
『寛文村々覚書』には中島新田の項がない。これは1655年から1658年頃に行われた調査を元に1670年頃完成したと伝わるから、その頃にはすでに中島新田は完成している。
 このへんの事情がよく分からない。私が探せないだけかもしれない。

 鬼頭景義は源為朝の子孫とされる人物で、祖先が戦国時代の後期に武士をやめて農民になったとされる。
 源為朝と鬼頭姓については中区正木の闇之森八幡社のところで書いた。
 鬼頭景義と新田開発については東中島八劔社のページを参照してください。
 中島新町八劔社の少し南にある空雲寺(地図)は、鬼頭景義が春日井にあった善源寺という廃寺をこの地に移して建て直したものだ。
 1661年創建というから、鬼頭景義は新田開発から身を引いてすでに仏門に入っていた時期だろう(新田開発は
1657年まで)。
 空雲寺には景義の墓碑と木像が伝わっている。
 熱田新田の三十三番割観音堂を建てるのにも関わっているとされるから、鬼頭景義は信心深い人でもあった。
 そもそも新田開発を始めたのも、夢で観音様のお告げを聞いたからだという。
 私財をなげうち、莫大な借金を背負っても新田開発をやめなかった。自分の損得のためにやっていたわけではなかった。

 棟札は創建時や修造時などに作って残すものだから、もともとはどこの神社も所蔵していたはずなのだけど、長い歳月の中でほどんどが失われてしまい現存するものは少ない。
 中野新町の八劔社のように残っていると、歴史が分かりやすいので助かる。
 疑問の余地がない分、あれこれ想像を巡らせる楽しみがないという言い方もできるかもしれないけれど。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

棟札が伝える中島新町の八劔社

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