中野新町にある八劔社。 『尾張志』(1844年)がいうところの「中島新田 八劔ノ社 二所 同所にあり」のうちの一社で、もう一社は東中島町にある八劔社のことだ。 八劔社の読み方についてはいつも迷うのだけど、とりあえず「はっけん-しゃ」としておく。「はちけん-しゃ」かもしれないし、「やつるぎ-しゃ」かもしれない。
『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。 「社伝によれば寛永八年(1631)中嶋新田開発により村民の安全と五穀豊穣を願って創祀したという。万治二年(1659)現在の社地に移る。明治5年7月村社に列格する」
寛永十一年の棟札が残っているから創建は1634年だろう。 1631年は中嶋新田の開発が始まった年だ。1634年に縄入(検地)が行われて中嶋新田は正式に成立した。なので、この年に創建したと考えるのが自然だ。 棟札には鬼頭吉兵衛景義を筆頭に、河津九郎右衛門、河津勘右衛門、伊藤権右衛門、久田四郎右衛門、鬼頭勘助の計六名の連名で勧請し、熱田社家の鏡味賀大夫、松岡牛大夫が神主を務めたことが記されている。 1659年に現在地に移ったということは、創建されたのは別の場所ということだ。中島新田の内だったのは間違いないだろうけど。
鬼頭景義は源為朝の子孫とされる人物で、祖先が戦国時代の後期に武士をやめて農民になったとされる。 源為朝と鬼頭姓については中区正木の闇之森八幡社のところで、鬼頭景義と新田開発については東中島八劔社のページに書いた。 中島新町八劔社の少し南にある空雲寺(地図)は、鬼頭景義が春日井にあった善源寺という廃寺をこの地に移して建て直したものだ。 1661年創建というから、鬼頭景義は新田開発から身を引いてすでに仏門に入っていた時期だろう(新田開発に携わったのは1657年まで)。 空雲寺には景義の墓碑と木像が伝わっている。 熱田新田の三十三番割観音堂を建てるのにも関わっているとされるから、鬼頭景義は信心深い人でもあった。 そもそも新田開発を始めたのも、夢で観音様のお告げを聞いたからだという。 私財をなげうち、莫大な借金を背負っても新田開発をやめなかった。自分の損得のためにやったわけではなかった。
棟札は創建時や修造時などに作って残すものだから、もともとはどこの神社も所蔵していたはずなのだけど、長い歳月の中でほどんどが失われてしまい現存するものは少ない。特に空襲と伊勢湾台風で失われたものが多い。 中野新町の八劔社のように残っていると、歴史が分かりやすいので助かる。 疑問の余地がない分、あれこれ想像を巡らせる楽しみがないという言い方もできるけど、江戸時代の神社創建について知る手がかりとして重要な存在だ。
作成日 2017.10.22(最終更新日 2019.6.29)
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