中川区の北、愛知町にある神明社を訪ねたら、入り口の社号標が「熊野社」となっていて戸惑った。あれ、ここって神明社じゃないの? と。左を見たら「神明社」の社号標もあって、どういうことなんだろうと思った。 熊野社は本殿向かって右手にあり、神明社の末社なのだけど、もともと熊野社が先にあって、あとから神明社が勧請されたという話もあり、熊野社も大事にしていこうという表れなのかもしれない。 ただ、『愛知縣神社名鑑』は、「創建は明かではない。往古より北一色村(愛知町)の産土神として領主を始め庶民の崇敬殊にあつし」とあるから、神明社もけっこう古いのではないかと思う。 「明細帳に慶長十七年(1612)二月に社殿を再建とある」というから、創建は江戸時代よりさかのぼるということだ。
江戸時代のここは北一色村だった。 『尾張国地名考』で津田正生は、北一色村の北は下之一色村に対するものと書いている。 一色の由来については諸説あってはっきりしない。 入洲(いりす)が転じたものという説があるけど、中川区の北まで入り江だったのは太古の昔で、地名としてそこまで古いとは思えない。 一色は「イシキ」とフリガナを振っている。現代でも一色の地名は各地にあって、「いっしき」と「いしき」が混在している。中川区にあった下之一色町は「いっしき」だったけど、『尾張国地名考』ではやはり「シモノ-イシキ」になっている。 「いっしき」と「いしき」では由来が違ってくると思うのだけど、いずれにしても一色は後世の当て字の可能性が高い。ただし、各地に一色の地名が残っていることを考えると、何か共通点があるのだろう。
『寛文村々覚書』(1670年頃)の北一色村の項はこうなっている。 「神明社壱社 社内年貢地 熱田 与太夫持分」 『尾張徇行記』(1822年)はこうなっている。 「神明社界内年貢地熱田祠官掌之 府志ニモ載レリ」 「熱田社人長岡数太夫書上帳ニ神明社内一畝十二歩年貢地末社熊野社」 境内が除地ではなく年貢地になっているのは、管理していた熱田社家のところに年貢を納めたということだろう。江戸時代後期になってもそれは変わらなかったようだ。 末社熊野社とあるので、江戸時代にはすでに熊野社が境内社となっていたことが分かる。他の場所にあったものを移したのか、最初から神明社の境内社として勧請したのかは判断がつかない。 『尾張志』(1844年)はこう書く。 「神明ノ社 北一色村にあり 境内の末社に権現ノ社 秋葉ノ社あり」 権現社が熊野社のことだ。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、北一色の集落は西と東に分かれていたことが分かる。神明社は東集落にあり、西集落には善行寺があった。 善行寺はもともと米野村にあって善光寺という禅寺だったのが、明応年間(1491-1501年)に北一色村に移ってきて浄土真宗の寺となり、文亀年中(1501-1503年)に現在地に移され、永正年中(1504-1521年)に真蔵寺と改称し、寛永年中(1624-1645年)に今の善行寺に改めたという。 大正から昭和初期にかけて、村の北には大須通が通り、東の中川は中川運河となり、このあたりも区画整理されて住宅地になっていった。
北一色村は、明治22年(1889年)に日置村、牧野村、平野村、米野村、露橋村と合併して笈瀬村(おいせむら)となった。 愛知町になったのは町制が始まった明治37年(1904年)で、大正10年(1921年)に名古屋市中区に編入された。 中川区が新設されるのは昭和12年(1937年)のことだ。旧愛知町の北部は、同じく新設された中村区に編入され、南部は中川区になった。
境内社として、熊野社、秋葉社、津島社、洲原社の他に、金玉稲荷社と大海龍神社がある。なんだかすごくめでたいような、スケールの大きさを感じさせる名前の社だ。 境内はやや雑然とした印象で、整理がつかないまま歴史が積み重なった感じがする。神明社と熊野社の同居というのもひとつの要因かもしれない。 神社の歴史は紆余曲折を経ているので、雑多な感じというのは、それはそれでひとつの個性だろうし、悪いことではない。
作成日 2017.7.19(最終更新日 2019.6.21)
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