神明社(愛知町)

神明社が先か熊野社が先か

愛知神明社

読み方 しんめい-しゃ(あいち-ちょう)
所在地 名古屋市中川区愛知町21番11号 地図
創建年 不明
社格等 村社・九等級
祭神

天照大御神(あまてらすおおみかみ)

 アクセス

・近鉄名古屋線「黄金駅」から徒歩約11分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 中川区の北、愛知町にある神明社を訪ねたら、入り口の社号標が熊野社となっていて戸惑った。あれ、ここって神明社じゃないの? と。左を見たら神明社の社号標もあって、どういうことなんだろうと思った。
 熊野社は本殿向かって右手にあり、神明社の末社なのだけど、もともと熊野社が先にあって、あとから神明社が勧請されたという話もあり、熊野社を大事にしていこうという表れなのかもしれない。
 ただ、『愛知縣神社名鑑』には、「創建は明かではない。往古より北一色村(愛知町)の産土神として領主を始め庶民の崇敬殊にあつし」とあるから、神明社自体がけっこう古いのではないかと思う。
「明細帳に慶長十七年(1612)二月に社殿を再建とある」というから、創建は江戸時代初期よりさかのぼるということだ。

 江戸時代、ここは北一色村だった。
『尾張国地名考』で津田正生は、北一色村の北は下之一色村に対するものと書いている。
 一色の由来については諸説あってはっきりしない。
 入洲(いりす)が転じたものという説があるけど、中川区の北まで入り江だったのは太古の昔で、地名としてそこまで古いとは思えない。
 一色は「イシキ」とフリガナを振っている。現代でも一色の地名は各地にあって、「いっしき」と「いしき」と両方ある。中川区にあった下之一色町は「いっしき」だったけど、『尾張国地名考』ではやはり「シモノ-イシキ」になっている。
「いっしき」と「いしき」では由来が違ってくると思うのだけど、いずれにしても一色は後世の当て字の可能性が高い。ただし、各地に一色の地名が残っていることを考えると、何か共通点があるのだろう。

『寛文村々覚書』
「神明社壱社 社内年貢地 熱田 与太夫持分」

『尾張徇行記』
「神明社界内年貢地熱田祠官掌之 府志ニモ載レリ」
「熱田社人長岡数太夫書上帳ニ神明社内一畝十二歩年貢地末社熊野社」

『尾張志』
「神明ノ社 北一色村にあり 境内の末社に権現ノ社 秋葉ノ社あり」

「権現ノ社」というのは熊野社のことだと思う。なので、江戸時代後期には熊野社は神明社の末社になっていたということだ。
 社内は除地ではなく年貢地になっている。その年貢はどこへ行くかというと、尾張藩ではなく熱田神社の神職のところに入る仕組みになっている。中川区、中村区はそういう土地だったところが多い。

 北一色村は、明治22年(1889年)に日置村、牧野村、平野村、米野村、露橋村と合併して笈瀬村となった。
 愛知町になったのは町制が始まった明治37年(1904年)で、大正10年(1921年)に名古屋市に編入された。そのときは中区だった。
 中川区が新設されるのは昭和12年(1937年)のことだ。旧愛知町の北部は、同じく新設された中村区に編入され、南部は中川区になった。

 境内社として、津島社、洲原社、秋葉社の他に、金玉稲荷社と大海龍神社がある。なんだかすごくめでたいような、スケールの大きさを感じさせる境内社だ。
 境内はやや雑然とした印象で、整理がつかないまま歴史が積み重なった感じがする。神明社と熊野社の同居というのもひとつの要因かもしれない。
 ただ、神社の歴史は紆余曲折を経ているので、雑多な感じというのは、それはそれでひとつの個性だろうし、悪いことではないと思う。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

 

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