少し蛇行気味に南下しながら流れてきた新川が庄内川と平行になる手前あたりに神社はある。 ここは江戸時代前期の1640年(寛永17年)から1643年(寛永20年)にかけて八田村の鬼頭景義が開発した東福田新田の北東に当たる。 新田はほとんどが湿田だったため、住人にとって舟が唯一の交通手段だったという。 船頭場(せんどうば)の地名は、新川の渡し船や漁船のたまり場だったことから来ているとされる。 対岸の下之一色村に渡るには自分渡しで、渡り賃は三文だった。自分渡しというのは船頭がおらず自分で渡るということだ。 明治になって両郡橋が架けられて渡しは廃止になった。両郡橋の名前は愛知郡と海東郡を渡す橋ということから名づけられた。
東福田村は小さな集落が散在していたところで、船頭場、子ケ須、八百島、七反野、知多郡屋敷、春田野などがあり、多くが町名として今も残っている。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見てもその状況がよく分かる。 この白山社は船頭場の鎮守だった。
『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。 「創建は明かではない。船郷の鎮守の神として新田の経営を見守り給う。明治9年7月10日、村社に列格する。平成3年4月本殿等を改修した」
神社の由緒書き(平成3年)にはこんなことが書かれている。 奈良時代前期の729年に泰澄が荒子に観音寺を建てたとき、寺の鎮守として祀ったのがこの白山社で、荒子村の出郷だった中島村(中島新田村)にあったものを1804年(文化元年)に船頭場が譲り受けた。 あり得る話ではあるけど、そのまま信じていいのかどうか。
『寛文村々覚書』(1672年頃)の荒子村の項にはこうある。 「荒子村 富士権現壱社 当村観音寺持分 社七ヶ所 内 山王 白山権現 弁才天 神明 鹿嶋大明神 天王 風宮」 ここにある白山権現が今の船頭場の白山社かどうかは何とも言えない。 『寛文村々覚書』に中島新田村の項はない。
『尾張志』(1844年)の東福田村の項を見るとこうなっている。 「神明ノ社三社 山神ノ社 熱田大明神ノ社二所 六社共に福田新田村にあり」 白山社はない。
『尾張徇行記』(1822年)の福田新田村の神社関連はこうだ。 「大明神三社界内一反一畝十五歩前々除 蔵屋敷九畝除地」 「横井村祠官二村長門守書上帳ニ、東福田新田ノ内神明祠 此社ハ寛永十九年勧請也 山ノ神社 此社ハ寛永二十一年巳年勧請也」 「中ノ郷村祠官高羽但馬守書上帳ニ、福田新田七段ノ割神明大明神二社」 「須成村祠官寺西伊豆守書上帳ニ、西福田新田ノ内熱田大明神神明 勧請ノ初ハ寛永十九年也 大明神二社 勧請ノ初ハ慶安四卯年也 熱田大明神 勧請ノ初ハ同上(慶安四卯年) 熱田大明神 勧請ノ初ハ同上(慶安四卯年) 神明社 勧請ノ初ハ寛永十九年也」 ここでも白山社は出てこない。 大明神二社のうちのひとつが白山社という可能性はあるだろうか。白山は一般的に明神ではなく権現と呼ばれていたから違うのか。
今昔マップで位置を確認すると、船頭場の集落の四つ辻の少し西にあったことが分かる。 明治、大正、昭和と時代が進むにつれて少しずつ民家が増えていっているものの、基本的な状況は変わらない。西側一帯は長らく田んぼ地帯だった。東側は1960年代には完全な住宅地になっている。 1980年代に入ると船頭場全域に民家が増えて、田んぼは少なくなる。 1990年代までわずかに残っていた田んぼも、今はほとんどなくなったようだ。 船頭場4丁目と小賀須1丁目にまたがる船頭場公園は平成20年以降にできたもので新しい。都市整備計画自体は昭和30年頃からあったようなのだけど、このあたりが最後まで残っていた農地だった。
神社前の通りは旧街道の面影を残していてなかなか趣がある。 街道沿いの赤鳥居はよく目立つ。いつ頃から赤く塗ったのだろう。 参道脇にある松の木はいい姿をしている。 拝殿には力神(リキジン)がいて、本社は神明造になっている。拝殿屋根は神明造風で、祭文殿は流造、屋根瓦付きの垣が本社の周囲を巡っている。いろいろな要素が混ざっていてややちぐはぐな印象を受ける。 ただ、いい神社だとは思った。江戸時代以降に建てられた港区の神社と比べると異質なものを感じる。荒子から移した古い白山社というのは本当かもしれない。 実際に729年創建の神社だとしたら、港区に現存する最古級の神社ということになる。創建から遷座までの経緯をもう少しはっきりさせることができるといいのだけど。
作成日 2018.8.10(最終更新日 2019.7.29)
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