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須佐之男社(徳川町)

屋根神様から町内の守り神へ

徳川町須佐之男社

読み方 すさのお-しゃ(とくがわちょう)
所在地 名古屋市東区徳川町 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 不明
祭神 須佐之男命(すさのおのみこと)
アクセス 名鉄瀬戸線「森下駅」から徒歩約13分
駐車場 なし
その他  
オススメ度

 東区の出来町周辺には東之切中之切西之切にそれぞれ須佐之男社がある。
 西之切・須佐之男社(地図)から西に260メートルほど行った同じ出来町通り沿いにこの小さな須佐之男社はある。山口町交差点のすぐ東で、町名では徳川町になる。
 他の3社も規模としては小さいのだけど、あちらは神社としての体裁が整っているのに対し、ここは神社とは呼べないお社だ。鳥居も拝殿も狛犬もなく、他の3社のように山車も所有していない。
 もともと屋根神様として祀られていたものを降ろしたという話があるのだけど、いつどこからここに運ばれてきたかはよく分からないようだ。
 最初は牛頭天王を祀る天王社だったのは3社と同じだろう。今は須佐之男を祀っている。
 東区東部や千種区西部に須佐之男社が密集している理由やそのいきさつについては東之切・須佐之男社のページに書いた。
 千種区松軒にも素盞男社があり、中村区日吉町にある素盞男神社、昭和区広路町の須佐之男神社や昭和区汐見町の須佐之男社も、もともと東区や千種区にあった須佐之男社系(天王社)の神社だ。
 徳川町の須佐之男社が屋根神様だったとして、その創建がいつだったのかはちょっと分からない。明治か昭和か。
 わずかな手がかりとして、入り口の須佐之男命と刻まれた石柱の左右に「御大典記念」と「昭和三年十一月」と彫られている。これがこちらに移された年ではないだろうけど、そのときにはすでにここにあったということはいえそうだ。

 御大典記念の御大典(ごたいてん)というのは、天皇の即位の礼から大嘗祭(だいじょうさい/即位した天皇が最初に行う収穫祭)に至る一連の儀式のことをいい、御大礼(ごたいれい)ともいう。
 その記念ががどうして昭和3年11月かというと、その年の11月10日に、昭和天皇が京都御所では即位の大礼を行ったからだ。
 気をつけていると、あちこちの神社で御大典記念の石柱や石碑があることに気づくはずだ。
 今上天皇から皇太子に譲位されるときも、この即位の礼と大嘗祭は行われる。約200年ぶりの生前退位、生前譲位ということで、通例とは違ったものとなるかもしれない。
 大嘗祭は秘中の秘で、何が行われるのかは次の天皇と数人しか知らないという。なにやら魔術めいた秘密の儀式があるとかないとか。
 前回の生前譲位は江戸時代後期の1817年、光格天皇(こうかくてんのう)から仁孝天皇(にんこうてんのう)へと行われた。このときまだ光格天皇は46歳で、その後70歳まで生きることになる。ただし、光格天皇の在位期間37年は、昭和天皇の62年、明治天皇の45年についで3番目に長い在位ということで、途中で放り出したとかそういうことではなかった。
 江戸時代の天皇は政治権力こそ失ったものの、京都での役割はあって、やれることはやっていた。光格天皇も、石清水八幡宮(web)や賀茂神社(web)の祭礼の復活や朝廷の儀式の復旧に尽力した。朝廷の学問所を復活させる望みは息子の仁孝天皇に託され、これがのちに学習院となっている。
 2019年の御大典では記念碑が各神社で建てられることがあるかどうか。平成のときでさえあまり建っていないようだから、次はもっとないだろうか。
 記念碑など意味がないと思うかもしれないけど、100年後、200年後のことを考えると今建てておけば将来価値が出るものだから、無駄ではない。建てるなら一番残りそうな神社がもっとも適した場所といえそうだ。

 神社をつぶすなんて簡単なことで、残していくのは難しい。どんな形であれ残しておくと、歴史を未来につなげることができる。
 道ばたの朽ち果てそうな小さな祠も無駄ではないのだ。

 

作成日 2018.2.6(最終更新日 2019.2.21)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

名古屋市東区は須佐之男神社がいっぱい

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