八龍社(福徳町)

川は移って堤防と神社は残った

福徳町八龍社

読み方 はちりゅう-しゃ(ふくとく-ちょう)
所在地 名古屋市北区福徳町3丁目8番 地図
創建年 不明
社格等 村社・十等級
祭神 高龗神(たかおかみのかみ)
 アクセス

・地下鉄鶴舞線「庄内通駅」から徒歩約25分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 庄内川と矢田川の合流点に近い南側は、かつて庄内川と矢田川に挟まれた土地で、川中村と呼ばれていた。江戸時代は西から福徳村、中切村、成願寺村と並んでおり、川中三郷ともいっていた。
 八龍社は福徳村にあった神社で、創建年は不明ながら寛永九年(1632年)2月7日の棟札が残されており、江戸時代前期にはすでにあったことが分かる。
 1670年頃まとめられた『寛文村々覚書』には八龍宮社となっている。前々除とあるから、1608年の備前検地のときにはすでにあったということだ。

 神社は階段を登った高台にあり、境内まで登ると街を見下ろす格好になる。
 東西に並ぶ中切の神明社、中切の天神社も同じで、これらの神社は矢田川の堤防上にあったため、その名残として今も高台になっているというわけだ。
 かつての矢田川の流路は地図を見るとわりとはっきりと見てとれる。一番分かりやすいのが愛知工業高校のあたりで、校舎とグラウンドが細長くうねっている。ここを矢田川が流れていたときは、神社のある高台は右岸(北側)堤防だった。
 川中の村は洪水でたびたび被害を受けており、昭和に入って矢田川の付け替えが行われることになった。
 昭和5年(1930年)に工事は始まり、矢田川を北へずらして庄内川と平行に流れるように流路を変えた。
 その結果、福徳、中切、成願寺の川中の土地は矢田川の南側になった。
 羊神社別小江神社山神社伊奴神社などは矢田川の左岸沿いにあった神社ということでもある。
 成願寺や成願寺の六所神社は矢田川の付け替え工事に伴って現在地に移された。

 祀られている高龗神(たかおかみのかみ)は、水の神だ。
 奈良県吉野の丹生川上神社(にうかわかみじんじゃ web)から勧請したと伝わっている。
 丹生川上神社は上社・中社・下社があって、上社では高龗神 (たかおかみのかみ)を、中社では罔象女神(みつはのめのかみ)を、下社では闇龗神 (くらおかみのかみ)を祀るとしている。
 八龍社の祭神が高龗神というなら上社からの勧請ということになるだろうけど、丹生川上神社も比定の経緯でいろいろあったようなので、はっきりしたことは分からない。
 高龗神を祀る神社としてよく知られているのは京都の貴船神社(web)だ。
 高龗はイザナギがカグツチを斬り殺したときに生まれた神とされ、闇龗神とは対のような関係とも考えられている。
 雨乞いの神といったイメージが強いのだけど、堤防の上で祀ったということは水害除けの願いを込めたということだろうか。
 あるいは、高龗神を祀るとしたのは明治以降のことで、江戸時代は単に龍神を祀るという意識だったかもしれない。江戸時代の村人たちが日本神話に登場する龗神を知っていたかどうか。

 境内に明寛行者の碑が建っている。名古屋の古出来に生まれた丹羽宇兵衛は岩崎御嶽山を開いた御嶽教の先達だ。
 心願講や御嶽教の講社については中川区の東福寿教会のところでも少し書いた。
 心願講は春日井出身で御嶽登山道を開いた覚明の系統で、天保元年(1830年)に古伯が設立した。
 それを宮丸講講祖の儀覚の弟子だった明寛が継承し、古伯の子である明心とともに発展させた。
 心願講の拠点は最初長久手の岩作御嶽山にあり、後に岩崎御嶽山に移った(1860年)。
 岩崎御嶽山は中部地方の御嶽講の中心的な霊場となっている。
 どうして明寛行者の碑がここにあるのかは分からないのだけど、御嶽の行者の碑があるということは、八龍社に御嶽教の人が関係しているということなのだろう。

 このあたりは安食一族がおさめる土地で、古くは安食郷(あじきごう)と呼ばれていた。
 福徳の地名は、鎌倉時代に長母寺の僧が安食からあらためたと津田正生は『尾張国地名考』の中で書いている。福徳は仏教言葉で縁起のいいものとされる。安食はあまりいい響きではなかったということか。
『寛文村々覚書』の福徳村の項には、神明と白山があると書かれているのだけど、現在それらの神社は見当たらない。廃社となったか、合祀されたかしたようだ。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

今も矢田川から町を守っているのか福徳町八龍社

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