八龍社(福徳町)

川は移って堤防と神社は残った

福徳町八龍社

読み方 はちりゅう-しゃ(ふくとく-ちょう)
所在地 名古屋市北区福徳町3丁目8 地図
創建年 不明(1632年とも)
社格等 村社・十等級
祭神 高龗神(たかおかみのかみ)
アクセス 地下鉄鶴舞線「庄内通駅」から徒歩約25分
駐車場 なし
その他 例祭 10月13日
オススメ度

 庄内川と矢田川の合流点に近い南側は、かつてふたつの川に挟まれた土地で、川中村と呼ばれていた。江戸時代は西から福徳村、中切村、成願寺村と並んでおり、川中三郷ともいっていた。今昔マップを見ると、集落は矢田川の堤防沿いに固まっていたのが見てとれる。
 八龍社は福徳村にあった神社で、創建年は不明ながら寛永九年(1632年)2月7日の棟札が残されており、江戸時代前期にはすでにあったことが分かる。
『北区の歴史』はこの1632年を創建年と書いている。しかし、『寛文村々覚書』(1670年頃)で八龍宮社は前々除となっていることからすると、1608年の備前検地以前に建てられた可能性が高い。
『寛文村々覚書』によると、成願寺村の孫太夫の持分で、境内地は五畝拾九歩、前々除とする。
 八龍宮社の他に福徳村には神明と白山があって、両社とも前々除で、円光寺の持分としている。
 神明社と白山社は今の福徳には現存していない。八龍社に合祀されたか、他へ移されたかしたのだろう。
『尾張志』(1844年)にも福徳村の神社は、白山社、神明社、八龍社とある。白山社には熊野社と富士社の末社があると書いている。
『尾張徇行記』(1822年)に気になる記述がある。
「熊野白山富士社内一反二畝廿歩備前検除、春日八龍八幡三社宝暦十三年未年水ヲ避テ白山社内ヘ易地ス、旧地三反余備前検除、神明社モ同前也、旧地六畝十五歩備前検除 寺外畠三畝十二歩天神森無社二畝共ニ備前検除、以上皆聖徳寺持也」
 熊野、白山、富士があり、宝暦13年(1763年)に水難を避けるために春日、八龍、八幡を白山社に移したと書いている。これは本当だろうか。『尾張志』では白山社の境内社として熊野と富士があるといっている。
 そのあたりがどういう状況だったのか、ちょっと判断がつかない。確かなのは、今の福徳に現存するのは八龍社だけということだ。西に隣接して秋葉社があるけど、これは江戸期の書には載っていない。

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「創建は明かではないが、寛永九年(1632)2月7日、社殿再建と棟札にあり、社地は川高のため度々水難を蒙った。寛政十一年(1799年)修復、明治10年11月14日、据置公許となり、明治18年村社に列格した」

 神社は階段を登った高台にあり、境内まで登ると街を見下ろす格好になる。
 東西に並ぶ中切の神明社中切の天神社も同じで、これらの神社は矢田川の堤防上にあったため、その名残として今も高台になっている。
 かつての矢田川の流路は現在の地図を見ても名残をとどめている。一番分かりやすいのが城北つばさ高校(かつては愛知工業高校だった)あたりで、校舎とグラウンドが細長くうねっている。ここを矢田川が流れていたときは、神社のある高台は右岸(北側)堤防だった。
 今昔マップを見るとその頃の様子が更によく分かる。
 川中村は洪水でたびたび被害を受けたため、昭和に入って矢田川の付け替えが行われることになった。
 昭和5年(1930年)に工事は始まり、矢田川を北へ移して庄内川と平行に流れる流路にした。
 その結果、福徳、中切、成願寺はすべて矢田川の南側になった。
 羊神社別小江神社山神社伊奴神社などは矢田川の左岸沿いにあった神社ということでもある。
 成願寺や六所神社(成願寺)は矢田川の付け替え工事に伴って現在地に移された。

 祀られている高龗神(たかおかみのかみ)は、水の神だ。
 奈良県吉野の丹生川上神社(にうかわかみじんじゃ web)から勧請したと伝わっている。
 丹生川上神社は上社・中社・下社があって、上社では高龗神 (たかおかみのかみ)を、中社では罔象女神(みつはのめのかみ)を、下社では闇龗神 (くらおかみのかみ)を祀るとしている。
 八龍社の祭神が高龗神というなら上社からの勧請ということになるだろうけど、丹生川上神社も過去にいろいろあったようなので、はっきりしたことは分からない。
 高龗神を祀る神社としてよく知られているのは京都の貴船神社(web)だ。
 高龗はイザナギがカグツチを斬り殺したときに生まれた神とされ、闇龗神とは対のような関係とも考えられている。
 雨乞いの神といったイメージが強いのだけど、堤防の上で祀ったということは水害除けの願いを込めたということだろうか。
 あるいは、高龗神を祀るとしたのは明治以降のことで、江戸時代は単に龍神を祀るという意識だったかもしれない。江戸時代の村人たちが日本神話に登場する龗神を知っていたかどうか。

 境内に明寛行者の碑が建っている。名古屋の古出来に生まれた丹羽宇兵衛は岩崎御嶽山を開いた御嶽教の先達だ。
 心願講や御嶽教の講社については中川区の東福寿教会のところでも少し書いた。
 心願講は春日井出身で御嶽登山道を開いた覚明の系統で、天保元年(1830年)に古伯が設立した。
 それを宮丸講講祖の儀覚の弟子だった明寛が継承し、古伯の子である明心とともに発展させた。
 心願講の拠点は初め長久手の岩作御嶽山にあり、後に岩崎御嶽山に移った(1860年)。
 岩崎御嶽山は中部地方の御嶽講の中心的な霊場となっている。
 どうして明寛行者の碑がここにあるのかは分からないのだけど、御嶽の行者の碑があるということは、八龍社に御嶽教の人が関係しているということなのだろう。

 このあたりは安食一族がおさめる土地で、古くは安食郷(あじきごう)と呼ばれていた。
 福徳の地名は、鎌倉時代に長母寺の僧が安食からあらためたと津田正生は『尾張国地名考』の中で書いている。福徳は仏教言葉で縁起のいいものとされる。安食はあまりいい響きではなかったということか。
『尾張徇行記』に福徳村の神社はすべて聖徳寺の支配と書いているけど、この聖徳寺を創建したのは安食(葦敷)二郎重頼とされる。それが本当であれば、創建は平安時代末ということになる。
 そのあたりについては神明社(中切町)天神社(中切町)のページに書いた。

 福徳村にあった白山や神明、富士や熊野ではなくこの八龍を残したということは、ここが村の中心神社だったと考えていいだろうか。だとすれば、村内で一番古い創建かもしれない。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

今も矢田川から町を守っているのか福徳町八龍社

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