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諏訪社(鳴海町諏訪山)

スカッと爽やか諏訪社

鳴海町諏訪山諏訪社

読み方 すわ-しゃ(なるみちょう-すわやま)
所在地 名古屋市緑区鳴海町諏訪山159 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 指定村社・十二等級
祭神 建御名方神(たけみなかたのかみ)
アクセス 名鉄名古屋本線「左京山駅」から徒歩約10分
駐車場 あり
その他 例祭 10月18日(?)
オススメ度 **

 重たい神社が多い緑区にあって、この諏訪社の清浄さと爽やかさは異質だ。境内を歩いているだけで心身共に浄化されていく感じがする。なんだこの爽やかさは、と思う。気が枯れているときに行くと気をフル充電してくれそうだ。
 この空気感が何に起因しているかは分からない。土地が持つエネルギーなのか、神社の歴史なのか、祀られている神の力なのか。

 大高の丘陵地帯の北の縁に当たる場所で、大高村と鳴海村の境界の鳴海村側に属していた。
 諏訪社の南から弥生時代の土器が見つかっていることからも古くから人が暮らす土地だったようだ(諏訪山遺跡)。
 少し北を東西にかつての東海道が通っており、有松宿の東の出入り口を少し南に入ったところに神社はある。
 江戸時代以前、東海道が整備されるまではもっと北の方を鎌倉街道が通っていた。集落の中心はそちら側にあったとされる。
 神社がある諏訪山という地名はこの諏訪社から来ており、それ以前は平部山と呼ばれていた。南の大府方面から鎌倉街道に向かう緒川道がこのあたりを通っており、平部山で峠越えをしていた。
 平部山の麓あたりにあった集落は東海道ができる少し前にそちらに移っていった。
 686年創建の成海神社旧地(地図)から見ると諏訪社は1キロほど南東に位置している。
 鳴海は奈良時代の律令制では愛智郡に属して成海郷と呼ばれていた。奈留美と表記する例もある。それが鳴海になったのは江戸時代からのようで、江戸時代の鳴海村は尾張藩領だった。
 有松は東海道が整備されて以降の1608年、池鯉鮒宿と鳴海宿の間の中間点に間宿(あいのしゅく)として作られた集落だ。
 このあたりは丘陵地で農耕地が少なかったことから尾張藩が絞り染めを奨励して、それが東海道名物の有松絞りとして発展した。その他、酒造業も盛んだった。

 この諏訪社をいつ誰が勧請したのか、詳しいことは伝わっていない。
 1396年、当時の鳴海城主(根古屋城)だった安原備中守宗範(やすはらびっちゅうのかみむねのり)が平部山に瑞松寺(ずいしょうじ/web)を建立した。
 その当時は瑞松寺と諏訪社が並んで建っていたようなのだけど、瑞松寺が建つ以前からすでに諏訪社はここにあったとされる。境内の説明書きでは鎌倉時代創建ではないかとしている。
 瑞松寺は応仁の乱(1467-1477年)の時期に兵火で焼失し、1501年に現在地(地図)に移され、瑞祥寺と改め、1716年に現在の瑞泉寺と改名した。
 江戸時代後期まで諏訪社は瑞泉寺が管理しており、その後、平部村に管理が移された。

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「創建は明かではないが境内の石灯篭の銘に”正徳二壬辰年(1712)正月吉日願主下里氏平吉屋”とあり、これより以前に信州諏訪大明神を勧請奉斎したものである。『尾張志』に諏訪社、境内に下諏訪社あり、鳴海村にあり、と明治5年7月28日、村社に列し、明治40年10月26日、供進指定社となる。明治42年8月1日字伝治山新十三番地鎮座無格社春日社を本社の境内地に合併する。昭和27年8月鳴海町字神明千八番地元村社神明社(境内地475坪)を合併、飛地境内神社とした」

『尾張志』(1844年)には「鳴海むら 諏訪ノ社 境内に下諏訪ノ社あり」とある。

『寛文村々覚書』(1670年頃)の鳴海村の項を見るとこうなっている。
「氏神東宮大明神壱社
八幡壱社
社拾九ヶ所 社内壱町九反四畝歩 前々除
諏訪大明神 当村 助左衛門持分
神明 当村 六右衛門持分
神明 八幡 当村 七郞右衛門持分
天王 山神 当村祢宜 伝大夫持分
権現 天神 当村祢宜 藤大夫持分
浅間 当村祢宜 如意寺持分
山神 当村祢宜 市右衛門持分
山神 当村祢宜 太郎右衛門持分
山神 当村祢宜 喜兵衛持分
山神 当村祢宜 彦三郎持分
山神 当村祢宜 杢兵衛持分
神明 当村祢宜 唯也持分
神明 山王 綿干山 助大夫持分
山神両社 甚蔵持分」

 氏神東宮大明神が成海神社(web)のことで、八幡社は鳴海八幡宮のことを指している。
 鳴海村は広かったこともあり、江戸時代前期の時点で19社も神社があったようだ。しかもすべて前々除とあるので、創建は江戸時代以前ということになりそうだ。
 前々除は1608年に行われた備前検地のときにすでに除地だったという意味で、名古屋城の完成が1612年、家康が東海道の整備を命じたのが1601年、有松宿が作られたのが1608年なので、前々除の意味は小さくない。
 ひとつの村にこれほど多くの祢宜がいて、それぞれが神社を持ち合っている例はあまりなかったと思う。
 江戸時代の神官は、神主がいて、祢宜がいて、社人と呼ばれる人がいた。祢宜は一般の村人が兼ねることがあり、上の例を見ても助左衛門や六右衛門など俗人名なので、鳴海村の場合もそういう例だろう。
 大夫(太夫)というのは下位の神職のことをいう。
 諏訪社は大明神となっていることから、古くから特別の崇敬を受けていた神社だったことがうかがえる。

 境内にある下諏訪社も古く、創建年は伝わっていない。
 諏訪大社(web)の上社前宮と下社で祀る八坂刀賣命(ヤサカトメ)を祀っている。
 山神社や春日社は『愛知縣神社名鑑』の説明にもあるように明治以降に鳴海村にあったものを移してきたものだ。
 諏訪山龗神社については境内の説明書きには載っていない。名前からすると龍神であり水神でもある龗神(オカミ)を祀る社だろう。
 拝殿向かって左に建っている社務所は昭和11年まで本殿として使われていた建物だ。

 尾張における諏訪明神とはどういう存在なのかは以前から気になっていることのひとつだ。
『古事記』によると、大国主神(オオクニヌシ)の次男である建御名方神(タケミナカタ)は国譲りを迫られたときに従わず、建御雷神(タケミカヅチ)に戦いを挑んで負けて諏訪まで逃げていってここから二度と出ませんと誓って諏訪で祀られるようになったという。
 一方諏訪では古くから土着の洩矢神(もりや/もれやのかみ)がいて、タケミナカタに征服されたという伝承が残る。
 新潟県糸魚川に伝わる伝承として、オオクニヌシが高志国の沼河に住む沼河比売を妻としてその間に生まれた子供がタケミナカタだったという話がある。
 尾張国にもタケミナカタの影がちらつくものの、その実体をはっきり捉えることができない。
 江戸時代以前にこの地方にも諏訪明神を信仰する一族、もしくは個人がいたことは確かだろう。ただ、それがどういう人たちだったのかを探り当てるのは難しい。

 歴史的なことを追求することも必要だけど、この神社はとにかく行って感じてみてほしい。あんな清々しくて気持ちのいい神社はめったにあるもんじゃない。

 

作成日 2018.10.25(最終更新日 2023.1.8)

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