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白山社(石仏)

石仏という土地の歴史と記憶

石仏白山社

読み方 はくさん-しゃ(いしぼとけ)
所在地 名古屋市昭和区石仏町1丁目71 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 指定村社・九等級
祭神 菊理姫命(くくりひめのみこと)
アクセス 地下鉄桜通線/鶴舞線「御器所駅」から徒歩約12分
駐車場 なし
その他 例祭 10月1日
オススメ度

 かつて昭和区の中央部を塩付街道(しおつけかいどう)が南北に通っていた。石仏の白山社はその通り沿いにある。
 南区の星﨑あたりに塩浜があり、そこで作られた塩を美濃や信州などに運ぶために整備された道を塩付街道と呼んだ。
 富部神社地図)の近くで馬の背に塩を載せて北上し、飯田街道で信州方面に向かうルートと、古出来町(地図)で山口街道に合流するルートがあり、そこから各地に塩が運ばれていった。

 石仏(いしぼとけ)はかつての石佛村で、石佛村は御器所荘の支村という位置づけだった。
 石仏の地名の由来にはいくつかの説がある。
 その中のひとつを『尾張志』(1844年)が紹介している。
 それによると、白山社の境内に観音堂と石地蔵あって、長さ五尺余(150センチちょっと)の千手観音の石仏を安置することから村の名前となったという。
 津田正生は『尾張国地名考』の中で、「石畑毛(いしばたけ)」から転じたものだといっている。
 また、服部惣市郎善昌という人物がこのあたりを開墾したとき、古い石仏があって、それが村名になったという説もあるとする。
 瀧川弘美は、名古屋城を築城したときに石工がこのあたりにいたことが村名の由来だという。

『尾張志』は隣接する善昌寺についても書いている。
 白山社はこの善昌寺のもので、慈雲山善昌寺はかつて立派な伽藍を持つ寺だったのが、戦国時代に戦火で焼けて捨て置かれるままとなり、境内には大きな石や古い瓦などが散乱していた。
 天正二年(1574年)頃、この地の領主が城を造営するときその石を運ばせようとしたが大きすぎて運べない。そこで石工が鎚(つち)で石を割ろうとしたところ石がまぶしい光を放ち、石工は目が見えなくなってしまった。恐ろしくなった石工はそのまま髪を剃って出家し、慈雲と名乗って善昌寺に住みついた。その話を聞きつけた人々がやってきてこの石に願掛けをしたところ願いが叶うと評判になったと寺の縁起にあるという。

『寛文村々覚書』(1670年頃)の石仏村の項を見るとこうある。
「社 弐ヶ所 児宮 山之神 当村 善昌寺持分 前々除」
 児宮と山之神があって白山社はない。
『尾張徇行記』(1822年)にも「児宮山ノ神二社」とあり、白山は載っていない。
『尾張志』(1844年)には、「白山ノ社 石佛村にあり 菊理媛命をまつるといへり」とあり、「兒ノ社 山ノ神ノ社 あり」と書く。
 善昌寺については「御器所村龍興時の末寺也慶長十三申年僧鑑宗創建即開祖とす」、「白山ノ社及観音堂石地蔵なと境内の東となりにあり」と書いている。
 慶長13年は1608年で、備前検地が行われた年だ。名古屋城はまだ築城されていない。
 善昌寺の創建が1608年で、白山社が善昌寺の境内にあったということは、白山社の創建もそれ以降の可能性が高い。1670年頃の『寛文村々覚書』に白山がないということは、白山は更にその後かもしれない。
『昭和区の歴史』には、貞享年間(1684-1687年)に加賀白山の信徒が御神体を背負って布教活動を行っていたとき、尾張のこの地にも御神体を置いていったという話があると書いている。
『愛知縣神社名鑑』は、貞享年間(1684-1687年)に庄屋の上服部宗市郎たちが勧請した社ともいうとしている。

 石仏、御器所あたりは瑞穂台地(御器所台地)の上にあり、古くから人が暮らしていたことが分かっている。
 石仏一帯には多くの古墳や塚があったと伝わっており、石仏白山社もそういった古墳または塚の上に乗っている。
 石仏は古東海道の通り道でもあった。
 道は石仏から尾張元興寺(願興寺/地図)があった古渡を通り、中村を斜めに縦断して国分寺(地図)のある稲沢に至っていたのではないかと考えられる。
 石仏には字(あざ)古観音という地名があった。この地に、尾張国の観世音寺を建てる計画があったという興味深い話がある。
 大正時代の初め、石仏で天平年間(729年-749年)に焼かれた鬼瓦が発掘された。奈良時代前期の聖武天皇の時代だ。
 聖武天皇といえば奈良の大仏を作ったことで知られる。それは仏教によって国を守るという宣言でもあった。
 741年には各地に国分寺と国分尼寺を建てる詔(みことのり)を出した。
 その前年に九州の太宰府で藤原広嗣の乱が起こると、聖武天皇は突然、「朕思うところあって関東に旅に出ます。心配しないでください」と置き手紙を残して東国へ旅立ってしまった。伊賀国から伊勢国、美濃国、近江国を回り、平城京の手前の恭仁(くに)まで戻ったところで唐突に都を恭仁宮に遷すと宣言した。
 このとき聖武天皇は尾張国までは来なかったものの、天皇の皇子が来ていたのではないかというのだ。尾張に観世音寺を建てるためだったという。
 御器所の地名は熱田社(熱田神宮/web)に祭祀用の土器を納めていたことが由来とされ、熱田社の神領でもあった。観世音寺建立のため、熱田社がこの地を提供したともいう。
 観世音寺は結局、建てられることはなかったとされる。しかし、鬼瓦が出土している他、大きな石がこの地に残されていたこと、寺院建築の跡地らしいものが見つかっていることなどから、実際に建てられるところまでいっていたようだ。
 何者かに襲われ、建築中の寺は焼かれ、皇子たちは殺されたのではないかという。
 この地に多くの塚が築かれ、その塚には若宮社や児宮社があり、字(あざ)として稚児宮や若宮前があったこととも符合する。
 若宮で古い窯跡が見つかっており、そこで焼かれた瓦が尾張元興寺や尾張国分寺で使われたことが分かっている。石仏で発見された鬼瓦も同じ窯で焼かれたものだ。

 白山社の北に弘法堂があり、そこに社日社(しゃにちのやしろ)という社があった。その下には服部家氏塚碑というものが埋められていた。江戸時代中期の1767年に造られたもので、服部家の歴史が刻まれてる。
 それによると、服部家が御器所荘に移り住んだのが永享から嘉吉の頃(1429-1441年)で、天文年間(1532-1554年)に御器所を支配していた佐久間氏と姻戚関係を結んで配下に入り、織田家に仕えていたようだ。
 しかし、佐久間信盛が信長の不興を買って失脚すると、服部家は石仏の地に移って隠れ住み、武士はやめてこの地を開墾して暮らすようになったという。それが善昌の代で、慈雲山善昌寺はそこから名付けられたとされる。善昌寺を建立したのは善昌の息子だったという話もある。
 碑によると、貞享年中(1684-1688年)に氏塚の西南にあった大きな松の下に白山祠を祀り、のちに村人が祀ったとある。
 服部家がどうして白山社を勧請したのかはよく分からない。善昌寺との関係を思えば神道の白山神社由来ではなく仏教系の白山権現を祀ったものと思われる。
 佐久間信盛が信長に追放されて高野山に逃げていった(受け入れられずに熊野まで落ちていった)のが1580年だから、白山祠を祀ったとされる1680年代はそれから約100年後ということだ。当然、白山社を勧請したのは善昌ではない。

 明治の神仏分離令で白山社は善昌寺と分けられ、善昌寺の東に独立した。
 現在の境内社に兒子宮、山神社があるので、石仏村にあったあった児宮と山神を移したようだ。
 その他、津島社、秋葉社、鹽竈社、金刀比羅社がある。

 廃寺となった尾張の古寺やかつての古道はわずかな痕跡を残すのみとなってしまったけど、神社や寺にはそれらを探る手がかりが残されている。失われた記憶を掘り起こすことも、我々の果たすべき役割なのかもしれない。それは、過去の人たちとつながり、思いを同じくすることでもある。

 

作成日 2017.8.31(最終更新日 2019.3.17)

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昭和区石仏の白山社

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