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村上社


楠が主役の小さくて大きな神社



村上社と大楠

読み方むらかみ-しゃ
所在地名古屋市南区楠町17 地図
創建年不明
旧社格・等級等不明
祭神村上天皇(むらかみてんのう)
アクセス地下鉄桜通線「鶴里駅」から徒歩約6分
駐車場 なし
その他例祭 10月10日(体育の日?)
オススメ度**

 この神社の主役は祀られている村上天皇ではなく大楠の木だ。この楠の巨木を見るためだけに訪れる価値がある。
 大きさでいうと熱田神宮(web)にある御神木の三本の方が上らしいのだけど、姿形の美しさや迫力ではこちらの方がインパクトがある。見た瞬間、おおぅとなる。圧倒される。そして、思う。これはいいな、と。
 推定樹齢は1000年というから平安時代の中頃に植えられたものということになるだろうか。
 高さは約20メートルで、幹周りは10メートルを超える。根本付近が大きく膨らんでいるのも特徴で、少し治療跡があるものの、枝振りなどはいたって元気で、生命力に溢れている。
 間違いなく名古屋を代表する銘木の一本と言っていい。名古屋市の天然記念物に指定されている。



 笠寺台地の中央、東の縁に近い場所にある。
 すぐそばに櫻村と鳴海村、大高村を結ぶ海路の発着所があり、この木が舟で行き来する人々の目印になっていたという。
 神社北側には、鎌倉街道の中の道が通っていた。
 楠町の地名はこの楠が由来となっている。南区の木も楠だ。
 それにしても、いつ誰がここに楠を植えたのだろう。そして、何故この木だけ切られずに残ったのか。



 日本にある楠(クスノキ)は、古い時代に中国から入ってきたものといわれている。どうやら日本原産の木ではないらしい。
 常緑高木で、国内では関東から西に、国外では中国から東南アジアにかけて広く分布している。
 寒いところが苦手な木ということで、関東から北の人たちにとってはあまり馴染みのない木かもしれない。
 名古屋近郊では神社でよく見られる。
 成長が早く、寿命が長いため、神社などにあったものは切られないまま巨木となり御神木となっていることも多い。
 暖かいところほどよく成長するので、九州に巨木化している楠がたくさんある。日本最大の楠は鹿児島県蒲生八幡神社にある蒲生の大楠で、幹周りは24メートルだそうだ。
 しかし、上には上があって、台湾の和社神木は、幹周り16メートルで、高さは44メートルという。
 楠が好んで植えられたのは、薬用効果があったというのも理由だ。薬の原料として使われたり、防虫効果があるということで家具や仏像の原木として利用された。古代には舟の材料として使われていたという。
 クスノキの語源は薬の木だとか臭し(くすし)が転じたものという説がある。



 大楠の木の前に小さな祠がある。多くの人はこの楠を御神体として祀っていると思うかもしれない。実際は、村上社の名前が示す通り、この祠で村上天皇を祀っている。
 創建についてのいきさつは分からない。いつ誰か何のためにここに村上天皇を祀ることになったのか。
 しかし、村上天皇を神として祀るという発想自体が今ひとつピンとこない。
『南区の神社を巡る』は、古鳴海の八劔社とこの地の間を船で渡った際、爪か髪の毛を置いていったので村上社と呼ぶようになったという伝承を紹介している。
 しかし、実際に村上天皇が尾張のこの地を訪れたという史実があるのかどうか、定かではない。



 天暦の治(てんりゃくのち)は、村上天皇治世を理想とする後年の呼称だ。天皇が政治を主導した理想的な時代だったと後世の人たちが美化してそう呼んだ。
 しかし、村上天皇と聞いてどんなことをした天皇だった即答できる人は少ないんじゃないだろうか。多くの人が何時代の天皇かも知らないかもしれない。
 醍醐天皇の息子で、朱雀天皇の弟と聞けばなんとなく、ああ、そのあたりねとなるだろうか。
 第60代醍醐天皇の第十四皇子でありながら天皇に即位できたのは、母親が藤原基経の娘で中宮(正妻)の穏子だったからということと、皇太子だった兄が早くに亡くなってしまったからだった。
 生年は926年。兄の第61代朱雀天皇とは母親を同じくする兄弟で、年齢は3つ違いだった。
 醍醐天皇から朱雀天皇にかけての時代は、とにかくいろんなことがあって大変だった。菅原道真を左遷したのが醍醐天皇で、その皇太子だった保明親王が若くして死んだのは道真の呪いと噂された。醍醐天皇も最後は寝込んで急死してしまい、朱雀天皇は8歳で即位することになる。
 朱雀天皇の時代に起きたのが、平将門の乱だ(935年)。ほぼ同時期に瀬戸内海では藤原純友が反乱を起こし、朱雀天皇は頭を悩ませることになる。
 二人をどうにか討ち取って乱が収まったのは941年のことだった。
 それだけではなく、富士山は噴火し、地震や洪水などの天変地異も続き、朱雀天皇は嫌になってしまったのだろうか、24歳の若さで天皇の位を弟の村上天皇に譲ってしまう。自身に息子がいなかったのも原因とされる。ただ、譲ったあとに後悔して復位しようと画策したともいわれている。30歳で崩御。
 村上天皇が即位したのが946年で、21歳だった。
 しばらくは先代から関白だった藤原忠平に政治は任せていたのだけど、949年に忠平が死去したあとは自ら政治を行うようになった。
 ただし、実質的に政務を担当したのは左大臣・藤原実頼とその弟の右大臣・師輔だったとされており、村上天皇は和歌や琵琶、琴などにいそしんでいたともいう。天徳4年(960年)の天徳内裏歌合(てんとくだいりうたあわせ)はよく知られている。
 同じ年に平安京遷都以来、初めて内裏(だいり/御所)が全焼するという大事件が起きている。
 ちなみに、『延喜式』(927年)は醍醐天皇が藤原時平に命じて編さんさせたもので、時平亡き後は弟の忠平が後を受けて完成させている。
 村上天皇は967年に42歳で崩御。
 息子の憲平親王が冷泉天皇(れいぜいてんのう)として即位した。
 村上天皇の御陵は京都市右京区にある。追号の村上は御陵の在所からとられたものだ。



 兵庫県神戸市に村上天皇を祀る村上帝社(むらかみていしゃ)という小さな神社がある。
 琵琶の名人だった藤原師長が琵琶を極めるため唐に渡る途中、須磨を通ったとき、村上天皇の霊が現れて琵琶の奥義を授けたという伝説から創建されたという。
 ここ以外に村上天皇を祭神として祀る神社はなさそうだ。
 これはもう、分からないとするしかない。
 かつては八幡社があったそうなのだけど、楠の生育を阻害するといけないということでよそに移されたという話がある。
 現在、この場所は桜田八幡社(呼続)の飛地境内地になっている。もしかしたら桜田八幡社がその八幡社なのかとも思うのだけど、違う八幡社かもしれない。



 楠も新緑の季節を迎えて、今が一番輝いている時期といえそうだ。初夏には小さな白い花をたくさん咲かせる。
 機会があればぜひ、この楠に会いにいってやって欲しい。




作成日 2017.4.19(最終更新日 2019.8.8)


ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

村上社の大楠に会いにいく

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