綿神社

弥生時代に海の神を祀ったのが始まりという

綿神社参道と鳥居

読み方 わた-じんじゃ
所在地 名古屋市北区元志賀町2-53-1 地図
創建年 不明(弥生時代とも)
旧社格・等級等 郷社・六等級・式内社
祭神 玉依比売命(たまよりひめ)
應神天皇(おうじんてんのう)
神功皇后(じんぐうこうごう)
アクセス 地下鉄名城線「黒川駅」から徒歩約6分
駐車場 なし
その他 例祭 10月10日 特殊神事 茅輪神事 8月1日
オススメ度 **

 弥生時代前期、北九州筑前国(福岡県)の志賀島(しかのしま / 地図)を本拠とする阿曇族(あずみ/安曇族)の人々が、海を渡って日本各地に散らばり、その一部がこの地にもやってきて故郷で祀っていた海神・綿津見(ワタツミ)を祀ったのが綿神社の始まりとされる。

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「『延喜式神名帳』に山田郡、綿神社・小社とあり『国内神名帳』には従三位和田天神とある。『尾張志』『尾張名所図会』には綿は海(わた)のかり字で海津見神を祀る。昔はこの辺りまで入海にて志賀は水辺の里を呼ぶ地名という。その後社地近くに、織田信長の忠臣平手政秀住み崇敬あつく神田一反七畝十七歩と狛犬を寄進する。慶長十七年壬子年(1612)六月二十八日、社殿修造あり、尾張徳川公城北鎮護の神として崇敬あつく度々社参、修造料を献進した。明治5年式内社に治定あり、郷社に列格する。昭和45年社殿を造営境内の整備を行う」

『尾張志』(1844年)、『尾張徇行記』(1822年)、『尾張名所図会』(1844年)、『寛文村々覚書』(1670年頃)に書かれていることを総合すると、江戸時代の西志賀村には八幡社と四十八社2社の3社があり、八幡が『延喜式』神名帳の綿神社で、近くを掘り返すと貝がよく出てくることからかつてこのあたりは海辺で貝塚もあり、九州の志賀から来た人間がこの地でワタツミを祀ったのが綿神社の始まりだろうということになる。
 しかし、それは本当だろうか? 個人的な感触として少し疑問がないわけでもない。

 太古の昔、東海湖という超巨大な湖があった。名古屋市の全域、岐阜県の南部、伊勢湾と三重県の海岸線をすっぽり覆うくらいの規模だったとされる。
 その東海湖が地殻変動で隆起してできたのが名古屋台地だった。
 6,000年ほど前の縄文時代前期、地球規模の温暖化により海面が5メートルほど上昇して海岸線がぐっと内陸まで入り込んだ。名古屋市内は台地を除いてほぼ水没状態で、海岸線は瀬戸市や小牧、犬山、岐阜、養老、多度あたりだったと考えられている。
 瀬戸にある海上の森は、海の上に浮かぶ森に見えたことからそう名付けられたともいう。津島、中島郡一宮、枇杷島、長島などの地名は、実際に島だった頃の名残だろう。
 その後、縄文時代中期になると気温が低くなって海面が下がり、弥生時代の初めには更に海岸線は後退して川が運んだ土砂によって大きな平野ができた。
 そこは肥沃な土地となり、作物を育てるのに適していたため、人々は高台から平野に移り、海岸近くに集落を作って暮らすようになる。
 安曇族が移り住んできたのはそんな時代だったと考えられる。
 黒川から北西約5キロ、清洲城(web)の西の黒川ジャンクション(地図)があるあたりで大規模な弥生時代の集落の跡、朝日遺跡が見つかっている。面積は80万平方メートル、東西1.4キロ、南北0.8キロの環濠集落があった。
 それとは別に、綿神社の近くでも西志賀貝塚、志賀公園遺跡、平手町遺跡など、いくつかの貝塚や小集落跡が見つかっている。
 現在は庄内川で分かれているけど、弥生時代は入り海を挟んだ対岸という位置関係だった。
 朝日遺跡は二重の濠をめぐらせ、二重の垣根で取り囲み、濠には罠まで仕掛けてあるという防御重視の集落だった。外敵から身を守るためだろうけど、かなり切迫した状況だったようだ。
 縄文時代に大きな争いがなかったのは人々が財産といったものをほとんど持たなかったからだ。動物の皮の奪い合いくらいはあったにしても、集団対集団での大規模な戦闘行為はなかったのではないか。それが弥生時代になると稲作によって食が豊かになり、人々は財産を持つようになって人口も増え、争いが起きるようになった。朝日遺跡の防御姿勢がそれを物語っている。弥生時代はあまり平和な時代ではなかったようだ。

 北区のこのあたりには、志賀本通や元志賀町など、志賀島にまつわる地名が付けられており、『延喜式』にも関係氏族として安曇族の記載があるから、安曇族がやってきたことは間違いなさそうだ。ただ、それにしては痕跡が少なすぎるのが気になる。
 綿神社は江戸時代まで八幡社と称していた。それを綿神社にしたのは、1801年に西志賀貝塚が発見されたからだった。
 やっぱりこのあたりは昔は海で、八幡社は海の神を祀っているのだから、延喜式に載ってる綿神社はここのことだろう、じゃあ綿神社に名前を変えようということだったようだ。
 綿神社の綿は、綿津見が示すように海(ワタ)に別の文字を当てたものというのが定説となっている。
 日本で綿織物が流通するようになるのは室町時代以降のことで、庶民が木綿の服などを着るのは江戸時代に入ってからだ。少量は大陸や朝鮮半島から入ってきていたとはいえ、平安時代以前に高貴な人たちは綿の衣ではなく蚕の糸から織った絹の衣を身につけていた。庶民の衣は主に麻から織られたものだ。
 そのことからすると、やはり綿神社の綿は木綿ではなく海神から来ていると考えていいだろう。

 引っかかっるのは祭神が玉依比売命(タマヨリヒメ)となっている点だ。
 もし、本当に志賀島から安曇族がやってきて故郷の神を祀ったというのであれば、当然、祖神である綿津見命(わたつみのみこと)であったはずだ。あるいは、本拠の志賀海神社(しかうみじんじゃ / web)と同じく綿津見三神(わたつみさんしん)でなければならない。
『渡會氏神名帳考證』などでは海童神、『大日本神砥志』や『神祇志料』では綿津見神、『特選神名牒』では綿津見命となっている。いつどういう理由で祭神を玉依比売命(タマヨリヒメ)としたのかがよく分からない。
 信濃国の式内社・玉依比賣命神社(web)や京都の賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ/下鴨神社 / web)、上総国一宮(千葉県)の玉前神社(たまさきじんじゃ / web)など、タマヨリヒメを主祭神として祀る神社はいくつかあるものの、全国的にみても数は少なく、共通項はほぼない。
 知立神社(ちりゅうじんじゃ / web)では、日子波限建鵜草葺不合命 (うがやふきあえずのみこと)を主神として、その関係者も一緒に祀っているのでタマヨリヒメも入っている。
「玉依」は、神霊が取り憑く霊憑(たまより)から来ているとされる。いわゆる巫女のことだ。
『古事記』、『日本書紀』では様々な場面、様々な立場で登場し、一貫性がないことから神に仕える巫女の総称ではないかともいわれる。ヒーローとして作り上げられたヤマトタケルのようなものであり、卑弥呼=日巫女/日御子にも通じるものがある。
 巫女の役割は、神の意を受け取り伝えるということ以外に、神の子を産むというものもある。
 タマヨリヒメの父が綿津見大神(豊玉彦)で、姉に豊玉毘売命(トヨタマヒメ)がいる。ヨトタマヒメは山幸彦(火遠理命/ほおりのみこと)と結婚してウガヤフキアエズを産み、妹のタマヨリヒメに育てるように命じる。
 タマヨリヒメは、その育てた姉の息子であるウガヤフキアエズと結婚し、神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれひこ)を産む(末っ子)。これが初代天皇の神武天皇となる。

 問題は、もともとは海の神である綿津見命(ワタツミ)を祀っていたはずなのに、いつどこでそれがタマヨリヒメになったか、ということだ。
 八幡社から綿神社に改名したのは、延喜式神名帳にある綿神社に合わせてのことで、それなら普通にワタツミでよかったはずだ。タマヨリヒメになったのは、それ以前ということだろうか。
 考えられるとすれば、八幡社として祀っていた応神天皇と神功皇后にあわせる形でタマヨリヒメにしたということだ。八幡宮では比売神(ひめがみ)を一緒に祀るところがあり、それも主祭神に対する巫女的な存在だから、ワタツミ関係の神としてタマヨリヒメを持ってきたということは考えられる。
 津田正生は『尾張国神社考』の中で、『延喜式』神名帳の綿神社は和田八幡(今の綿神社のこと)ではなく児の宮だと書いている。それは今の八幡社(児子社)のことで、かなり唐突に思うだろうけど、個人的にはあり得る話だと思っている。
 もともとあった綿神社に中世になって八幡神を合祀して、その後に本体である社を他に移したあと、ワタツミを祀っていたことが分からなくなってしまったのではないかというのだ。児宮の児は海童の童から来ていると津田正生はいう。
 そのあたりについて詳しくは八幡社(児子社)のページに書いた。

 戦国時代、神社の近くに織田家重臣、平手政秀の邸があった。現在、志賀公園(地図)となっている場所だ。
 政秀はすっかり荒廃していた綿神社を見かねて社殿を再建するとともに神領を与え、鏡と手彫りの狛犬を奉納したという。
 八幡社と改めたのはこのときとされる。
 平手政秀は織田信秀に仕え、息子・信長の守り役を任されていた。しかし、信長の素行があまりにもひどいものだから、綿八幡社に何度も祈願に訪れたという。
 それでも信長の行状はいっこうによくならず、最後はいさめるために切腹して果て、知らせを受けた信長は馬で駆けつけ、枕元で号泣し、以降すっかり人が変わったように真面目になった、というのが美談として語られることが多いけど、実は政秀の切腹は信長と揉めたことが原因で、政秀亡きあとも信長は何も変わらず暴れん坊のままだったともいう。
 とはいえ、のちに改心して天下統一を目指したことは確かで、信長も戦勝祈願として綿八幡に槍先などを奉納したと伝わっている。
 江戸期の書にある四十八社は、平手政秀の切腹の際に殉死した家臣48名を祀る社だったとされる。その後、綿神社に移されて四十八祖社という末社になっている。
 尾張徳川家もこの神社を大切にして、代々の藩主も参拝した。

 第二次大戦の空襲(昭和20年)で社殿が焼失してしまい、昔の記録などは失われてしまったようだ。今の建物は戦後の昭和45年(1970年)に再建されたものだ。

 今の綿神社が『延喜式』神名帳の綿神社かどうかはもはや分からない。そうだとも言い切れないし、違うとも言えない。このあたりが海辺で遠く九州から海人族が渡ってきたというのも上手く想像ができない。祭神がワタツミ神ではなくタマヨリヒメになってしまった経緯も調べようがないように思う。
 あとはそれぞれが参拝してもらって、自分で感じ取ってもらうしかない。その際は、ぜひ児子社もあわせて訪れてみてほしい。

 

作成日 2017.2.25(最終更新日 2018.12.24)
 

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