綿神社

弥生時代に海の神を祀ったのが始まりという

綿神社参道と鳥居

読み方 わた-じんじゃ
所在地 名古屋市北区元志賀町2-53-1 地図
創建年 不明(弥生時代とも)
社格等 式内社・郷社・六級社
祭神

玉依比売命(たまよりひめ)

神功皇后(じんぐうこうごう)
応神天皇(おうじんてんのう)

 アクセス

・地下鉄名城線「黒川駅」から徒歩約6分。
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度 **

 弥生時代前期、北九州筑前国(今の福岡県)の志賀島(しかのしま)を本拠とする阿曇族(あずみ/安曇族)の人々が、海を渡って日本各地に散らばり、その一部がこの地にもやってきて故郷で祀っていた海神・綿津見(ワタツミ)を祀ったのが綿神社の始まりとされる。
『延喜式神名帳』に山田郡綿神社、『尾張国神名帳』に従三位和田天神とあり、ここがその綿神社である。
 というのが一般的な説明であり、定説となっているのだけれど、その説明を鵜呑みにする前に、いくつかの疑問点を提示しつつ、私自身の頭の中を整理したいと思う。もしかしたら、ここは海の神を祀る神社ではないかもしれないし、神名帳にある綿神社とは違う可能性もある。

 太古の昔、東海湖という超巨大な湖があった。名古屋市の全域、岐阜県の南部、伊勢湾と三重県の海岸線をすっぽり覆うくらいの規模だったとされる。
 その東海湖が地殻変動で隆起してできたのが名古屋台地だった。
 6,000年ほど前の縄文時代前期、地球規模の温暖化により海面が5メートルほど上昇して海岸線がぐっと内陸まで入り込んだ(2-3メートルほどという説もある)。名古屋市内は台地を除いてほぼ水没で、海岸線は瀬戸市や小牧、犬山、岐阜、養老、多度あたりだったと考えられている。
 瀬戸にある海上の森は、海の上に浮かぶ森に見えたことからそう名付けられたという。津島、中島郡一宮、枇杷島、長島などの地名は、実際に島だった頃の名残だという。
 その後、縄文時代中期になると気温が下がって、海岸線が後退を始め、弥生時代の初めには更に後退が進んで低地だったところに大きな平野ができた。
 そこは肥沃な土地となり、作物を育てるのに適していたため、人々は高台から平野に移り、海岸近くに集落を作って暮らすようになる。
 安曇族が移り住んできたのはそんな時代だった。
 黒川から北西約5キロ、清洲城の西の黒川ジャンクションがあるあたりで大規模な弥生時代の集落の跡、朝日遺跡が見つかっている。面積は80万平方メートル、東西1.4キロ、南北0.8キロの環濠集落があった。
 それとは別に、綿神社の近くでも西志賀貝塚、志賀公園遺跡、平手町遺跡など、いくつかの貝塚や小集落跡が見つかっている。
 現在は庄内川で分かれているけど、弥生時代は入り海を挟んだ対岸にあったと考えられる。
 朝日遺跡は、二重の濠をめぐらせ、二重の垣根で取り囲み、濠には罠まで仕掛けている。外敵から身を守るためだろうけど、かなり切迫した状況だったようだ。
 縄文時代に大きな争いがなかったのは人々が財産といったものをほとんど持たなかったからだ。動物の皮の奪い合いくらいはあったにしても、集団対集団での大規模な戦闘行為はなかったのではないか。それが弥生時代になると人々は財産を貯め込むようになり、それが争いの原因になった。農作業をして木の実を拾ったり魚釣りをしたりといった牧歌的な暮らしでは必ずしもなかったのだろう。

 北区のこのあたりには、志賀本通や元志賀町など、志賀島にまつわる地名が付けられており、『延喜式』にも関係氏族として安曇族の記載があるから、安曇族がやってきたことは間違いなさそうだ。ただ、それにしては痕跡が少なすぎるのが気になる。
 綿神社は江戸時代まで八幡社と称していた。それを綿神社にしたのは、1801年に西志賀貝塚が発見されたからだった。
 やっぱりこのあたりは昔海で、八幡社は海の神を祀っているのだから、延喜式に載ってる綿神社はここのことだろう、じゃあ綿神社に名前を変えようということだったようだ。
 綿神社の綿は、綿津見が示すように海(ワタ)に別の文字を当てたものというのが定説となっている。
 そうではなく、綿はそのまま木綿などの綿のことではないのかという考えも出てくる。北区には、織物にまつわる古い神社がいくつかある。多奈波太神社や、羊神社などがそれだ。
 日本で綿織物が流通するようになるのは室町時代以降のことで、庶民が木綿の服などを着るのは江戸時代に入ってからだ。少量は大陸や朝鮮半島から入ってきていたとはいえ、平安時代以前に高貴な人たちは綿の衣ではなく蚕の糸から織った絹の衣を身につけていた。庶民の衣は主に麻から織られたものだ。
 綿は織物一般のことという考えもあるにはあるにしても、綿神社を織物の神を祀るとするには根拠が弱すぎる。

 私が一番引っかかったのは、祭神が玉依比売命(タマヨリヒメ)であるという点だ。
 もし、本当に志賀島から安曇族がやってきて故郷の神を祀ったというのであれば、当然、祖神である綿津見命(わたつみのみこと)であったはずだ。あるいは、本拠の志賀海神社(しかうみじんじゃ)と同じく綿津見三神(わたつみさんしん)かだ。
『渡會氏神名帳考證』などでは海童神、『大日本神砥志』や『神祇志料』では綿津見神、『特選神名牒』では綿津見命となっているのに、いつどういう理由で祭神を玉依比売命(タマヨリヒメ)としたのか。
 信濃国の式内社・玉依比賣命神社や京都の賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ/下鴨神社)、上総国一宮(千葉県)の玉前神社(たまさきじんじゃ)など、タマヨリヒメを主祭神として祀る神社はいくつかあるものの、全国的にみても数は少なく、共通項はほぼないといっていい。
 知立神社(ちりゅうじんじゃ)では、夫の日子波限建鵜草葺不合命 (うがやふきあえずのみこと)を主神として、その関係者も一緒に祀っている。
「玉依」は、神霊が取り憑く霊憑(たまより)から来ているとされる。いわゆる巫女のことだ。
『古事記』、『日本書紀』では様々な場面、様々な立場で登場し、一貫性がないことから神に仕える巫女の総称ではないかともいわれる。ヒーローとして作り上げられたヤマトタケルのようなものであり、卑弥呼=日巫女/日御子にも通じるものがある。
 巫女の役割は、神の意を受け取り伝えるということ以外に、神の子を産むというものもある。
 タマヨリヒメの父が綿津見大神(豊玉彦)で、姉に豊玉毘売命(トヨタマヒメ)がいる。ヨトタマヒメは山幸彦(火遠理命/ほおりのみこと)と結婚してウガヤフキアエズを産み、妹のタマヨリヒメに育てるように命じる。
 タマヨリヒメは、その育てた姉の息子であるウガヤフキアエズと結婚し、神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれひこ)を産む(末っ子)。これが初代天皇の神武天皇となる。

 問題は、もともとは海の神である綿津見命(ワタツミ)を祀っていたはずなのに、いつどこで何故それがタマヨリヒメになったか、ということだ。
 八幡社から綿神社に改名したのは、延喜式神名帳にある綿神社に合わせてのことで、それなら普通にワタツミでよかったはずだ。タマヨリヒメになったのは、それ以前ということだろうか。
 考えられるとすれば、八幡社として祀っていた応神天皇と神功皇后にあわせる形でタマヨリヒメにしたということだ。八幡宮では比売神(ひめがみ)を一緒に祀るところがあり、それも主祭神に対する巫女的な存在だから、ワタツミ関係の神としてタマヨリヒメを持ってきたということは考えられる。
 いろいろなことを考え合わせてもそう簡単に結論が出るわけではないとはいえ、はるばる北九州の志賀島からやってきた安曇族が故郷の志賀という名前を付けて自分たちの神であるワタツミを祀ったのが綿神社なのだ、という説明に、へえ、そうなんだ、と無条件に納得するわけにはいかなかった。
 先ほど書いたように、安曇族が暮らしていたにしては痕跡が少なすぎるのだ。この地を一時的にも拠点にしたというのであれば、もっと綿津見神社があってもいいし、関係の地名が残っていそうなものだ。綿神社と志賀という地名だけで簡単に安曇族と結びつけていいものなのかどうか。
 想像をたくましくするならば、入り海を挟んだ対岸にあった巨大集落の存在に落ち着かなさを感じて、更に北へ移動していったのかもしれない。信州の穂高などに。
 安曇野という地名が示すように穂高もまた安曇族の痕跡が残る土地だ。穂高神社(ほたかじんじゃ)の主祭神は穂高見命(ほたかみのみこと)で、ワタツミ(綿津見命)の子とされる。
 左右には綿津見命と瓊々杵命(ニニギ)が祀られる。

 戦国時代、神社の近くに織田家重臣、平手政秀の邸があった。現在、志賀公園となっている場所だ。
 政秀はすっかり荒廃していた綿神社を見かねて社殿を再建するとともに神領を与え、鏡と手彫りの狛犬を奉納したという。
 八幡社と改めたのはこのときとされる。
 平手政秀は織田信秀に仕え、息子・信長の守り役を任されていた。しかし、信長の素行があまりにもひどいものだから、綿八幡社に何度も祈願に訪れたという。
 それでも信長の行状はいっこうによくならず、最後はいさめるために切腹して果て、知らせを受けた信長は馬で駆けつけ、枕元で号泣し、以降すっかり人が変わったように真面目になった、というのが美談として語られることが多いけど、実は政秀の切腹は信長と揉めたことが原因で、政秀亡きあとも信長は何も変わらず暴れん坊のままだったという。
 とはいえ、のちに改心して天下統一を目指したことは確かで、信長も戦勝祈願として綿八幡に槍先などを奉納したと伝わっている。
 尾張徳川家もこの神社を大切にして、代々の藩主も参拝した。
 明治5年(1872年)、郷社に列する。
 第二次大戦の空襲(昭和20年)で社殿は焼失。
 戦後の昭和45年(1970年)再建。 

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

綿神社と別小江神社のはしご

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