境内の石碑に「知多開運講名和教會」とあるから、知多の御嶽講社のようだ。ただし、住所は緑区大高町三番割となっており、ここだけ不自然に出っ張って名古屋市内に組み込まれている。名和教会の名が示す通り、ほとんど東海市名和町のエリアだ。 三番割というのは大高村の志水家が干拓によって開発した込高新田(こみだかしんでん)の番割のことをいう。一番割から三番割りまであり、地名として現在まで残った。 この場所が込高新田の内なのか名和村のはずれなのか、非常に微妙なところで、今昔マップの明治20年代の地図を見ても判断がつかない。 知多開運講については情報がなく、何も分からない。 地図上の表記は神道御嶽名和教会になっている。
御嶽山に対する信仰は古く、奈良時代に国司の信濃守石川望足が国常立尊と大巳貴命、少彦名命を御嶽山に祀ったことに始まるとされる。 その後、道者たちが御嶽山に登るようになり、修験の道場となっていった。 御嶽山が一般庶民に開かれたのは江戸時代中期のことだ。春日井市牛山出身とされる覚明行者が天明5年(1785年)に無許可のまま信者たちと登り、翌天明6年に黒沢口の登山道を整備して一般に開かれることになった。 明治の神仏分離令を受け、1882年(明治15年)、江戸浅草の下山応助(しもやまおうすけ)が御嶽講社を組織して教派神道13派のひとつとなった。 ただし、下山応助は教団独立前に行方不明となり、代わって平山省斎が初代管長となる。 その後、全国各地に多くの講社が作られ、御嶽教も分裂したりして、その実態はやや複雑なものとなっている。 名古屋や周辺に多いのが木曽御嶽本教で、それ以外にも御嶽教や御嶽山大教などがある。
入り口に鳥居はなく、石柱には「大日大聖不動明王」とあり、「重開霊神」、「嘉雲良瑞沙彌」と刻まれた石碑がある。 堂の向かって左には稲荷鳥居があり、中には豊川稲荷大明神が祀られている。 向かって右手が本殿に当たるようで、御嶽神社となっている。
名和(なわ)の地名の由来についてこんな話がある。 ヤマトタケルが東征の途中で知多の海岸に上陸したとき、舟を近くにあった松に縄でつないだから「なわ」という地名になったというものだ。 舟を着けた場所は後に船津と呼ばれるようになったともいう。その場所には船津神社(地図)が建っている。 それとは別に、波沫(なみあわ)が縮まったという説もある。 古い地名の表記として縄郷とあることから、古くから「なわ」と呼ばれていたことは確かなようだ。 そのあたりのことはいずれ市外編の船津神社のところで書きたいと思う。
神社のある場所は海抜マイナス1メートルで、すぐ北はマイナス3メートルからマイナス4メートルとなっており、南の緑陽小学校が海抜3メートル、その南のカブト山史跡公園が海抜19メートルなので、名和町北部はかつて海の底だったことが分かる。 大高から氷上姉子神社(地図)にかけては小山が連続してあり、かつての海岸線に沿って古墳が築かれた。遺跡なども見つかっており、海岸近くに古くから人が暮らしていたことが分かっている。
御嶽教や講社については中川区柳川町の御嶽教東福寿教会や名東区の御嶽神社(高針)にまとめたので、そちらを参照していただければと思う。
作成日 2018.4.22(最終更新日 2019.4.2)
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