神明社(赤塚)

ひょっとすると歴史を秘めた古社かもしれない

赤塚神明社

読み方 しんめい-しゃ(あかつか)
所在地 名古屋市東区徳川2丁目1-1 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 郷社・六等級
祭神 天照大御神(あまてらすおおみかみ)
アクセス 名鉄瀬戸線「森下駅」から徒歩約13分
駐車場 あり(無料/西側入り口前に1台分)
webサイト 公式サイト
オススメ度

 赤塚交差点の角にあるので赤塚神明社と呼ばれている。東の山口町の氏神でもあるため、山口神明社ともいう。現在の住所でいうと、徳川2丁目だ。
『愛知縣神社名鑑』はこう書く。
「社伝に、元和二年(1616)、赤塚山口村の人々伊勢の大神を奉斎して近郷一帯の総氏神として崇敬する」
 これは1616年に創建されたということではなく、1616年に山口村の人たちが相談して伊勢の大神を祀って氏神としたという意味だ。つまり、それまではアマテラスを祀る神明社ではなかったということになる。更にいえば、名古屋城築城以前からあった神社ということでもある。
 何故、それまでの祭神をそのまま祀らず伊勢の大神を祀ることにしたのか。考えられるとすれば、その祭神が何らかの理由で都合がよくなかったか、祭神が分からなくなっていたかではないだろうか。
 名古屋城の築城は1610年に始まり、清洲からの清洲越しは1612年頃から1616年にかけて行われた。名古屋城南の三の丸には家老や重臣の屋敷が建ち並び、東側には中下級武士の邸宅が建てられた。清洲から越してきた寺は東と南に集められ、それぞれ東寺町、南寺町と呼ばれた。
 1616年当時の山口町のあたりはまだ民家もほとんどないような原野だったという。ただ、後に下街道と呼ばれることになる道が南北に通っており、この道沿いに赤塚の神明社は建っていた。この道はヤマトタケルが東征からの帰り道に通ったという伝説があるくらい古い道だ。
 赤塚は清洲から移ってきた紙商人の榎屋太平が住んだことから町屋が形成されたという。おそらく、この神社を新しい町の氏神にしようとなったのはその頃のことだと思われる。
 赤塚の町名の由来は、鉄砲の稽古をするための射的場として赤土の塚を作ったためという。
 江戸時代になると中山道と名古屋城の城下をつなぐ下街道が整備され、赤塚神明社の前あたりに城下の出入り口となる大木戸が置かれた。
 山口町の由来は、西の那古野山の入り口というところから来ているようだ。

『尾張志』にはこうある。
「神明社 赤塚町にあり天照大御神を祭る鎮座の年月知れすもとは此地を神明原といへり寛永五年承応二年寛文十一年元禄二年なとに修造遷宮あり 摂社 山神社 八幡社 天神社 例祭 正月十六日五月十六日神楽執行す又九月十五日夜試楽執行す 神主 従五位下近藤備前守藤原孝久」

 神明原というくらいだから、文字通り原っぱだったのだろう。
 江戸時代以降の経緯については『愛知縣神社名鑑』が詳しい。
「寛永五年(1628)社殿を再建続いて承応二年(1653)寛文十一年(1671)元禄十二年(1698)弘化三年(1846)にそれぞれ造営された。明治5年、村社に列し、明治12年7月28日郷社に昇格、明治40年10月26日、指定社となる。昭和25年2月1日、道路拡巾により境内地縮小となり、社殿を造営、社務所などを移築同年10月14日、遷座祭を行った。昭和40年10月10日、六級社に昇級する。昭和53年10月16日、再建三百五十年記念祭を執行した」

 1628年(寛永5年)の再建がかなり大がかりなものだったようで、このとき神社としての体裁が整えられたという。
 江戸期の前半に再建や修造が頻繁に行われているのは、尾張藩二代藩主の光友によるかもしれない。
 1650年、父の義直の死去を受けて2代藩主となり、翌1651年に父の菩提を弔うために建中寺を建立。これが代々の尾張藩主の菩提寺となる。
 1685年には熱田社の造営を行い、1689年には名古屋城鬼門鎮護だった大曽根の山神社を赤塚神明社の社家に管理するように命じた(1851年に慶勝の命で神明社に移された)。
 1693年に隠居して家督を嫡男の綱義(綱誠)に譲って自分は大曽根に隠居屋敷を建ててそちらに移った。現在の徳川園は光友隠居屋敷の跡地に作られたものだ。
 光友は1700年に76で死去した。
 幕末の1867年(慶応3年)には尾張藩の儒学者、国枝松宇を中心とした勤王の志士たちが境内に楠木正成を祀る湊川神社を建てた。
 楠木正成といえば、後醍醐天皇の挙兵に応じて足利尊氏らとともに鎌倉幕府打倒に貢献し、足利尊氏が後醍醐天皇を見限って離れた後も最後まで後醍醐天皇側で戦ったことからかつては忠臣としてもてはやされた武将だ。幕末の尊皇攘夷思想の中で持ち上げられ、明治になっても大楠公(だいなんこう)と称され、兵庫県の湊川神社などでも祀られている。明治13年(1880年)には最高位の正一位を追贈されているくらいで、第二次大戦中も再びヒーローとして蘇っていた。戦後はほとんど忘れられたような存在になっている。
 神明社には今も馬に乗った楠木正成像があり、湊川神社に祀られている。
 湊川は楠木正成が足利尊氏と戦って敗れて自害した場所だ。
 戦時中の昭和20年(1945年)に空襲により社殿のほとんどを焼失している。
 昭和25年(1950年)に再建されるも、国道19号線の拡張により境内は3分の1になった。
 平成19年(2007年)には火事で本殿を焼失。
 翌平成20年(2008年)に再建されて現在に至る。

 赤塚神明社では湯立神事や茅輪くぐりといった特殊神事が行われている。
 湯立神事というのは、大釜に湯を沸かして巫女などが笹を熱湯を浸してそれを振りかけ祓禊をするといったものだ。古くは巫女が神懸かりになって占いや託宣をしたとされる。
 茅輪くぐりはスサノオに由来する故事から来た神事だ。
 ある男(武塔神)が旅の途中で宿となる家を探していて裕福な暮らしをする巨旦将来 (こたんしょうらい)に今夜泊めて欲しいと頼むと断られ、貧しい暮らしをする兄の蘇民将来(そみんしょうらい)に頼むと快く承諾して暖かくもてなしてくれた。実はその男の正体はスサノオで、何年か後に再び蘇民将来のもとを訪れ、悪い病気が流行ったら茅で輪を作って腰につければ病気にならないと教え、それを守った蘇民将来は助かり、巨旦将来は命を落としたという話だ。
 それが伝わり、「蘇民将来」と書いた紙を門に貼っておくと災いを逃れられるという信仰が生まれ、江戸時代に入って茅の輪をくぐって厄払いをする神事になっていった。
 赤塚神明社でいつ頃からこれらの神事が始まっていたかによって話が違ってくるのだけど、もし名古屋城築城以前からのものだとすれば、この神社はもともとスサノオに関係する神社だった可能性がある。江戸時代以降に名古屋城下で流行したものを真似ただけならそうではないかもしれない。

 そもそも、いつ誰がこの神社を建てたのかが問題だ。古いといっても鎌倉以降なのか、平安以前なのかによって全然違ってくる。
 ここは名古屋台地の北の縁に近い場所で、近くには式内社とされる片山神社がある。式内片山神社は本当は片山八幡神社ではないかという話もあるけど、名古屋台地北部には意外に古い神社が多い。
 後に名古屋城が建つことになる場所には若宮や天王があり、若宮は後に城外に移され若宮八幡社となり、天王は現在那古野神社となっているのだけど、若宮は飛鳥時代後期の700年頃、天王は平安時代中期の911年頃の創建とされる。赤塚の南には式内社とされる高牟神社物部神社もある。
 赤塚の神明社がもとは神明社ではなかったとして、どんな神を祀る神社だったのか。
 名古屋台地北部の神社は名古屋城下に上書きされて古い歴史が分かりづらくなってしまっているのだけど、尾張氏の直接的な支配といったものは感じられない。千種のあたりは物部郷と呼ばれており、物部の一族がいた可能性がある。ただし、味鋺や味美のように大きな古墳がないことからすると小規模な集団だっただろうか。
 千種区車道の物部神社は、個人的には『延喜式』神名帳にある愛智郡物部神社ではないのではないかと思っている。高牟神社も物部の武器庫があったところに建てたという説を信じていない。
 車道の物部神社には大石があって江戸時代までは石神社や石神堂などと呼ばれていた。この大石には伝説があって、神武(神日本磐余彦尊)が東征したときにこの地の賊を平定し、ここにあった石を要石として祀ったというのだ。
 神武が九州を出て大和を治めるために行ってみると、すでに大和には天孫族のニギハヤヒ(饒速日命)がいたという。ニギハヤヒは地元豪族のナガスネヒコ(長髄彦)と結んで、妹の三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)と結婚してウマシマジ(宇摩志麻遅命/可美真手命)が生まれていた。これが物部氏の祖とされる。
 神武はナガスネヒコに国を譲るように迫るもナガスネヒコは断り、ニギハヤヒは何故か神武の側についてナガスネヒコを殺したという。
先代旧事本紀』では、ニギハヤヒの正式名を天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)としている。本来の天照神は女神のアマテラスではなく男神のアマテルことニギハヤヒのことではないかとする考えがある。
 また、天火明とあることから尾張氏の祖とされる天火明(アメノホアカリ)はニギハヤヒのことだともいう。アメノホアカリは尾張国一宮の真清田神社や守山区東谷山山頂の尾張戸神社などで祀られている。
 苦労の末に大和を手に入れた神武は橿原宮で即位し、初代の天皇(大王)となったとされる。
 その一方で建国に貢献したニギハヤヒの息子のウマシマジは大和を去って石見国(島根県)に移ったという。石見国一宮の物部神社(web)がある場所だ。
 その後、物部一族は各地に散らばるとともに中央でも有力な氏族になっていく。飛鳥時代に政争で蘇我一族に敗れて没落するまでは最大の有力豪族のひとつとして君臨していた。
 587年に起きた丁未の乱(ていびのらん)で物部守屋が蘇我馬子らに負けて滅ぼされたのも象徴的な出来事だった。
 ただし、物部守屋は物部本家ではないという説もあり、これで完全に物部一族が滅んだわけではなかった。石上神宮の神官の石上家としても残ったし、石上麻呂(物部麻呂)などは天武天皇のときに左大臣まで上り詰めている。
 710年に都が平城京に移されたとき、石上麻呂は旧都の留守役を任じられ、717年に78歳で没した。命じたのが藤原不比等と持統天皇だったとすれば、物部にとどめを刺したのが藤原氏(中臣)だったという言い方ができるかもしれない。

 何故急に物部の話を書いたかというと、もしかしたら赤塚神明社は物部関連の神社として創祀されたのではないかとふと思ったからだ。
 江戸時代初期に伊勢の大神を氏神としたのは、天照神を祀るという古い言い伝えがあったからではないかと思ったのと、スサノオに由来する茅輪くぐり神事が行われているということからそんな想像をしたのだった。
 千種区車道の物部神社が式内の物部神社ではないとすると、この神社が物部神社でもおかしくない。
 それはあまりにも飛躍が過ぎて真実味がないのだけど、名古屋市内の式内論社は一度すべて解体して考え直す必要があると思っている。場合によってはシャッフルもあるのではないか。
 そんな空想も楽しませてくれるのが赤塚神明社のような気がしている。物部どうこうは抜きにしても、何か秘められた歴史がある神社ではないだろうか。

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