新栄白山神社

街中に残された古墳の上に建つ古い白山社

新栄白山神社

読み方 しんさかえ-はくさん-じんじゃ
所在地 名古屋市中区新栄三丁目27番24号 地図
創建年 伝712年(奈良時代初期)
社格等 郷社・八等級
祭神

菊理姫命(くくりひめのみこと)
伊弉諾命(いざなぎのみこと)
伊弉冊命(いざなみのみこと)

 アクセス

・地下鉄東山線「新栄町駅」から徒歩約14分
・JR中央本線「千種駅」から徒歩約20分
・駐車場 あり(無料)

webサイト  
オススメ度

『愛知縣神社名鑑』では、「創建は古く和銅五年(712年)加賀国白山に登拝の衆徒が神璽を拝戴し、この地の山稜に社殿を設け奉斎す」としている。
 神璽(しんじ)は三種の神器のことをいうのだけど、この場合は御神璽(おみたま)を分霊したとか、御神札をいただいてきたといった意味だろう。
 けど、712年というのはちょっと信じられない。
 白山に初めて登頂したのは、越前の修験僧・泰澄(たいちょう)で、それは716年とされている。その後、白山の上に奥宮が創建されたのは718年だ。
 一方、白山を御神体として山の麓(ふもと)に建つ白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)も社殿創建は716年としている。
 白山に対する崇敬や信仰といったものはもっと古くからあっただろうけど、712年にこのあたりに住んでいた人たちが集団で白山に登って白山の神を分霊してもらったというのはおかしくないか。ただ、716年に白山が開かれたというのは知っているはずで、その上でこの白山神社の創建を712年としているということは確かな根拠があるということだろうか。
『尾張志』では違うことが書かれている。
「東寺町にあり勧請の年月しられす功徳山圓教寺社務を掌る當寺は古く白山玄海寺といひしを貞享二年今の寺号に改む」
 東寺町は、名古屋城築城の際に家康が命じて西と東と南に寺が集まる区画を作ったうちのひとつで、新栄のあたりは東寺町に当たる。圓教寺(地図)は今でも残っていて、白山神社とは道を隔てた北側にある。
 江戸後期に『尾張志』を編さんした人たちの間では、ここはもともと仏教系の白山で、寺が管理していたという認識だったようだ。
 清洲の白山宮を移して合祀したということと、神社が古墳の上にあることにも触れている。
『尾張名所図会』ではまた違っている。
「白山権現社 駿河町通の東、小山の上にあり。此辺の生出神(うぶすながみ)なるゆえ、本社拝殿美を尽くせり」
 駿河町通というのはのちの飯田街道のことで、ここから西の高岳の南に駿河町街園という小さな公園に名残をとどめている。
 これらの話のうち、どれが一体本当なのか、なんとも判断がつかない。
 確かなことは、清洲からも白山宮を勧請して合祀しているということだ。
 尾張徳川初代藩主の義直は、1610年の名古屋城築城の際に、この神社を訪れて完成を祈願している。
 翌1611年に、無事完成したことに報いるため、従三位白山妙理大権現の称号を贈っている。
 同じ年、清洲の朝日郷にあった白山宮をこの地に移して合霊した。
『尾張名所図会』に「例祭六月九日。神楽(かぐら)ありて、町々の献燈山上まですき間なく、昼をあざむき、殊に群衆せり」とあり、往事の隆盛を思わせる。

 社殿は白山神社古墳と名付けられた前方後円墳の上に乗っている。
 実際、神社を訪れると分かるのだけど、南から行っても北から行っても、けっこう坂を上ることになる。小山と呼ぶのがふさわしいくらいの盛り上がりを保っている。社殿があるのは後円部の上だ。
 平成19年に名古屋市教育委員会が試掘調査を行っている。そのとき、円筒埴輪が見つかった他、初めて周濠の存在が明らかとなった。
 墳丘の全長は80メートル前後、周濠も含めると120メートルになるという大型の前方後円墳だ。出土した埴輪の特徴から、築造されたのは5世紀中頃と推定される。
 周辺の古墳を見てみると、まずは南1.4キロに八幡山古墳がある。直径約82メートルという東海地方最大級の円墳だ。この八幡山古墳が同じく5世紀中頃と考えられている。
 それにやや遅れて造られたとされる那古野山古墳は西南2キロほどのところにある。大部分が破壊されて詳しいことは分かっていないものの、前方後円墳と思われる。
 その近くにある大須二子山古墳は6世紀前半とされる100メートル級の大型前方後円墳で、富士浅間神社古墳とともに大須古墳群を形成している。
 名古屋最大の古墳が熱田にある断夫山古墳(だんぷさんこふん/151メートル)で、6世紀初め頃に築造されたと考えられている。
 これらの位置関係と築造時期を考え合わせると、白山神社古墳もおそらく尾張氏にゆかりの深い人物の墳墓ということになるだろう。
 ただ、位置的にやや微妙で、少し東へ行った千種区の古井には高牟神社物部神社があり、この時期の尾張氏と尾張物部氏の関係性次第では物部氏の誰かの墳墓という可能性がなくはない。逆に言うと、尾張物部氏が古井村あたりを拠点にしていたというなら古墳のひとつも残っていないのはおかしいということになるから、これは物部氏の墓という方が話のつじつまが合うとも言える。

 それにしても、何故、昔の人は古墳の上に白山社を建てたのか。名古屋市内には古墳の上に建てられた白山社がいくつもある。古墳を山に見立てたということなのか、死者と白山の神との組み合わせに何か特別なものがあると考えていたのか。
 白山神社ではククリヒメ(菊理姫命)を主祭神として、イザナギ(伊弉諾命)、イザナミ(伊弉冊命)を祀るところが多い。加賀国一宮で白山社総本社の白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)では、主祭神の白山比咩大神をククリヒメのこととしている。
 ククリヒメは『古事記』や『日本書紀』の本文には登場せず、『日本書紀』の一書(あるふみ/異伝)に一度だけ出てくる。
 神産みのとき、火の神カグツチを産んで火傷を負ったイザナミは命を落とし、死んだイザナミに会うためイザナギは黄泉の国を訪れる。しかし、会ってみるとあまりにも変わり果てたイザナミの姿におびえ、イザナギは逃げ出してしまう。追いかけるイザナミ。黄泉比良坂で追いつかれ、ふたりは口論になる。
 そこに泉守道者が現れて、一緒に帰ることはできないというイザナミの言葉をイザナギに伝え、その場に現れたククリヒメがイザナギに何かを言うと、イザナギはそれを褒め、帰っていった。
 ククリヒメが何を言ったかは書かれておらず、ククリヒメがどういう神かの説明もない。
 そんなククリヒメがいつどういう経緯で白山の神とされることになったのかは、分かっていない。
 イザナギとイザナミの仲を取りなしたということで、生者と死者との間を取り持つ神と考えられるようになったことが白山の神となった理由だろうか。
 死者が眠る古墳の上にククリヒメを祀る白山社を建てたのも、そういう理由だったのかもしれない。だとすれば、ククリヒメは神の意志を人に伝え、人の願いを神に伝える巫女的な存在と考えられていたのだろう。
 白山社の創建が700年代という早い時期だったとすれば、古墳に眠る人物と創建した人間は親しい関係にあった可能性もある。400年代半ばと700年代前半、その間に流れた250年という年月は、当時の人たちにとってどれくらいの長さだったのだろう。

 白山神社がある新栄三丁目は、かつて菊里町という地名だった。これは白山社に祀られたククリヒメ(菊理姫)が由来となっている。
 明治29年(1896年)に創立した名古屋高等女学校はこの地にあり、その後、男女共学となり菊里高校になった。星ヶ丘に移ったあとも菊里高校として続いている。
 その他、白山町や宮前町、白山中学なども、この白山神社から名付けられた。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

中区新栄の白山神社は前方後円墳の上にある

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