江戸時代までは「おからねこ」と呼ばれる猫の神社だった。明治の終わりになって突然、うちは猫の神社じゃない、おからねこは言い間違いで、本当はおおただねこ(大直禰子)を祀る由緒正しい神社なのだと言い出した人がいて、周りもそうそうだ、そうに違いないと賛同して、大直禰子神社となった。それにはやむにやまれぬ事情があった。
おからねこの由来についてはいくつかの説がある。その代表的なもので後の元ネタになっているのが猿猴庵(えんこうあん/高力種信)が名古屋城下の名所旧跡を絵とともに紹介した『尾張名陽図会』の中で書いたことだ。 それによると、昔、鏡の御堂という荒れたお堂に、狛犬(こまいぬ)を載せた三方(さんぽう)があって、人々は「からねこ」と呼んでおり、いつしか「おからねこ」と称されるようになったという。 そのお堂はもうなくなってしまって、狛犬の頭もどこへ行ったか分からず、近くに榎(えのき)の大木があって根っこだけが残り、これを「空根子(からねこ)」と呼んだのが「おからねこ」に転じたという説もあるとしている。 これとは別の説が、石橋庵真酔(いしばしあんますい)が『作物志』の中で「異獣」と題して書いたものだ。 このあたりに巨大な化け物のような生きものがいて、その大きさは牛や馬を束ねたくらいあって、まったく吠えず、動かず、背中には草木が生えている。人々はそれを恐れつつ、何か神がかったようなものを感じ、姿が猫に似ていることから「おからねこ(御空猫)」と呼んだという話だ。 祈願をしてみたところ願いが叶ったので、おからを供えたなどという話もある。 石橋庵真酔は江戸時代後期の戯作者(げさくしゃ)なので、おからねこから話を作ったのだろう。 猿猴庵は尾張藩士で、好奇心旺盛で記録魔のような人だった。絵も上手かったため、『尾張名陽図会』も絵入りで名所旧跡を紹介している。 『尾張名陽図会』は文政年間(1818年-1830年)に書かれたもので、のちの『尾張名所図会』(1844年)にも大きな影響を与えたと考えられる。範囲は名古屋城下に限定されるとはいえ、猿猴庵はあちこち出歩いて調べ、人に話を聞き、紹介文を書き、挿絵まで全部ひとりでやった。
こんな面白い話があるのに、『尾張志』(1844年)や『尾張名所図会』はこの話を載せていない。取るに足らない民間の俗説程度と判断したのか、たまたま収録漏れしたのかは分からない。 ただ、「おからねこ」という名称が存在していたことが確かで、『尾張志』の長松院の項で「前津のうちおから猫にありて」という一文が見えるのがそのひとつの証だ。 現在も丸太町交差点南西に建っている道標(地図)にも「西 矢場地蔵 おからねこみち」と刻まれている(東 天道 八事みち 南 さん王 すみよし あつた道 西 矢場地蔵 おからねこ道 北 法花寺町 大曽根道 )。 江戸期から明治にかけて、おからねこは確かにあった。しかしそれは神社だったかというとちょっと違ったかもしれない。 から猫の「から」は「唐」から来ているとも考えられる。唐は朝鮮半島にあったとされる加羅から転じたというのが一般的な説だけど、後に朝鮮半島や中国など、広く外国を指す言葉として使われるようになる。唐物といえば外国産といったようなことだ。 唐獅子(からじし)というのは中国から入ってきた獅子のことで、もとを辿ればライオンのことだ。 狛犬はもともと高麗犬とも書き、高麗(こうらい)は朝鮮半島にあった国をいう。これも古代インドのライオン像をルーツとする。 ライオンのいない日本では獅子を犬に見立てて狛犬と名付けた。 ちなみに、狛犬は正確には口を開けている方が獅子で、口を閉じている方が狛犬とされる。 獅子舞の起源は諸説あるも、あれもやはり外国から入ってきたものといわれている。 狛犬が神社の守り神とされるのは平安時代以降とされる。 獅子舞の始まりは16世紀というから、だいぶ後のことだ。 それらとは別に獅子頭を奉納することもあった。中にはそれを祀ったところもあっただろう。 おからねこの始まりは、こういった獅子頭を納めたことに始まったのかもしれない。それが外国の猫のように見えたことから「唐猫(からねこ)」と呼ばれた可能性はある。
猫の神社という認識が定着したのがいつなのかは分からない。江戸時代には違いないとしても、前期なのか中期なのか後期なのか。 いなくなった迷子の猫が見つかりますようにと願掛けをして、見つかったらお礼におからを供えるなどということもあったようだ。中には猫を捨てていく人間もいたらしい。 現代なら猫神社という評判が立って大勢人がやって来たら喜ぶところだろうけど、昔はそうではなかったようだ。むしろ困ることの方が多かっただろうか。 明治の神仏分離令を受けて、おからねこは於加良根子神社として生き残ることに成功した。祭神をスクナヒコナ(少彦名)としたという話もある。スクナヒコナは少日子根とも表記するから、根つながりだったかもしれない。 それを明治42年になって急に猫を否定して大直禰子を祀るとしたのは、神社合祀政策でつぶされそうになったからではないだろうか。 明治39年の勅命によって、全国の無格社の神社が合祀の名のもとに大量に廃社に追い込まれた。於加良根子神社が猫の神社などと知られたら取りつぶされることは目に見ている。 ここで登場するのが若原敬経という人物だ。明治41年に『宿曜経占真伝』という本を出した人で、密教占星術の経典である「宿曜経」についての著作らしく、一部では知られているそうだけど私はよく知らない。 誰のどういうツテで若原敬経に話を持っていったのかは分からないのだけど、「おからねこ」を大直禰子としたのはこの人物だったようだ。 幸いなことに近くに三輪神社(地図)があった。三輪神社といえば総本社は奈良にある大神神社(web)で、大直禰子(大田田根子)はそこで祀られている神だ。 崇神天皇の時代に災害や疫病が流行り、崇神天皇の夢枕にオオモノヌシ(大物主)が現れ、我の子孫を探して祀れば収まると告げたため、大田田根子を探し出して大神神社の神主にしたところ疫病は収まったという。 すぐそばに三輪神社があることを見つけた若原敬経は、これだとガッツポーズをするような気分だったかもしれない。 おからねこ=おおただねこ、いけなくはない。いや、いける! と。 単にこれまで訛っていただけだと言い張った。氏子たちもみな、その説に納得して賛同したという。それはそうだろう、つぶされるかどうかの瀬戸際となれば細かいことは言っていられない。
おからねこはもともと、現在の大須春日神社(地図)の東にあった。長松院も同じ場所に隣接していた。 昭和に入って地下鉄工事を行う際、大直禰子神社は少し北へ、長松院は東の現在地(地図)にそれぞれ移された。 『愛知縣神社名鑑』はそのあたりについてこう書いている。 「昔から”おからねこ”と称した。『若原経敬』の云うに”於加良祢古命”の名を誤り、奈良の春日、三輪、大直祢この三社と一社なりと正す、明治初年以来、於加良根子神社であったのを明治42年4月、今の社名に改めた。大正2年1月、春日神社の末社となるも戦後分離した」 ここでいう大直祢というのは大神神社の摂社・大直禰子神社のことで、大直禰子命(大田田根子)を祀っている。 近くに三輪神社と春日神社があったのは偶然だったのか必然だったのか。若原敬経は本気で「おからねこ」のことを大直禰子と信じたのかもしれない。 大正2年に春日神社の末社となって、戦後に分離したという経緯だったようだ。
神社側の努力にもかかわらず、大直禰子神社は今も地元民からはおからねこや猫神社などと呼ばれている。うちは猫とは関係ありませんとわざわざ境内の説明書きにはあるのだけど。 ただ、猫否定が功を奏しているのか、一般的に名古屋でも大直禰子神社は猫神社として認識されていない。私も行くまで知らなかった。 今後、何かのきっかけで知られてネットで広まったりすると、全国から猫好きが大挙して押し寄せるなんて事態もなくはない。商売気のある神社ならとっくにそうしているところだ。していないところをみると、やはり猫で売り出す気はないようだ。 大須には大きな招き猫の像があるし、商売の街大須としては猫との相性はいいはずだ。もっと猫を前面に押し出していってもいいのではないか。 猫の後釜に据えられた大田田根子さんはずいぶん戸惑っただろうけど、もうこの街に馴染んでくれただろうか。
作成日 2017.6.26(最終更新日 2019.3.6)
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