大直禰子神社

猫の神社ではないと言い張るおからねこ神社

大直禰子神社

読み方 おおただねこ-じんじゃ
所在地 名古屋市中区大須4-11-20 地図
創建年 不明
社格等 十五等級
祭神

大直禰子命(おおただねこのみこと)

 アクセス

・地下鉄鶴舞線/名城線「上前津駅」12番出口を出てすぐ
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 江戸時代までここは「おからねこ」と呼ばれる猫の神社だった。明治の終わりになって突然、うちは猫の神社じゃない、おからねこは言い間違いで、本当はおおただねこ(大直禰子)を祀る由緒正しい神社なのだと言い出した人がいて、周りもそうそうだ、そうに違いないと賛同して、大直禰子神社となった。それにはやむにやまれぬ事情があった。

 おからねこの由来についてはいくつかの説がある。その代表的なもので後の元ネタになっているのが猿猴庵(えんこうあん/高力種信)が名古屋城下の名所旧跡を絵とともに紹介した『尾張名陽図会』の中で書いたものだ。
 それによると、昔、鏡の御堂という荒れたお堂に、狛犬(こまいぬ)を載せた三方(さんぽう)があって、人々は「からねこ」と呼んでおり、いつしか「おからねこ」と称されるようになったという。
 一方、そのお堂はもうなくなってしまって、狛犬の頭もどこへ行ったか分からず、近くに榎(えのき)の大木があって根っこだけが残り、これを「空根子(からねこ)」と呼んだのが「おからねこ」に転じたという説もあるとしている。
 これとは別の説が、石橋庵真酔(いしばしあんますい)が『作物志』の中で「異獣」と題して書いたものだ。
 このあたりに巨大な化け物のような生きものがいて、その大きさは牛や馬を束ねたくらいあって、まったく吠えず、動かず、背中には草木が生えている。人々はそれを恐れつつ、何か神がかったようなものを感じ、姿が猫に似ていることから「おからねこ(御空猫)」と呼んだという話だ。
 祈願をしてみたところ願いが叶ったので、おからを供えたなどという話もある。
 石橋庵真酔は江戸時代後期の戯作者(げさくしゃ)なので、おからねこから話を作ったのだろう。
  猿猴庵は尾張藩士で、好奇心旺盛で記録魔のような人物だった。絵も上手かったため、『尾張名陽図会』も絵入りで名所旧跡を紹介している。
『尾張名陽図会』は文政年間(1818年-1830年)に書かれたものとされていて、のちの『尾張名所図会』にも大きな影響を与えたと考えられる。範囲は名古屋城下に限定されるとはいえ、猿猴庵はあちこち出歩き、ひとりで調べ、話を聞き、ひとりで紹介文を書き、挿絵まで全部ひとりでやった。

 こんな面白い話があるのに、『尾張志』や『尾張名所図会』はこの話を載せていない。取るに足らない民間の俗説程度と判断したのか、たまたま収録漏れしたのかは分からない。
 ただ、「おからねこ」という名称が存在していたことが確かで、『尾張志』の長松院の項で「前津のうちおから猫にありて」という一文が見えるのがそのひとつの証だ。
 現在も丸太町交差点南西に建っている道標(地図)にも「西 矢場地蔵 おからねこみち」と刻まれている(東 天道 八事みち 南 さん王 すみよし あつた道 西 矢場地蔵 おからねこ道 北 法花寺町 大曽根道 )。
 江戸期から明治にかけて、おからねこは確かにあった。しかしそれは神社だったかというとちょっと違ったかもしれない。
 から猫の「から」は「唐」から来ているのだろう。唐は朝鮮半島にあったとされる加羅から転じたというのが一般的な説だけど、後に朝鮮半島や中国など、広く外国を指す言葉として使われるようになる。唐物といえば外国産といったようなことだ。
 唐獅子(からじし)というのは中国から入ってきた獅子のことで、もとを辿ればライオンのことだ。
 狛犬はもともと高麗犬とも書き、高麗(こうらい)は朝鮮半島にあった国をいう。これも古代インドのライオン像をルーツとする。
 ライオンのいない日本では獅子を犬に見立てて狛犬と名付けた。
 獅子舞の起源は諸説あるも、あれもやはり外国から入ってきたものといわれている。
 狛犬が神社の守り神とされるのは平安時代以降とされる。
 獅子舞の始まりは16世紀というから、だいぶ後のことだ。
 それらとは別に獅子頭を奉納することもあった。中にはそれを祀ったところもあっただろう。
 おからねこの始まりは、こういった獅子頭を納めたことに始まったのかもしれない。それが外国の猫のように見えたことから「唐猫(からねこ)」と呼ばれた可能性はある。

 猫の神社という認識が定着したのがいつなのかは分からない。江戸時代には違いないとしても、前期なのか中期なのか後期なのか。
 いなくなった迷子の猫が見つかりますようにと願掛けをして、見つかったらお礼におからを供えるなどということもあったようだ。中には猫を捨てていく人間もいたらしい。
 現代なら猫神社という評判が立って大勢人がやって来たら喜ぶところだろうけど、昔はそうではなかったようだ。むしろ困ることの方が多かっただろうか。
 明治の神仏分離令を受けて、おからねこは於加良根子神社として生き残ることに成功した。祭神をスクナヒコナ(少彦名)としたという話もある。スクナヒコナは少日子根とも表記するから、根つながりだったかもしれない。
 それを明治42年になって急に猫を否定して大直禰子を祀るとしたのは、神社合祀政策でつぶされそうになったからではないだろうか。
 明治39年の勅命によって、全国の無格社の神社が合祀の名のもとに大量に廃社に追い込まれた。於加良根子神社が猫の神社などと知られたら取りつぶされることは目に見ている。
 ここで登場するのが若原敬経という人物だ。明治41年に『宿曜経占真伝』という本を出した人で、密教占星術の経典である「宿曜経」についての著作らしく、一部では知られているそうだけど私はよく知らない。
 誰のどういうツテで若原敬経に話を持っていったのかは分からないのだけど、「おからねこ」を大直禰子としたのはこの人物だったようだ。
 幸いにも近くには三輪神社があった(地図)。三輪神社といえば本社は奈良にある大神神社で、大直禰子(大田田根子)はそこで祀られている神だ。
 崇神天皇の時代に災害や疫病が流行り、崇神天皇の夢枕にオオモノヌシ(大物主)が現れ、われの子孫を探して祀れば収まると告げたため、大田田根子を探し当てて大神神社の神主にしたところ疫病は収まったという。
 すぐそばに三輪神社があることを見つけた若原敬経は、これだとガッツポーズをするような気分だったかもしれない。
 おからねこ=おおただねこ、いけなくはない。いや、いける! と。
 単にこれまで訛っていただけだと言い張った。氏子たちもみな、その説に納得して賛同したという。それはそうだろう、つぶされるかどうかの瀬戸際なのだ、細かいことは言っていられない。

 おからねこはもともと、現在の大須春日神社地図)の東にあった。長松院も同じ場所に隣接していた。
 昭和に入って地下鉄工事を行う際、大直禰子神社は少し北へ、長松院は東の現在地(地図)にそれぞれ移された。
 おからねこが大直禰子神社となったとき、春日神社の末社となった。名前を変えただけでは誤魔化しきれなかったからだろうか。
 春日神社の本社である春日大社も奈良にあるけど、大田田根子との関連はよく分からない。
 神社側の懸命の努力にもかかわらず、大直禰子神社は今も地元民からはおからねこや猫神社などと呼ばれている。うちは猫とは関係ありませんとわざわざ境内の説明書きにはあるのだけど。
 ただ、猫否定が功を奏しているのか、一般的に名古屋でも大直禰子神社は猫神社として認識されていない。私も行くまで知らなかった。
 今後、何かのきっかけで知られてネットで広まったりすると、全国から猫好きが大挙して押し寄せるなんて事態もなくはない。商売気のある神社ならとっくにそうしているところだ。していないところをみると、やはり猫で売り出す気はないということか。
 大須には大きな招き猫の像があるし、商売の街大須としては猫との相性はいいはずだ。もっと猫を前面に押し出していってもいいのではないか。
 猫の後釜に据えられた大田田根子さんはずいぶん戸惑っただろうけど、もうすっかりこの街に馴染んでくれただろうか。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

街に埋もれそうな猫の神社、大直禰子神社

HOME 中区

スポンサーリンク
Scroll Up