尾張出身の戦国武将を代表するひとりである加藤清正生誕地ということで、清正と絡めて紹介されることが多い八幡社なのだけど、実際のところはいつ誰がどういういきさつで創建したのかよく分からない神社だ。
中村の地は、平安時代中期(931-938年)の辞書『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』に載る愛智郡10郷のうちのひとつで、古くから集落があったのは間違いない。中村を斜めに縦断する恰好で古東海道が通っていたとされる。 戦国時代には上中村・中中村・下中村と分かれており、秀吉や清正が生まれたのは上中村とされている。現在の中村公園があるあたりだ。 上中村の氏神は元中村の八幡社春日社合殿(地図)で、下中村の氏神は押木田町の下中八幡宮(地図)だった。 秀吉が生まれたのは上中村ではなく中中村だったという説があり、秀吉の母は男子が授かるよう願掛けに日之宮神社(地図)に通ったという話も伝わっている。 ひとつの村にふたつの八幡社があってもかまわないわけだけど、この八幡社は氏神といった中心的な神社ではなかったということはいえそうだ。
『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。 「『張州府志』に八幡祠とある神社にして社伝に、加藤清正朝鮮出征に際し武運祈願のため誕生の地に奉斎した社なりと、清正境内の楠の大木を名古屋城の天守閣の棟木に用いたという。その後に植た楠数百年を経て、社頭に繁茂する。明治6年公許となる」
『尾張志』(1844年)の上中村の項を見ると、「八幡ノ社春日社相殿 上中村にあり當社を村の氏神とす弘治元年乙卯太閤秀吉公造営し給り云々」とあるだけで、中村公園内の八幡社に関する記述はない。
『尾張徇行記』(1822年)の上中村の項はこうなっている。 「八幡二社天神社界内一段六畝前々除、長円寺是ヲ掌ル 府志曰、八幡祠在上中村(後略)」 「油江天神祠在同村(後略)」 「八幡祠在同村」 最後の八幡祠が中村公園の八幡社なのだと思うけど、確信が持てない。
『寛文村々覚書』(1672年頃)はこうだ。 「社三ヶ所 内 八幡弐社 天神 長円寺持分 社内壱反六畝歩 前々除」 八幡二社のうちの一社がこの八幡社ということであれば、前々除となっていることからも江戸期以前に創建されたと考えていい。
清正がこの八幡社を建てたかといえばその可能性は低い。個人的にはないと思う。朝鮮出兵の際に生まれ故郷の地に八幡社を建てる必然はまったくないし、すでにあったとしてもここで武運長久を願う理由がない。 清正が生まれたのは1562年で、2歳のときに父を亡くし、5歳のときに母と一緒に叔父が住む津島(上河原町)に移っている。まずこの点からして中村に対してさほど思い入れがあったとも思えない。 12歳のときに秀吉の小姓となり、戦で各地を巡り、27歳のときに肥後国半国(熊本)を領して隈本(熊本)城主になった。それが1588年だ。 文禄・慶長の役は1592年だから(休戦を挟んで1598年に終結)、清正は当然熊本から出兵している。故郷の尾張に戻っている暇などない。 もしこの八幡社に清正が関わっているとすれば、小田原征伐(1590年)の帰りか、もしくは名古屋城築城の際(1610年)のどちらかだろう。 相模国からの帰路で清正は秀吉に故郷の中村に立ち寄ることをすすめて共に一泊している。その日に神社どうこうの話が出たかもしれない。 名古屋城築城では自ら天守台の工事を請け負い、わずか3ヶ月の突貫工事で完成させている。そんなときに中村まで行って神社を建てるとも思えない。 妙行寺についても清正が名古屋城築城の際、100メートルほど東にあったものを生誕地の現在地に移させたという話があるのだけど、これもありそうにない。今の妙行寺の場所が清正生誕地とはっきり分かっているわけでもない。 清正は熱心な法華経の信者ということもあって、神道よりも仏教の人だった。熊本時代はいくつかお寺を建立したという話も伝わっている。 神社に関しては修繕や寄進くらいはしたとしても、創建はしてないのではないか。
『中村区の歴史』(横地清)は、この高畑の八幡社は河原天神だったのではないかと書いている。 これはかなり大胆な仮説だ。おそらく『尾張國内神名帳』にある愛智郡川原天神のことをいっていると思うのだけど、一般的には川名の神明が『尾張國内神名帳』や『延喜式』神名帳(927年)の川原天神、川原神社のこととされている。 しかし、愛智郡川原神社に関しては異説がいくつかあるのは確かで、一説では鳴海の鳴海八幡宮が川原神社ではないかともいう。 河原天神や下中村の日の宮は秀吉が去った後になくなったという話もあり、はっきりしたことは分からない。 私としては判断がつかないので保留としたい。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、まだ中村公園はなく、上中村、中中村、下中村の集落があり、周りはすべて田畑だったことが分かる。 上中村集落の北西端にある鳥居マークは明治18年(1885年)に建てられた豊国神社だろう。このとき、八幡社を示すの鳥居マークはない。 中村公園ができたのが明治43年(1910年)のことで、1920年(大正9年)の地図では公園の中央に鳥居マークがあるから、少し場所が移されたようだ。 描かれている鉄道の線路は、名古屋土地という会社が創設した路面電車で、名古屋駅西の明治橋電停と中村公園前の公園前電停を結んでいた。 大正15年(1926年)に分社化して中村電気軌道となり、昭和11年(1936年)に名古屋市電に買収された。 1932年(昭和7年)になると周囲は宅地化され、田畑は減った。 戦中から戦後は家も増えてすっかり住宅地となった。 公園に隣接して名古屋競輪場が作られたのは昭和24年(1949年)のことだ。 1968-1973年(昭和48年)の地図に八幡社の鳥居マークが現れる。しかし、何故かその後の地図から八幡社の鳥居マークは消える。
この神社は清正が建てたわけではないけど、清正の時代からあったのだろうと思う。 境内にあった大楠を名古屋城天守の棟木に使ったという伝承は充分あり得ることだ。清正の時代に巨木になっていたというのであれば、数百年前から神社があったとも考えられる。 清正が生まれ故郷の中村にどの程度の思い入れを持っていたのかは分からない。ただ、少なくとも中村の人間は清正を誇りに思っている。清正がしていないことも清正がしたことにしてしまう気持ちも理解できる。 清正は熊本では「せいしょこさん(清正公)」と呼ばれ抜群の人気を誇っている。すっかり熊本の人となってしまった。 西南戦争で明治政府が守る熊本城を落とせなかった西郷は、おいどんは官軍に負けたんじゃなか、清正公さんに負けたのだ、とつぶやいたとか。 熊本地震では熊本城の新しい石垣は崩れて清正の石垣は被害が少なかった。 清正が築いた名古屋城天守台の上にはあらたに木造で天守が再建されることが決まったのだけど、天守台の石垣の調査保存をどうするかでモメて工事がいっこうに進まない。 今こそ清正の力がもう一度必要なときだ。清正の生まれ変わりは今頃どこで何をしているだろう。
作成日 2018.7.18(最終更新日 2019.5.14)
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