東ノ宮神社

八丁畷の歴史を伝える

東ノ宮神社

読み方 ひがしのみや-じんじゃ
所在地 名古屋市瑞穂区神穂町1丁目 地図
創建年 不明
社格等 不明
祭神

熱田大神(あつたのおおかみ)

天照大神(あまてらすおおみかみ)
素盞鳴尊(すさのおのみこと)
日本武尊(やまとたけるのみこと)
宮簀媛命(みやずひめのみこと)
建稲種命(たけいなだねのみこと)

アクセス

・地下鉄名城線「堀田駅」から徒歩約4分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 境内に「明治天皇覽穫之所」と刻まれた大きな石碑と、やや小振りの「明治天皇八町畷御野立所」とあるふたつの石碑が建っている。
 覧穫というのは収穫をご覧になったという意味だ。
 八丁畷(はっちょうなわて)はかつてのこのあたりの呼び名で、信長の時代に端を発している。
 1575年(天正三年)、信長は4人道路奉行を選んで領内の道を整備させた。
 後にその一部は東海道となり、家康は1601年(慶長6年)に伝馬制度を定める。
 街道沿いには松の木が植えられ、海から見る松並木が一筋の縄のように見え、熱田の宮の宿まで八丁(1丁(町)は約109メートル)あったことから八丁縄手と呼ばれた。後に畷の字を当てた。
 熱田から少し離れたこのあたりは広大な田んぼが広がっていたという。

 時代が江戸から明治へと移った1868年10月13日。明治天皇は初めて東京への行幸に出た。
 それに先立つ9月3日、「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」が発せられ、江戸は東京と名を改めることとなり、天皇は東京で政務を執り行うこととなった。
 これを東京奠都(とうきょうてんと)という。
 遷都(せんと)が都を移すことに対し、奠都は都を定めるという意味だ。正式な東京遷都の詔は出されていないため、京都では今でも都は京都だと思っている人がけっこういるんじゃないだろうか。
 明治元年の天皇の東京行幸は奠都前の準備であり、デモンストレーション的な意味合いがあったともいわれる。
 移動は鳳輦(ほうれん)が用いられた。神社の祭礼で使われる神輿のような乗り物で、屋根に鳳凰(ほうおう)の飾りがついている。これが天皇の正式な乗り物とされた。
 天皇に従ったのが岩倉具視以下3千人だった。
 9月20日に京都御所を出発した一行は東海道を進んで9月26日に熱田に着いた。
 翌9月27日に熱田神宮を参拝。行幸前に勅使を送り、東北地方の平定祈願を熱田神宮に行わせている。
 明治元年はまだ戊辰戦争が続いている頃だ。会津戦争は9月22日に終結したものの、榎本武揚らが北海道に渡って最後の抵抗を試みている。
 天皇は熱田神宮に
金の大判を奉納している。
 このときの尾張藩主は徳川慶勝だった(廃藩置県は明治4年)。天皇は慶勝に今年の稲の出来はどうかと尋ねたため、慶勝は八丁畷で、ある仕込みを行った。庄屋の加藤甚右衛門に収穫の様子をご覧に入れろと命じたのだ。
 下男18名と女5名は、八丁畷で天皇が訪れるのをスタンバイして待っていた。さあ、始めるのだという合図があったかどうか、天皇が通りかかったところで借り入れの作業を行い、
天皇は初めて農作業というものを見ることになった。
 岩倉具視は農民から刈り取られた稲を取って天皇に見せ、天皇は農民の労をねぎらい、まんじゅうを与えたという。
 このとき明治天皇は16歳になったばかりだった。元服を迎えたのも同じ年のことだ。
 天皇が農作業を見ることは当時異例のことであり、この話は日本中に伝わり大きなニュースになった。後に「農民収穫御覧」(森村宣稲)という絵も描かれた。
 鳳輦の中から農作業を見学する天皇と、その横では慶勝親子が平伏している(実際は松並木の木陰に座って見物していたらしい)。
 明治天皇が東京に着いたのは10月13日だった。江戸城に入城して東京城と名を改めた。
 いったん京都に戻り、翌明治2年に再び東京へ行幸に出て、そのまま今に至っている。
 つまり天皇は長いこと京都を留守にしているだけで、東京に完全に移ったわけではないという言い方もできるということだ。今上天皇が退位後に京都に戻りたいと希望されるのであればそれは自然なことといっていい。

「明治天皇覽穫之所」の石碑が建てられたのは大正2年(1913年)のことだ。
 明治以降は田植えの時期になると八丁畷の田で田植えの舞いをし、熱田神宮の神官が苗を植えるという神事も行われていたそうだ。
 しかし、昭和34年(1959年)の伊勢湾台風で田んぼが浸かって以降は中止になってしまった。
 現在の神穂町(かみほちょう)の地名の由来は、この明治天皇の話が由来となっている。

 さて、東ノ宮神社の創建はということになるのだけど、この辺りの土地を持っていた熱田神宮が土地を売って東ノ宮神社を建て、石碑を境内に集めて、地元の町に管理を委託して現在に至るとのことだ。
 ということは、神社の創建は昭和に入ってからということだろう。戦後だろうか。
 通常、東宮(とうぐう)というと天皇の皇太子を意味するのだけど、ここの場合は、熱田神宮から見て東という意味だろうか。実際は東というより南なのだけど、南東といえば南東だ。
 祭神は熱田神宮同様、熱田大神を主祭神とし、天照大神、素盞鳴尊、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命を配祠している。

 神社のすぐ北の松田橋交差点北西に八丁畷公園がある。その公園の中に松田橋の親柱(おやばしら)を使って松田橋の一部が復元されている。
 八丁畷の中を取っていた用水路に架かかっていたのがその松田橋だ。
 松田橋というと、ある種の人たちにとって独特の懐かしい響きを持った地名として思い起こされるかもしれない。
 戦後まもなく、平和園と名付けられた青線がここにあった。田んぼの中にぽつんと、10軒ほどが集まり、非公認の売春宿を営業していた。
 一般的に公認の売春宿が赤線、非公認は青線と区別されることが多いのだけど、昭和21年(1946年)にGHQによって公娼廃止指令が出されているので、戦後はすべてが非合法なものではあった。
 平和園がいつまで続いたのかはよく分からない。昭和32年(1957年)に売春防止法が出されるから、その少し後くらいまでだろうか。
 そんな青線地帯が熱田の羽城や新栄町などにもあったという。

 神社としての歴史は浅い東ノ宮神社ではあるけど、時代の証言者としての役割を今後も果たしていくことになるのだろう。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

明治天皇が稲刈りを見学しなければ東ノ宮神社は建てられなかったかも

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