笠寺観音(web)の境内と思われる場所にある稲荷社。 『南区の神社を巡る』によると、笠寺観音墓地の南にある無縁仏のあたりに鎮座していたものを、墓地拡大のため昭和43年(1968年)1月に西福院境内の現在地に移したという。 西福院は笠寺観音(笠覆寺)の西隣にあって、稲荷社は笠覆寺から見て南東に位置している。西福院はもともとこの場所にあったので、今でもここは西福院の土地になっているということだろうか。 創建年については不明としつつ、江戸時代中期には創建されていたであろうと書いている。
一般的に笠寺観音(かさでらかんのん)として名の通っている笠覆寺(りゅうふくじ)は、尾張四観音(竜泉寺観音・甚目寺観音・荒子観音)のひとつとされる古刹だ。 創建は奈良時代前期の733年(天平5年または736年)と伝わる。 僧の善光(禅光)が呼続(よびつぎ)の浜辺に打ち上げられた流木から十一面観音像を彫り、粕畠(650メートルほど南)に堂を建て天林山小松寺と名づけたのが始まりとしている。 それから100年以上が経過してお堂は朽ち、観音像は雨ざらしになっていた。旅の途中でそこを通りかかった藤原兼平(関白藤原基経の子)は、雨の日に観音像に笠をかぶせていた娘を見て心持ちに惹かれ、都に連れていき玉照姫と名づけて妻とした。 その後、藤原兼平は娘との縁を結んでくれた観音様に感謝して現在の場所に立派な寺院を建て、笠で覆ったということで笠覆寺と名づけたのが笠寺観音の縁起として語られる。 中世には宿坊を12も有する大寺院になっていた。西福院ももとは大坊という宿坊のひとつだった。 戦国から江戸時代にかけてやや勢いが衰え、江戸時代中期には宿坊は6つになっていた。 明治の廃仏毀釈で荒廃したものの、昭和に入って勢いを盛り返し現在に至っている。 本尊の十一面観音像は秘仏で、8年ごとに開帳される。前回が2014年4月だったので次は2022年だ。 ちなみに、織田家の人質となっていた竹千代(のちの徳川家康)が今川と織田の間で人質交換されたのが、ここ笠覆寺だった。
笠覆寺の前を斜めに走っている道(県道222号)が旧東海道で、笠寺は西の熱田と東の鳴海の中間あたりに位置している。 笠覆寺がある上新町(かみしんまち)は東海道に沿ってできた新しい門前町という意味で、明治まではこの通り沿いに旅館や呉服屋、鍛冶屋、うどん屋などが立ち並んでいたという。 宿坊が並んでいたのは東海道ではなく門前の南側で、今もそちらに宿坊から寺になったものがいくつか残っている。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、この当時はまだ江戸時代の町並みの面影が残っているのが分かる。
笠寺稲荷について分かることはほとんどないのだけど、ここだけちょっとした異空間状態になっているので、笠寺観音に参拝に訪れた際はちょっと立ち寄ってみてほしい。
作成日 2018.3.2(最終更新日 2019.8.22)
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