正式名は分からないので、鳥居の額に書かれた「熱田御新田稲荷大明神」としておく。 隣に四番観音札所と五番観音札所があることで分かる通り、ここは熱田新田の四番割・五番割だったところだ。なので、四番五番割稲荷とでもいっていたかもしれない。 御新田は熱田新田のことで、これは1646年から1649年にかけて尾張藩初代藩主の徳川義直の命で作られた新田であることから御新田(ごしんでん)と呼ばれていた。 東は熱田の堀川から西は庄内川までの約4.6キロを干拓によって陸地化して田んぼにするというもので、全体を三十三の番割に分割し、それぞれに西国三十三ヶ所の観音を祀り、新田開発の守護神とした。 番割観音の他に神社も勧請されている。 一番割の八劔社、四五番割の神明社、六七番割の神明社、八九番割の寶田社、十一番割の八劔社、十四番割の天王社、十七番割の神明社、十八番割の神明社、二十番割の神明社、二十二番割の神明社、二十八番割の神明社、三十一番割の神明社が『尾張志』(1844年)に載っており、これらはすべて現存している。 番割観音は一部が現存するのみで、多くは失われてしまった。 熱田区、中川区に残る一番とか六番とか十一番とかいった地名は、この熱田新田の番割だった頃の名残だ。 上に挙げた神社はそれぞれの番割の氏神で、氏神以外にも建てられた神社は多くあったと考えられる。この稲荷社もそのひとつだったのだろう。 ただ、もともと四番五番割の観音と一緒にあったとは限らないし、最初からこの場所に建てられたかどうかも分からない。 時代としては江戸時代中期以降の可能性が高そうではあるけど、それを裏付ける根拠があるわけではない。 ほぼ情報がないので、これ以上は何とも言えない。
今昔マップを見てみると、神社と観音堂があるのは熱田新田内に通っていた道沿いに当たることが分かる。この道沿いに民家が建ち並んでいることからすると、観音も稲荷ももともとこの場所にあったのかもしれない。 昭和に入って南に東海通が通り、区画整理もされて、このあたりもだんだん発展していった。西には南北に市電が走っていた。 戦後になると細かく区割りされた住宅地となり、田園地帯だった頃の面影はなくなってしまったようだ。 1960年代に入るとびっしり家が建ち並んだ。
おそらく熱田区のこのあたりに住んでいる人たちも、この場所がかつて海だったことを意識して暮らしてはいないだろう。干拓によって生み出された見渡す限りの田んぼ風景というのも今となっては想像することすら難しい。 新田開発によって収穫量が増えて人々は幸せになったかといえばそうではない面もあって、尾張の新田開発は中断した時期もあった。今の時代にたとえると、チェーン店を増やしたら人手不足で店の品質が落ちて本社まで危うくなったみたいなことが起きたというわけだ。 それでもこうして土地が増えたことで多くの人が住めるようになったということは確かにある。田んぼはほとんどなくなってしまったけど、干拓新田が無駄だったわけではない。 神社というのはやはり大したもので、これほど寿命が長いものはなかなかない。紆余曲折はあったとはいえ、現代にも10万社を超える数の神社が日本中にあって、この先もこれらがすべて急になくなってしまうとは考えにくい。日本列島が海中に沈んだとしても、どこかの山の神社くらいは残るだろう。 神社が数百年、千年と続いていることは当たり前のことではなくすごいことなのだけど、日々の暮らしの中でそんなことを考えることはあまりない。
作成日 2018.11.26(最終更新日 2019.9.18)
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