神社がある大同町は、昭和22年(1947年)に鳴尾町・星崎町の各一部より成立した町で、町名は大同特殊鋼星﨑工場があることから来ている。 大同製鋼の星﨑工場が建てられたのが昭和12年(1937年)で、それ以降、この町は大同製鋼(現・大同特殊鋼)とともに歩んできた。大同高校、大同大学、大同病院など、大同なしは町が成り立たないくらいになっている。 大同町となっているのは、江戸時代に干拓によって作り出された土地で、南野村の福井八左衛門が1757年(宝暦7年)に開発した繰出新田と、1804年(享和4年)に菱屋太兵衛が開発した大江新田があった場所だ(大江新田完成は1806年)。 神社がいつどこに誰によって建てられたかが問題となるわけだけど、これがどうもはっきりしない。 『愛知縣神社名鑑』は、「創建は明かではない。明治5年7月、村社に列格する」とだけしか書いておらず手がかりにならない。 『南区神社名鑑』は1720年(享保5年)に大江新田の守護神として祀ったと書くけど、これは明らかに年代が間違っている。 『南区の神社を巡る』は、1847年(弘化4年)作成の俊廣新田絵図の東北端に神社が描かれているということと、『南区今昔物語』(山田寂雀)を引用しつつ推測をしている。 それによると、当初は大江新田社と称しており、「御霊体奉封 但 天照大御神 熱田皇太神 地主 菱屋太兵衛 神主 村瀬兵部清隆」などと書かれた文化7年(1810年)の棟札があることから、これが創建年ではないかとしている。 修理の棟札もあり、それには「文化十四丑年八月二十八日 地主 鍵屋善左ヱ門 神主 村瀬兵部清隆 云々」とあるという。 これは大江新田の所有が菱屋太兵衛から鍵屋善左ヱ門に移ったということかもしれない。そのとき神社の修理もされたということだろうか。 『南区の神社を巡る』の推測は正しいか、大きくは違っていないだろうと思いつつ、大江新田の完成から神社創建まで4年あるというのは気になるところだ。
菱屋太兵衛の家は清須越で名古屋城下に移ってきて尾張藩の御用商人をしていたようだ。名古屋玉屋町に住んで紙を扱っていたらしい。 大江新田を開発するのは1804年から1806年なので、そのときの菱屋太兵衛は当然何代目かになる。 大江新田は塩害がひどくて収穫がなかなかあがらなかったようで、多くの汐貫用水を作ったと記録にある。そのたまり場でタイやセイゴを養殖したりしていたという。 用水路の一部がせせらぎ水路として整備され残っている。
大同特殊鋼は名古屋市東区に本社を置く特殊鋼メーカーで、大正5年(1916年)に名古屋電灯株式会社の製鋼部が独立して株式会社電気製鋼所が設立されたことに始まる。 設立者のひとりに福澤桃介がいる。福沢諭吉の婿養子で、日本初の女優といわれる川上貞奴を愛人としていたことでも知られる人物だ。相場師として日露戦争後の株式投機で当てて実業家に転じ、後に電力王と呼ばれることになる。 星﨑工場ができた昭和12年(1937年)当時のこのあたりは、田畑だけが広がり、民家もまばらなところだったという。それが大規模工場の進出によって民家や店舗が建って人口も増え、ひとつの町になっていった。 昭和14年(1939年)には当時の大同製鋼の社長だった下出義雄によって大同工業高校(現・大同高校)が創立され、昭和37年(1962年)に大同工業大学(現・大同大学)も創立された。大同大学は福澤桃介を祖としている。 大同製鋼は当然ながら名古屋空襲のときに攻撃目標とされ壊滅的な打撃を受けた。それでも戦後復興し、現在も星﨑工場は稼働して、大同町ではなくてはならない存在であり続けている。 大江新田社が神明社と改称されたのは明治の神仏分離令以降のことだろう。大同神社に変えられなかったのはよかったというべきか。
境内に阿千輪謙吉顕影碑がある。 阿千輪謙吉(あちわけんきち)は天白川の河口で海苔の養殖を始めた人で、大正10年(1921年)に「あゆちのり」として売り出した。組合の初代理事長でもあったため、石碑が建てられたようだ。 昭和30年代に入って名古屋港が埋めたてられると養殖場は縮小を余儀なくされ、昭和39年(1964年)に組合は解散となり、この地での海苔養殖は終わった。
境内社の白竜社は、大同町3丁目の旧知多街道にあった大松に祀られていたものではないかという。
なかなか雰囲気のある神社ではあるのだけど、本殿を鉄製の柵で囲ってあるのがいい印象を与えない。神様が檻に閉じ込められているみたいだ。安全対策か防犯のためなのか分からないけど、もう少し見栄えを考えた方がいいのではないだろうか。ちょっともったいないように感じられた。
作成日 2018.4.19(最終更新日 2019.8.28)
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