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金神社(山田天満宮内)

ここはお金の神社ではなく大将軍の神社だ

金神社(山田天満宮)

読み方 こがね-じんじゃ(やまだ-てんまんぐう-ない)
所在地 名古屋市北区4丁目42 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 無格社・十五等級
祭神 岐神(ふなとのかみ)
金山彦神(かなやまひこのかみ)
大国主神(おおくにぬしのかみ)
アクセス 名鉄瀬戸線、JR中央本線、ゆとりーとラインの「大曽根駅」から徒歩約12分
駐車場 あり(無料)
webサイト 公式サイト(山田天満宮)
その他 金護摩祭 8月8日
オススメ度

 金神社(こがね-じんじゃ)の名前から金運が上がる神社として名古屋ではよく知られている。
 金神社が山田天満宮の境内に移されたのは昭和58年(1983年)で、それまでは200メートルほど北東にあった(地図)。山田幼稚園の北東角にある山田緑地が旧地だ。
 ここは山田村と呼ばれた集落で、村の中心を南北に通る下街道沿いに家が集まっていた。
 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると集落と街道の様子が分かる。
 いつ頃から金運が上がる神社といわれるようになったのかは分からないのだけど、この神社はもともとそういう神社ではなかった。金神社と名前を変えたのは明治元年のことで、江戸時代は大将軍社といっていた。

『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。
「社伝に延享三年(1746)10月、の創建とあるが、創祀はもっと古く、大将の宮・大将の社・上の宮と称したが、明治初年に金神社と改め据置公許となる」

『尾張志』にはこうある。
「大将軍ノ社 天神ノ社 山田村にあり」

 大将軍、もしくは大将の宮と呼ばれていたものがどうして明治になって金神社となったのかは、少し順を追って説明する必要がある。
 大将軍(大将)の由来は二通り考えられる。
 ひとつは陰陽道における八将神(はっしょうじん)のうちのひとつ、大将軍が由来というパターン。
 もうひとつは山田重忠から来ているという可能性だ。
 通常であれば方位神の大将軍から来ていると考えていいのだろうけど、ここが山田重忠の本拠地だったことは無視できない。
 現在の山田幼稚園(地図)の場所に山田重忠の館があったと伝わっている。大将軍社はその敷地内に位置している。
 山田重忠は平安時代末から鎌倉時代初期にかけて活躍した源氏の武将で、鎌倉時代は山田荘を領して幕府の御家人になっていた。承久の乱(1221年)では後鳥羽上皇側について奮戦の末に討ち死にしたものの、朝廷の忠臣ということで戦前まではよく知られる人物だった。そのあたりのことについては以前ブログに書いた。
 山田重忠について私が書けることのすべて
 大正13年(1924年)に新愛知新聞社(中日新聞の前身)が選んだ名古屋十名所の中に、「山田元大将之社」が入っている。これが大将軍社のことだと思うのだけど、明治元年に金神社と名を改めていることを考えると、神社そのものではなく山田重忠館跡が名所だった可能性もあるだろうか。
 ただ、この大将軍の社が山田重忠の時代からあったわけではないだろう。後の時代に子孫か村人が山田重忠を祀る社として建てたとも考えられる。
 あるいは、山田重忠とは関係がなく、方位神としての大将軍を祀ったという可能性ももちろんある。

 古代中国では明けの明星を啓明、宵の明星を長庚または太白(たいはく)と呼び、軍事にまつわる星神と考えていた。
 これが陰陽道に取り入れられたとき、太白神、金神(こんじん)、大将軍となった。金神社はこの金神から名前が取られたのかもしれない。
 桓武天皇が平安京に遷都したとき、大将軍を祀る神社を東西南北の四方に配置した。京都に今も残る大将軍八神社などがそうだ。
 方位を司る神ということで、方除け・厄除けになると信じられた。ただ、強い力を持つ反面、マイナス面の影響も大きく、大将軍がいる方角は何をしても大凶とされ、3年ごとにしか動かないことからその方角を忌むことを三年塞がりと呼んだ。
 神仏習合時代は牛頭天王と同一視されたり、牛頭天王の子ともされ、明治の神仏分離令では祭神を須佐之男命(素戔嗚尊)としたところが多い。
 山田の金神社の祭神が金山彦になっているのは、金つながりで、特に深い意味はなさそうだ。金属加工や鉱山の神として祀っているわけではないだろう。

 祭神の一柱として岐神(フナトノカミ)を祀っているということは、どこかの時点で民間信仰とも習合したことを示している。
 岐神は「くなと」、「くなど」などともいい、来な処、来てはならないところという意味を込めて道の分岐点や村の入り口などで祀ったのが始まりとされる。分かりやすい例でいえば道祖神などもそうだ。
 山田大将軍社が下街道沿いにあったことを考えると、街道から村に悪い霊などが入ってこないようにということで岐神を祀ったのだろう。
 下街道は日本武尊(ヤマトタケル)が東征からの帰り道に通ったという伝説が残るくらい古い道で、江戸時代は中山道と名古屋城下を結ぶ脇往還だった。善光寺方面や伊勢方面へ向かう道ということで、善光寺道、伊勢道などとも呼ばれた。
 この場所に平安時代末から鎌倉時代初期にかけて山田重忠の館があったということは、その当時から京都と鎌倉を結ぶ鎌倉往還につながっていたと考えていい。大将軍よりも岐神の方が先だったかもしれない。
 大将軍社の他に上の宮とも呼ばれていたというのが少し気になる。天神社(山田天満宮)の北に位置しているということからそう呼ばれたのだろうか。

 こうして見てきた通り、この金神社はお金の神様とかそんな単純な話ではない。
 山田重忠大将ゆかりの神社なのか、方位神である大将軍を祀る神社だったのか、あるいは岐神から来ているのか、いずれか断定することはできないものの、創建時期や創建者を含めて複雑で難しい神社には違いない。
 山田天満宮は尾張藩二代藩主の光友が、尾張国の学問の祈願所として太宰府から勧請して菅原道真を祀ったのが始まりというのが一般的な説明なのだけど、実際は名古屋城の鬼門(北東)の守り神として天神を祀るという意識だったのではないかと思う。道真を祀ったというのはそうだとしても、道真が学問の神様としての性格を強めていったのはもう少し後の時代のことだ。
 山田天神が下の宮と呼ばれたかどうかは分からないのだけど、山田大将軍社が上の宮と呼ばれていたのなら、この二社はもともとセットのように捉えられていたかもしれない。
 山田幼稚園を経営しているのは廣福寺(こうふくじ)という黄檗宗(おうばくしゅう)のお寺だ。廣福寺がいつ創建されたのかは調べがつなかったのだけど、おそらく江戸時代だろう。
 黄檗宗は江戸時代前期の1654年に中国(明)から来日した隠元隆琦(いんげんりゅうき)が将軍・徳川家綱に頼んで京都宇治に黄檗山万福寺(web)を創建したことに始まる。教義的には臨済宗の一派ということになる。尾張国に黄檗宗の寺は少ない。
 一時的にせよ、この廣福寺と大将軍社が隣接していたということは、何かしらの関係があったとも考えられる。廣福寺に取り込まれていたものを、明治の神仏分離令で分離独立させて金神社としたのかもしれない。

 結論めいたことは何も書けないのだけど、いくつかの可能性は提示できたと思う。
 山田重忠由来か、方位神の大将軍か、岐神か、そのどれかというよりも、それらすべてがあわさって渾然一体となっているのがこの神社の本質といえそうだ。
 祭神の一柱として大国主が祀られているということは大黒天の信仰があったのかもしれないし、神社側では恵比須神も祀るとしている。
 もはや始まりだどうだったかなどは小さな問題に過ぎないともいえる。結果として今は金運を上げる神様として信仰され、実際に成果を上げているのだから、それでいいのだろう。神社の脇には報告を貼り付ける板があって、そこには宝くじに当たりましたなどの報告が多数寄せられている。
 山田天満宮を訪れて、金神社だけ参拝していく人も少なくない。山田天満宮に間借りしている格好だから、大家さんの方に挨拶くらいはしておいた方がいいと思うのだけど、それよりも山田天満宮が潤ってだんだん俗化していっているように見えるのがちょっと気になるところだ。金神社の社などは金ピカに塗られている。

 

作成日 2018.4.7(最終更新日 2019.1.12)

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