物部神社

物部神社は大石神社

物部神社外観

読み方 もののべ-じんじゃ
所在地 名古屋市東区筒井三丁目31番21号 地図
創建年 不明
社格等  式内社・村社(無社格)・十等級
祭神

宇麻志麻遅命(うましまじのみこと)

アクセス

・地下鉄桜通線「車道駅」から徒歩約2分。
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 結論から言うと、この神社は物部氏がウマシマジを祀るために創建した物部神社ではなく、石を祀った石神神社だと思う。
『延喜式神名帳』(927年)に尾張国愛智郡物部神社、『尾張国神名帳』に従三位物部天神と載る神社は確かに存在した。第11代垂仁天皇の時代に初めて社殿が築かれたとする古い社だ。
 垂仁天皇が実在したと仮定すると西暦300年代前半ということになるようだ。
 平城京跡から出土した木簡に、「和銅7年(714年)尾張国愛智郡物部」とあることからも、古代このあたりに尾張物部氏の拠点があったというのもその通りだろう。のちに物部郷古井村と呼ばれることになる。
 しかし、今ある物部神社は、神名帳に載る神社ではない可能性が高い。その感触は高牟神社にも感じるものだった。

 高牟神社のところでも書いたけど、高牟神社も物部神社も、物部氏が創建した神社ではないと私は考えている。
 確かにここに一時、尾張物部氏の本拠はあったのだろう。けど、だからといってここにある神社を建てたのが物部氏とは限らない。言い方を換えれば、長い歴史を経て神社を残すためには、その神社を守る人々が必要だということだ。
 尾張物部氏はある時期にここを離れてもっと北へ移った。北区の味鋺や春日井市の味美に。味鋺古墳群や味美古墳群に見られるようにあちらの方がずっと色濃く残っている。
 味鋺古墳群は400年代前半から造られ始め、400年代後半には味美地区に移ったと考えられている。何らかの理由で尾張物部氏は千種区・東区のエリアから味鋺・味美エリアに移動していったのだろう。
 かつて尾張国にはいくつもの物部神社があったという。それが現在では東区のものだけとなってしまったとされる。しかし、他が全部なくなったのにここ一社だけが残るということがあるだろうか。普通に考えて、一族が他へ移って神社を守る人間がいなくなれば自然消滅的に廃絶となるのではないか。

 物部氏の出自についてはよく分かっていない。
 どこからかやってきて、いつしか中央で有力な豪族となった。最初、祭祀を扱っていたのがやがて軍事色の強い氏族になっていった。
 物部氏の祖とされるのがウマシマジ(宇摩志麻遅命)で、物部神社の祭神がウマシマジとなっている。
 最初、反朝廷側の長髄彦(ながすねひこ)の下にいたウマシマジ(母はナガスネヒコの妹)は、神武天皇が東征してきたときナガスネヒコを殺して神武天皇側についた。
 神武とともに美濃・越国を平定したのち、石見国で死に、埋葬されたところに物部神社が建てられたとされる。
 尾張物部氏は、その中の一派ということになるだろうか。
 尾張物部氏が千種区・東区の物部郷に本拠を置いていた300年代、尾張氏はおそらく大高のあたりにひとつの拠点があった。氷上姉子神社(ひかみあねごじんじゃ)があるあたりだ。それとは別にもっと北の清洲から一宮あたりにも別の拠点があったとされる。
 その後、大高から北の熱田へと拠点を移すことになる。草薙剣を祀る熱田神社を建てたのもそのときだろう。
 越国(福井県)から来た継体天皇が即位したのが500年代初頭として、尾張連草香(おわりのむらじくさか)の娘・目子媛(メノコヒメ)が継体天皇の妃となり、生まれた子供が安閑天皇、宣化天皇となった頃が尾張氏の全盛期だった。
 熱田の断夫山古墳(だんぷさんこふん/前方後円墳)が造られたのが500年代前半とされている。
 一方、味美にも二子山古墳(96メートル)がある。断夫山古墳と味美二子山古墳は築造時期や出土品など共通点が多く、埋葬者は近しい関係にあったと考えられている。
 こうした流れを考えたとき、北上する動きが尾張氏と尾張物部氏で連動しているように思えてならない。そこに武力衝突があったのかどうかは分からない。敵対関係というものは感じられないから、平和な棲み分けだったのか、もしくは融合したのか。
 熱田断夫山古墳は尾張連草香の墳墓で、味美二子山古墳はその娘で天皇の母・目子媛とする説がある。
 あるいは、味美二子山古墳はウマシマジの墳墓ともいう。
 断夫山古墳はヤマトタケルの妃・ミヤズヒメのものとする言い伝えがあるものの、今は否定的な意見が多いようだ。
 いずれにしても、熱田の古墳群は尾張氏のものに違いなく、味鋺・味美は物部氏のものである可能性が高い。

 話を戻すと、理由はどうであれ、東区・千種区を離れた尾張物部氏は、ある意味ではこの地を捨てたということになるだろう。それは神社も捨てたということだ。
 尾張氏がこの地区まで進出してきたことを示す痕跡は見られない。尾張氏ゆかりの神社も古墳もない。尾張物部氏が去ったあと、ここはしばらく捨て置かれた地となっていたのではないだろうか。
 では、高牟神社は誰が創建して、誰が守っていったのかという話になる。そこがもうひとつよく分からないのだけど、少なくとも高牟神社も尾張物部氏時代のものではないと思う。
 高牟神社にしても物部神社にしても、物部氏の神社というよりも古代大王時代の皇室(王室)の影がちらつく。
 高牟神社は、平安時代前期に清和天皇(858年-876年)の勅命で応神天皇を合祀したという話が伝わっている。
 もし高牟神社が物部氏の武器倉庫だったところに創建した神社だったとして、そんな地方豪族が建てた神社に天皇があえて応神天皇を祀れと命じるだろうか。鎌倉時代に武家の神として応神天皇を祀ったのと、平安時代前期に天皇の勅命で応神天皇を祀るのとでは意味が全然違う。
 一方、物部神社には神武東征にまつわる大石伝説がある。
 神武天皇がこの地の賊を討って平定し、ここにあった大きな石を国の鎮め、要石として祀ったというものだ。
 そういった史実はないわけだけど、神武の名前が出てくるというのは象徴的なことだ。先ほど書いたように、物部氏の祖であるウマシマジは神武天皇東征に従っている。そして、ここには尾張物部氏の本拠があり、人々が祀る大岩がある。話はつながった。
 江戸時代までは大石を祀る神社ということで、石神堂や石神神社などと呼ばれていた。
 ここが物部神社と改称したのは明治に入ってからだ。これらの伝承を元に、ウマシマジを祀る物部神社だったということにしたのだろう。
 式内社の物部神社とし、村社に列格するも、のちに格下げで無社格となっている。くわしいいきさつは分からないけど、あとになってやっぱりここは式内の物部神社ではないだろうということになったんじゃないか。

 境内には白龍を祀る龍神社や小さな社がたくさんある。それらは、個人宅で祀られていたものや、屋根神だったものが持ち込まれた社だという。飼っていたペットの世話をしきれなくなって動物園やペットショップに持ち込むみたいなことが神社でも行われているとは知らなかった。
 この物部神社というのはつまりそういう神社なのだ。尾張物部氏が古代にウマシマジを祀るために創建したものではない。大石が古代から磐座(いわくら)として信仰の対象になっていたとしたら、その起源は古い。
 もし、高牟神社や物部神社が実際に尾張物部氏が創建した神社で、彼らがここを離れたあとも残った人々が大切に守り続けた忘れ形見のような神社だったとするならば、それはそれで素敵な話だと思う。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

高牟神社と物部神社

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