物部神社(筒井)

物部神社は石神堂でしかないのか

物部神社外観

読み方 もののべ-じんじゃ(つつい)
所在地 名古屋市東区筒井3丁目31-21 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 村社(無格社)・十等級・式内社
祭神 宇麻志麻遅命(うましまじのみこと)
アクセス 地下鉄桜通線「車道駅」から徒歩約2分
駐車場 なし
その他 例祭 10月7日
オススメ度

『延喜式』神名帳(927年)の愛智郡物部神社とされているのだけど、いろいろと問題があって素直には受け入れられない。
『尾張國内神名帳』に従三位物部天神とあり、平安時代に愛智郡に物部神社と称する古い神社があったことは間違いない。ただし、そこに載っている物部神社と東区車道にある現・物部神社がイコールとは限らない。

 まず、郡域・郡境の問題がある。
 江戸時代のここは名古屋城下の外れで、古井村の北に当たる。
 今昔マップを見ると、古井村の集落からはかなり離れた北にあり、田んぼ脇で鎮守の杜に囲まれていたことが見てとれる。
『和名抄』(931-938年)の愛智郡に物部郷があり、平城京跡から出土した木簡に「和銅七年尾張国愛智郡物部」とあることからも、愛智郡に物部郷があったことは確かだ(和銅7年は714年)。
 古井村を物部郷するのが通説ではあるのだけど、はっきりそうだったと分かっているわけではない。物部郷の場所にも諸説ある。
 物部郷は物部氏の拠点で、物部の祖の宇麻志麻遅(ウマシマジ)を祀る社を建てたのが物部神社の始まりとしている。一説ではそれを第11代垂仁天皇の時代とする。
 それに対して津田正生や瀧川弘美は、古井村は愛智郡ではなく旧山田郡だといっている。彼らがいうには、山田郡と愛智郡の郡境は江戸時代でいうところの駿河街道あたりだったということになる。今でいう153号線だ。
 そうなると名古屋城下も古井村も山田郡ということになり、古井村の物部神社も、古井八幡(高牟神社)も、『延喜式』神名帳の”愛智郡”の神社ではあり得ない。
 山田荘は奈良時代から平安時代にかけて東大寺の荘園になっていた。そのことと山田郡の郡域が関係しているかどうかは分からない。
 津田正生は物部郷は古井村ではなく少し南の御器所村のあたりで、『延喜式』神名帳の愛智郡物部神社は御器所八幡だといっている。
 郡境問題は難しくていまだにはっきりしないのだけど、このことはひとつ頭に入れておく必要がある。

 次に、この神社が大石を祀っていて江戸時代までは石神堂などと呼ばれていたことについて考えてみたい。
 それには不思議というか奇妙な伝承がある。
『愛知縣神社名鑑』が『張州府志』(1752年)を引用してこう書いている。
「神霊は一塊の大石にして神武天皇当国の凶魁を討ち給ひし時、此の石を以て国の鎮めとなし給ふといふ、俗に要石といへり猶此の石を世に根無し石と伝ふ、けだし石神称は之より起これり」
 ここでは物部ではなく神武天皇の伝説が語られている。神武天皇が尾張国を訪れたということは『古事記』、『日本書紀』には書かれてない。しかし、島根県大田市の物部神社(web)の縁起としてそういう話が伝わっている。
 それによると、神武東征に
ウマシマジとその異母弟の天之香山命(アマノカグヤマ)が従い、尾張、美濃、越国を平定し、アマノカグヤマは彌彦神社(web/新潟県西蒲原郡)に残り、ウマシマジは播磨、丹波を経て石見国(島根県西部)に移り、そこで没して物部神社に祀られたのだという。
 物部の祖であるニギハヤヒは物部側の歴史書とされる『先代旧事本紀』では天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊とし、尾張氏の祖・天火明命(アメノホアカリ)と同一としている。
 神武天皇が尾張国の要石とした石を祀るのが現・物部神社ということになれば、それはそれでまた別の意味で大きな話になってくる。式内社の物部神社かどうかといった小さなことでは済まない。
 その大石は現在の社殿の下に埋まっているそうなのだけど、具体的な大きさや形などは分からない。このあたりにそれほど大きな石があるのは不自然で、もしかすると古墳の石室に使われた石かもしれない。近くから大型の古墳は見つかっていないものの、少し離れた西エリアに白山神社古墳大須二子山古墳(消滅)、那古野山古墳などがある。
 現・物部神社を式内の物部神社と思えない理由として、このあたりに物部氏の痕跡がなさすぎるということがある。尾張における物部の本拠は北区味鋺や春日井市味美に色濃い。あの辺り一帯には100基を超える古墳が築かれ、ウマシマジを祀る物部神社もあった。それに比べると古井村エリアにおける物部の印象は薄い。物部郷と物部神社くらいしかなく、遺跡のひとつもないのは弱い。
 ただ、神武天皇とウマシマジ、アマノカグヤマ遠征の伝承は無視できない。何らかの出来事が伝承として伝わった可能性がある。そこに大石があって祀っていたというだけではこういった伝承は生まれなかったのではないか。
 それが実際に神武天皇時代の出来事だったとすれば、神社創建を第11代垂仁天皇時代としても数百年後のことということになる。物部やウマシマジ云々というのは後付けかもしれない。

 先ほども書いたように、江戸時代のこの神社は石神堂などと称していた。
『寛文村々覚書』(1670年頃)は山之神としているけど、『尾張徇行記』は山神と俗称するのは誤りで、石神堂は『延喜式』神名帳の物部神社といっている。
『尾張志』(1844年)も古井村の石神堂が物部神社とする。
 正式に石神堂が『延喜式』神名帳の物部神社に比定されたのは明治元年(1868年)のことだ。そのとき村社に列格しているのだけど、何故かその後、無格社に格下げされている。これは非常に引っかかる点で、こういった格下げは他には知らない。どういう事情があったのか。

 個人的な感触からすると、現・物部神社は式内社の物部神社とは違うような気がしている。ただし、やはり神武天皇が大石を要石としたという伝承は気になるところで、式内の物部神社とは別の古い歴史を持つ神社とも考えられる。
 郡域の問題はともかくとして、御器所八幡宮を式内の物部神社とする津田正生の説は魅力的で、それを採りたいという思いもある。
 近くの高牟神社は物部氏の武器庫だった跡地に建てたという話がある。それも信じていないのだけど、高牟神社は清和天皇(858年-876年)の勅命で応神天皇を合祀したと伝わっている。これは唐突な話にも思えるのだけど、物部神社に伝わる神武天皇と要石の話とどこかでリンクしているかもしれない。そうだとしたら、物部神社も高牟神社も物部が祖神を祀った神社ではなかったのではないだろうか。

 かつては広い境内だったというけど、今は街中の小さな神社になった。狭い境内には白龍を祀る龍神社や小さな社がたくさんある。それらは、個人宅で祀られていたものや、屋根神だったものが持ち込まれたものだという。
 雑然としてしまっているともいえるし、庶民的ともいえるのだけど、式内社にふさわしい官社という感じはしない。今はどうか知らないけど、昔は石神さんと呼ばれて親しまれていた。
 式内社か否かだけで判断するのはよくない。それだけで見ようとすると判断を誤る。
 ひょっとすると石神堂は深い歴史を秘めているかもしれない。本殿の下の大石だけが知っているということになるだろうか。

 

作成日 2017.3.6(最終更新日 2019.9.18)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

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