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白山社(児玉)

児玉村唯一の生き残り

児玉白山社

読み方 はくさん-しゃ(こだま)
所在地 名古屋市西区児玉3-19-6 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 村社・十二等級
祭神 伊弉冉命(いざなみのみこと)
天之御中主命(あめのみなかぬしのみこと)
彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)
菊理姫命(くくりひめのみこと)
稲倉魂命(うかのみたまのみこと)
大山咋命(おおやまくいのみこと)
中津島比売命(なかつしまひめのみこと)
天津彦根命(あまつひこねのみこと)
應神天皇(おうじんてんのう)
アクセス 地下鉄鶴舞線「浄心駅」から徒歩約15分
駐車場 あり(鳥居より南の薬師寺西隣)
その他  
オススメ度

 織田家の重臣だった丹羽長秀の邸宅のすぐ北にある白山社ということで、丹羽長秀が関係しているのかと思ったらどうやらそうではなさそうで、創建は江戸時代に入ってからのようだ。
 江戸時代のここは児玉村で、今も児玉の地名が残っている。
『尾張志』は、丹羽氏は武蔵国の児玉党の武士で、この地にやって来てこのあたりを児玉と称し、後に村名になったと書いている。

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書く。
「創建は明かではない、尾張白山と称して加賀白山比咩神社を勧請、尾張国主徳川義直(1607-1649)巡行の地で社殿を造営する。児玉町の産土神として崇敬あつく明治5年、村社に列格した」

 創建時期は定かではないものの、加賀国(石川県)の白山比咩神社(web)から勧請したことは確かなようだ。
 安永2年(1773)の棟札を所蔵しているという。
 1670年頃まとめられた『寛文村々覚書』を見ると、児玉村の項に神社が載っていない。
三宝山観音寺 禅宗 寺内年貢地 なごや永安寺末寺」とあり、『尾張徇行記』には「白山社内一畝御除地、観音寺ノ支配ナリ」とある。
 除地となっているということは創建は意外と古いのか、何か他に理由があったのか。

『尾張志』の児玉村の項には「神明社 八幡社 白山社 三狐神ノ社 児ノ社 稲荷社 児玉村にあり」とある。
 この中の神明社についてのエピソードがちょっと面白い。
「神明社 児玉村にあり元和の頃十月十六日赤雲一むら南寄り来りて當村の大日堂の前にとどまりぬ其所と見れば伊勢神宮の大麻と木馬一体ありしかが村民相儀して社を建かの二物を蔵めて神明社と崇め祭れり源敬公ある時此地に遊びたまひて伊勢山と号け給ひ又社の辺の川に橋をかけさせてお伊勢橋と名つけ給へりそれより此川をおいせ川といふ元禄十丁丑年に泰心院君修造し給へり」

『愛知縣神社名鑑』がいう義直巡行の地云々というのはこのときの話のようだ。
 赤い雲が現れたと思ったら大日堂の前に伊勢の神宮大麻と木馬があったので雲から降ってきたに違いないという話になったのだろう。村人たちが相談してそれを祀るための神明社を建てたということだ。義直がこの地にやって来たときのその話を聞いて、そこを伊勢山と名づけ、流れている川に橋を架けさせてお伊勢橋としたことからその川をお伊勢川(笈瀬川)と称するようになったという。
 元禄10年は1697年、泰心院君は尾張藩3代藩主の徳川綱誠(とくがわ つなのぶ/つななり)のことだ。

 児玉村にあった神明社、八幡社、三狐神ノ社、児ノ社、稲荷社は、大正七年(1918年)にすべて白山社に合祀されてしまい、現存していない。そのため、祭神の数が多くなっている。
 これらの祭神をどの神社で祀っていたのかは『西区の歴史』に詳しい。
 それによると、児宮は享保三年(1718年)以前の創建で彦火火出見尊と天之御中主命を、社宮司社は天元二年(979年)創建で稲倉魂命、大山咋命、中津島比売命、天津彦根命を、稲荷社の創建は宝永五年(1708年)で稲倉魂命を、神明社の創建は元和四年(1618年)で天照大神を、八幡社の創建は宝永七年(1710年)で応神天皇を、秋葉社の創建は明治五年(1872年)で迦具土神を祀っていたとする。清洲杁の祠もあわせて祀っているとのことだ。
 この中で気になるのは 979年(天元二年)創建という社宮司社だ。それが本当だとすれば、児玉集落の氏神は本来この神社だったということになるのではないか。
 稲倉魂命、大山咋命、中津島比売命、天津彦根命という祭神の組み合わせも珍しい。
 稲倉魂命は稲荷社でよく祀られる食物の神なのだけど、大山咋命(オオヤマクイ)は日枝山の神で日吉神社や松尾神社で祀られる山の神だ。そこに中津島比売命(宗像三女神の市杵島姫命の別名)という海の女神とアマテラスとスサノオの誓約(うけい)で生まれた五男のうちの一柱に当たる天津彦根命が入ってくるというのは非常に不思議だ。この神社の正体がまったく分からない。社宮司社だけは合祀せずに残しておいてほしかった。

 話は急に変わるけど、この児玉という地は丹羽長秀の邸宅があったところだ。
 織田四天王と呼ばれたうちのひとり、丹羽長秀の存在感は薄い。しかしながら、柴田勝家と双璧といわれた武将で、信長が天下統一を目指す上ではなくてはならない存在だった。若い頃の秀吉は、柴田勝家の柴と丹羽長秀の羽をそれぞれ一字もらって羽柴を名乗っていた。
 長秀の父の長政は尾張国守護の斯波氏に仕えていたのだけど、斯波氏が力を失い織田家が台頭したことにともない長秀は若い頃から信長の家臣となった。
 初めは武将としての才を買われ、各地の戦に参加し、信長の家臣団の中では初めて国持ち大名となった。若狭では名古屋よりも長秀の知名度は高いかもしれない。
 その後も数々の戦に参加し、安土城築城のときは総奉行を務めるなど政治面での活躍も増えていく。
 佐久間信盛が失脚すると、柴田勝家に次いで織田家家臣のナンバー2になった。
 部下に厳しかった信長が、長秀だけは信用していたようで、長秀もよくそれにこたえた。信長が最初に名物の茶器を与えたのも長秀とされる。
 本能寺の変のときは長宗我部軍を討つため四国にいた。山崎の合戦では秀吉軍に加わり、ともに明智光秀軍を破っている。
 信長亡き後の覇権争いとなった賤ヶ岳の戦いでは、秀吉軍に加わって柴田勝家に対して勝利している。
 秀吉が関白になった1585年、積寸白で死去。享年51。
 積寸白というのは寄生虫の病気で、あまりの苦しさに自ら刀で腹を割いて虫を出そうとしたというエピソードが伝わっている。火葬した後、その虫が出てきてまだ生きていたのだとか。こぶし大の亀のような虫で、秀吉が医師に預けたという。
 派手さはないけど文武両道で役に立つ男、丹羽長秀をひとことで称すならそんなところか。
 邸宅址とされる場所には石碑が建つのみで何も残っていない。

 白山社ではかつて、例祭で山車の引き回しと馬の塔(オマント)の奉納が行われていたそうだ。今はもうどちらも行われていない。
 それでも、児玉村の神社の唯一の生き残りとして、これからも守っていってほしいと思う。

 

作成日 2018.5.5(最終更新日 2018.12.18)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

児玉白山社と丹羽長秀

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