戸田にある天神社。八幡社、鈴宮社、白山社、神明社とあわせて戸田には5つの神社があり、一之割から五之割の氏神だった。 それぞれの神社はからくり人形を持つ山車を所有していて、10月の第一土日に、戸田まつりが行われる。 戸田まつりと山車に関しては戸田八幡社のページに書いた。
『寛文村々覚書』(1670年頃)、『尾張徇行記』(1822年)、『尾張志』(1844年)を見ると、江戸時代を通じて五社の顔ぶれは変わっていなかったことが分かる(鈴宮が礼宮で神明は明神だった)。 戸田の山車祭りが行われるようになったのは江戸時代中期の元禄15年(1702年)のこととされる。 一之割の八幡社の創建は鎌倉時代という話もあるのだけど、他の4社についてはよく分からない。境内が除地ではなく年貢地になっているのは気になるところだ。 戸田は平安時代末の1100年頃に成立した富田荘の一部で、歴史はけっこう古い。天神社の近くには1100年頃築城されたとされる戸田城(平季政の館)があったから、鎌倉時代あたりにそれぞれの神社が建てられていた可能性はある。
地図上では天満宮となっており、拝殿にも天満宮の額が掛かっている。 ただ、神社本庁の登録名は天神社になっているので、そちらが正式のようだ。 江戸時代からすでに菅原道真を祀っていたのかどうか。もともとは天神信仰の社だったかもしれない。 戸田の人たちは神社を建てるときに代表者が集まって相談して決めたのだろうか。 八幡社、天神社、鈴宮社、白山社、神明社と、偶然こんなに上手くばらけるとも思えない。 割で分けられていたとはいえ、戸田村というひとつの共同体という意識はあったはずで、棲み分けをしようと決めたとしても不思議ではない。 どういう話し合いが持たれて、どんな決め方をしたかは分からないけど、5社のバランスはいい。
今昔マップ(1888-1898年)を見ると、天神社は戸田村の北西、集落から少し外れたところにあったことが分かる。 戸田のあたりは戦後になっても田んぼが多く残っていた地区で、天神社が住宅地の中に取り込まれる恰好になったのは1960年代以降のことだ。 田んぼがほとんど姿を消したのは2000年代に入ってからだっただろうか。 江戸時代は戸田米というブランド米が作られた米どころで、藩主にも献上されたという。
二之割、天神社のからくり人形は、越後獅子だ。 頭に獅子頭を乗せて、太鼓とバチを持った親唐子の右肩に子唐子が乗って踊る。 山車はそれほど派手なものではないものの、江戸時代に作られたもので、名古屋市指定有形民俗文化財に指定されている。 1959年(昭和34年)の伊勢湾台風で大きな被害を受けているから、江戸期の姿とは多少違っているのかもしれない。 創建300年目に当たる2002年に一之割から五之割までの山車揃えが行われ、それを機に4年に一度の本祭が開催されることになった。前回は2018年だったから次回は2022年だ。
作成日 2017.10.3(最終更新日 2019.6.23)
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