戸田の五社のうち、三之割に当たる神社。 戸田には鈴宮社、八幡社、天神社、白山社、神明社の5社があり、それぞれ一之割から五之割の氏神として、山車とからくり人形の祭り(戸田まつり)が江戸時代から行われてきた。 そのあたりについては一之割の戸田八幡社のページに書いた。
5社の中で、この鈴宮社はやや異色の存在だ。他の4社がメジャー系列なのに対して、鈴宮社はそうではない。 境内に「靈宮社」と彫られた古い石柱があり、入り口には「靈宮社」の社号標とお堂がある。 そのため鈴宮を「れいぐう」と読むとしているようだけど、神社本庁の登録名は「すずのみや」となっている。 江戸時代後期の『尾張志』(1844年)では「鈴宮ノ社」、『尾張徇行記』(1822年)では「鈴宮」となっている。 それが江戸時代前期の『寛文村々覚書』(1670年頃)では「礼宮神」という表記になっている。「礼宮」を「すずみや」とは読めないから、やはりもともとは「れいぐう」だったと考えてよさそうだ。 ただし、この神社の創建が鎌倉時代あたりまでさかのぼるとすれば、表記や読み方は違っていた可能性もある。 「礼宮」ではなく「礼宮神」としている点も気になるところだ。理由はあるはずだけど意味は分からない。
『尾張志』は鈴宮ノ社について「熱田の鈴御前と同神なるへし」と書いている。 熱田の鈴御前は、今の鈴之御前社(すずのみまえしゃ)のことだ。 その熱田の鈴御前については『尾張志』でこう説明する。 「鈴(スズ)ノ御前社 精進川の辺にあり俗に此所を鈴の宮といふ祭神詳ならす府志に天ノ細女ノ命を祭るといへるも一伝説なから猶決めかたし」 『張州府志』(1753年)では祭神をアメノウズメ(天ノ細女ノ命)としているけどひとつの説にすぎないので決めかねるというのだ。 その上で、戸田の鈴宮の祭神を熱田の鈴御前と同じとしているのはどういうことか。 祭神は今も変わらずアメノウズメということになっている。 熱田の鈴御前は、熱田の宮宿の東の入り口にあり、熱田社に参拝する人たちの祓い所だったところだ。祓い所といえば祭神はセオリツヒメの方がふさわしい気がするけど、そういう言い伝えはない。 戸田の鈴宮がいつ建てられたかによっても話は違ってくる。熱田の鈴御前と関係があるのかないのか。 戸田は平安時代末に富田荘という荘園だったところで、近衛家が領した後、北条家、鎌倉円覚寺などに渡っている。 村民主導で建てたのか、支配者が建てたのかによっても意味合いが変わってくる。 1608年の備前検地のときも除地になっておらず、江戸時代を通じて年貢地だったのは何故なのか。 『寛文村々覚書』に「須成村 三郎太夫持分」とある。須成村は隣村で、今の蟹江町のあたりだ。戸田村に祠官はいなかったのだろうか。
三之割、鈴宮社のからくりは、文字書きだ。 一体の唐子が蓮台を廻し、もう一体の唐子が紙に筆で文字を書く。日本語だけでなく英字まで書けるらしい。 戸田まつりは毎年10月の第一土日に行われる。4年に一度の本祭は、5社の山車が一堂に会する。前回が2018年だったので、次回は2022年の予定だ。
作成日 2017.10.4(最終更新日 2019.6.23)
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